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新聖歌465

いつかは知らねど

いつかは知らないけれど

以下、各節ごとに上段に歌詞、下段に歌詞の現代語訳を掲げる。

1.
いつかは知らねど 主イエスの再び
この世に来たもう 日ぞ待たるる


その時聖徒は 死よりよみがえり
われらも栄えの 姿とならん
(注1)

(現代語訳)
いつかは知らないけれど  主イエスが再び
この世に来られる〔その〕日こそ 待ち望まれる。


そのとき〔世々の〕聖徒は死からよみがえり
われらも 栄光の姿となるだろう

2.
悩みは終わりて 千歳
(ちとせ)の世となり
あまねく世界は 君に仕えん


荒野に水湧き 砂漠に花咲き
み神の栄えを 仰ぎ得
(う)べし

(現代語訳)
その日、この世の〕悩みは終わって 千年の〔至福の〕世となり、
世界はすべて〔、イエス〕君に仕えるだろう。


荒野には水が湧き〔出て〕 砂漠には〔一斉に〕花が咲き、
み神の栄光を〔必ずや、〕仰ぐことができるだろう。

3.
されば
(な)えし手を 強くし求めよ
弱りし膝をも 伸ばし歩め(注2)


約束のごとく 主は世に来たりて
迎えたもうべし そのみ民を

(現代語訳)
それゆえ萎えた手を 強くし〔、熱心に〕求めよ。
弱った膝をも 伸ばし〔、力強く〕歩め。


約束どおり 主は〔この〕世に来て
〔必ずや〕迎えてくださるだろう ご自身の民
を。


4.
その日を望みて 互いに励まし
十字架を喜び 負いて進まん


嘆きも悩みも しばしの忍(しの)びぞ
たのしきたたえの 歌と変わらん

(現代語訳)
その日を〔待ち〕望んで 互いに励まし
〔己の〕十字架を喜び〔背〕負って 進もう。


嘆きも悩みも〔もう〕しばらくの忍耐だ
〔その日には〕楽しき讃美の 歌と変わるだろう。

5.
(たずさ)上げられ 主イエスに抱(いだ)かる
その日の喜び いかばかりぞ


備えは終われり いざ来りたまえ
花婿なる主よ 救い主よ

(現代語訳)
携え上げられ 主イエスに抱
(いだ)かれる
その日の喜びは〔いったい〕どれほどか。


お迎えの〕備えは終わりました どうぞ、いらしてください。
〔われらの〕花婿である主よ 救い主よ。

​〔 〕内は補足

♢ ♢ ♢ ♢

注1イエスの《再臨》、《復活》と《栄光のからだ》

心を騒がせてはならない。神を信じ、またわたし〔イエス〕を信じなさい。

わたしの父の家には住まいがたくさんある。・・〔私は、〕あなたがたのために場所を用意しに〔天に〕行くのだ。

行ってあなた方のために場所を用意したら、〔再び〕戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる」(ヨハネ 14:2~3)


イエスを復活させた方〔、父なる神〕が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと共に〔神の〕御前に立たせてくださると、私たちは知っています」(コリントⅡ 4:14)。

私たちの本当の〕国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが〔再び世に〕来られるのを、私たちは待ち望んでいます。

キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑(いや)しい体を、ご自身の栄光の体同じ形に変えてくださるのです(フィリピ 3:20~21)。

「実に、被造物全体〔、自然界〕が今に至るまで、共に呻(うめ)き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。

被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖(あがな)われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。私たちは、この希望のうちに救われているのです」(ローマ 8:22~24)。

冒頭のイエス・キリストの言葉と、使徒パウロのことばが教えるように、歴史の終末に対するキリスト者の希望は、キリストの《再臨》による《神の国》の完成(=自然界を含めた歴史的世界の救の希望)であると共に、死者の《復活》(=個々の人間の救済の希望)である。


人間の復活は、十字架に死んだキリストの〈復活のできごと〉とつながっており、キリストの復活に与(あずか)ることである。


聖書の指し示す《復活》は、《ギリシャ的霊魂不滅論》とは異なる。

 

この霊魂不滅論は肉体と霊魂を分ける〈霊肉二元論〉であり、霊魂だけが永遠の世界に属する、価値あるものであり、死は霊魂を肉体という牢獄(ろうごく)から連れ出して、霊魂の永遠のホームに連れかえることである。


したがって、霊魂不滅の信仰においては、霊肉を持った人間による〈歴史〉は意味を持たず、肉体は救済の外に置かれることになる。


しかしキリスト教信仰における《復活》は、人間の個としての存在、つまり霊魂と肉体を持つ人間のトータルの(全人的な)救いを意味する。


私たちのからだは、終わりの日に罪と死のトゲを抜き去られて、キリストの復活の命(永遠の生命)を与えられる。こうして、わたしたちの生来のからだは贖われて、《栄光のからだ》へと変えられる。


またイエスが十字架に死んで、復活されたからには、同じように神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと同じように死から導き出す、つまり復活させてくださるであろう。


これが、人間に対する神の救済行為の完成・成就であり、私たちの希望である。

 

マラナ・タ(われらの主よ、来たりませ)!

(注1の参考文献:熊谷政喜ら編『キリスト教概論』新教出版社、1984年、201~224項、「第7章 終末論 伊藤忠彦」

注2 萎えた手を 強くし、弱った膝を伸ばしなさい

​「だから、萎(な)えた手と弱った膝をまっすぐにしなさい。また、自分の足のために、まっすぐな道を造りなさい。

不自由な足が道を踏み外(はず)すことなく、むしろ癒やされるためです」(ヘブライ 12:12、13)。

 

注3 イエスの御言葉に固着する

終わりの時の混乱のただ中にあっても、イエスの御言葉(みことば)によって私たちはまっすぐに立ち、自信を持ち続けることができます。

 

私たちを取りまくあらゆるものが死を語っている時でさえ、イエスの御言葉は私たちを支え、励まし、いのちを与えてくれます

イエスの御言葉は、永遠のいのちに至る食べ物です。

イエスの御言葉は、私たちにアイデアやインスピレーションを与える以上の働きをします。私たちが朽つべき肉体に留(とど)まっている間にも、イエスの御言葉は私たちを永遠のいのちに導きます。

私たちがイエスの御言葉から離れることなく、御言葉を思い起こし、心にかみしめ、魂の糧として味わう時、〔私たちは〕神の永遠の愛の中へより深く招き入れられることでしょう」。

(ヘンリ・ナウエン著、河田正雄訳『今日のパン、明日の糧(かて)』日本キリスト教団出版局、2019年、299項より引用。原著:"Bread for the Journey A Daybook of Wisdom and Faith" by Henri J. M. Nouwen,1997。〔 〕内は補足

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