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最終更新日:2024年11月11日
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<信仰と人生
詩歌 069
2023年6月13日更新
水野 源三
【十字架の愛】
Love of the cross
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☆まばたきの詩人 水野源三の世界〖悲しみよ ありがとう 〗へYouTubeへ
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* * * *
十字架の愛
1.
主イエスが歩まれた道は
昔も今も誰も歩いたことがない
主イエスが歩まれた道は
私を真(まこと)の道へ導くため
歩まれた十字架の道
2.
主イエスが語られた言葉は
昔も今も誰も語ったことがない
主イエスが語られた言葉は
私を罪の中から救うため
語られた十字架の言葉
3.
主イエスが示された愛は
昔も今も誰も示したことがない
主イエスが示された愛は
私の心に愛をみたすため
示された十字架の愛
♢ ♢ ♢ ♢
(出典:水野源三詩集 第1集『わが恵み汝に足れり』アシュラムセンター、1975年)
注1 まばたきの詩人 水野源三(みずの・げんぞう)
1937(昭和12)年、長野県埴科(はにしな)郡坂城(さかき)町生まれ。1984(昭和59)年2月6日召天。享年47。
「水野源三さんは1937年に長野県埴科郡坂城町生まれた。
幼い時に脳性麻痺(まひ)を患(わずら)い、生涯、坂城町はおろか、自宅さえ自力では一歩も出ることができなくなった。
しかし、「まばたき」によって紡(つむ)いだ詩・短歌・俳句・讃美歌などの作品は雑誌の投稿欄をとおして多くの人の知るところとなり、後に『わが恵み汝(なんじ)に足れり』『主にまかせよ汝(な)が身を』『み国をめざして』(アシュラム・センター)の四冊の詩集に結実した。
・・・
源三さんはうたう。
「悲しみよ悲しみよ本当にありがとう」「もしも私が苦しまなかったら」と。
その感謝は決して苦しみがなくなったからではない。
むしろ「脳性麻痺の苦しみも悲しみも」味わい尽くした源三さんが到達した、信仰の極致から発せられた感謝の言葉である。
だからその言葉は今なお、苦しみの中にいる多くの人の心を打つ。」
(出典:写真・森本二太郎、朗読・中村啓子『私は私らしく生きる 水野源三詩集』日本キリスト教団出版局、2012年、「まばたきの詩人 水野源三さんのこと」より引用。( )内は補足)
また、高橋三郎(無教会の独立伝道者)は、詩集第1巻『わが恵み汝に足れり』(1975年)の序文において、次のように述べている。人物紹介04〖高橋三郎 〗へ
「この詩集の著者である水野源三さんが、不治の病に冒(おか)され、一切の行動の自由を奪われたのは、昭和21年(1946年)の夏、小学校4年生の時であった。
〔当時、地域一帯を襲った〕赤痢のため高熱が続き、ついには脳を冒され、脳性麻痺になったのである。
手足を自由に動かせなくなったばかりでなく、ものも言えなくなって、外界に対する意思表明の手段としては、まばたきをすることしかなくなってしまった源三さんと、彼をみとる御家庭の方々の悲嘆は、いかばかりであったろうか。
しかも〔太平洋戦争敗〕戦後の貧窮おし迫るなかで、5人のお子さんをかかえたこの御一家の苦闘いかばかりなりしかと、お察しせずにはいられない。
〔そして、源三さんは家族以外の人々との接触を避け、6畳一間に、悲しみと失意の日々を送っていたのである。〕
しかし幸いなことに、その後5年ほどたった〔13歳の〕頃、坂城町で伝道しておられた宮尾牧師を通して、この御一家にキリストの福音が伝えられ、源三さんの閉ざされた世界に、一条の新しい光がさし込んで来た。
幸い眼と耳は冒されていなかったので、この時から源三さんは、喜んで聖書に読みふけり、またラジオの「ルーテル・アワー」や、「世の光」などの番組を聞くようになったばかりでなく、聖書の通信講座すら取り寄せて、勉強するようになられたという。
ただ最大の難関は、自分の意志を外に向かって表現することであったが、「あいうえお」の五十音図を壁に掛け、お母さんがその時を順次指さして行って、自分の望む字まで来たとき目で合図〔まばたき〕をするという方法を用い、一字一字を拾って行き、これで一つの文章を綴(つづ)るという方法が考案された(今では表は用いず、口頭でかなり早く、この操作ができるようになっている)。
こうして源三さんは、通信講座の答案を書いたばかりでなく、実に多くの詩〔や短歌〕を生み出すようになったのである。
それを拝見して深く心を打たれたのは、身の不遇をかこち、苦痛を訴える言葉がほとんど見当たらず、主イエス・キリストと相(あい)まみえることを許された身の幸せを感謝し、同じく病(やまい)に苦しむ人々の上に思いをはせる言葉で満たされていることである。
一瞬にして行動の自由と言葉を奪い去られて以来、もう28年もの間(注 1975年時点)、源三さんは寝たきりの生活を、続けて来たのである。この世的に見れば、それはたしかに牢獄の生活であった。
それにもかかわらず、キリストの生命を注がれたが故(ゆえ)に、源三さんの全存在が、天来の光を放ち始めたのである。
何という驚くべきことであろう。
ここまで源三さんを守り支えてきた最大の功労者として、御母上〔うめじさん〕の献身的な愛の労苦に私どもは心から感謝しなければならぬが、その母上も、昨年来病の激痛に襲われ、昼夜をわかたぬ苦痛との戦いの中に投げこまれて、今は二人床(とこ)を並べて臥(ふ)す身となってしまった。
この御一家の上に打ち下ろされた試練の鉄槌(てっつい)は、あまりにも痛ましい。
しかしそれにもかかわらず、主は必ずやその全能の御業(みわざ)を示し、その栄光を顕(あら)わしたもうであろう。
私どもはそれを固く信じて、この御一家のため祈り続けたいと思う。
そして、かくも長きにわたる試練の中から、この濁(にご)りきった世に注ぎ出された源三さんの真清水(ましみず)にような詩を通して、多くの人の心に天来の香気が伝えられることを、切に願ってやまない。 1975年1月1日」
(全文引用。ルビ、( )、〔 〕内は補足)
注2 水野源三と師の愛
林久子氏は、兄源三と高橋三郎との交流について、次のように証言している。
「兄〔源三〕が高橋三郎先生を知ったのは、『わたしの杯-クリスチャンシベリア女囚の手記』(いのちのことば社)の著者益田泉先生が坂城(さかき)で講演をし、わが家に泊まったことが縁です。
益田先生から高橋先生を紹介され、高橋先生がなさった、農業を愛する青年の集まりである愛農聖書研究会での〔聖書〕講義テープを送ってもらって聞くようになったからです。
兄はそのテープ〔聴講〕の〔応答として毎回、〕返事を〔先生に〕出していました。兄の講義の返答は”満点”だったそうです。
兄は高橋先生を知ることで、信仰がより深くなり、そして毎日が充実していったように思います。〔兄にとって、先生は〕生涯の師でした。
兄はテープを聞きながら〔その中で、〕みんなが笑っている所で〔自分も〕声を立てて笑っていました。私はそんな兄の姿を見て、自分までうれしくなったものです。
また先生の方も、よくハガキをくださいました。・・・
そして、初めて先生にお会いしました。・・おだやかでいつも笑顔の絶えない先生でした。
とても忙しいその先生が、私たちのつたない字を読み取って、兄の詩集の編集をして下さったのです。また先生は母の命日を覚えていてくれていて、いつも励ましの手紙をくださいました。
兄は〔頼みとしていた〕母を亡くしたけれど、先生から学んだ信仰と先生の暖かい励ましで、以前にまして創作に意欲を燃やしていました。・・・
その高橋先生が病気で倒れました。
兄を訪ねた時、「ねえ、源三ちゃん、今度詩集はいつ出るの」と聞きました。兄は「先生が倒れたので、もうだめ」と教えてくれました。
「本当に源三ちゃんもかわいそうだね、次から次と悲しみが襲ってくるね、でもきっと、先生は治ると思うよ」と私は兄と一緒に神さまに祈りました。
「便り」
心が凍(こご)える
小雪がちらつく
真冬日
先生から
凍える心を
温かく包む
便りが届きました
先生の
優しいまなざし
奥さんの若々しい笑顔
同封されていた
一枚の写真に
凍えた心が
温かくなりました
この詩を読んだ時、本当によかったと心から思いました。そして〔人の思いを越え、〕第三詩集『今あるは神の恵み』ができたのです。・・・・
その後、兄が47歳で亡くなった年に、心から楽しみしていた第四詩集『み国をめさして』が高橋先生の血のにじむような努力によってできました。
父と母
失いし我(われ)を
キリストに
ありて支えて
くれる師の愛
父母が亡くなってからの兄の支えは、〔まさに〕この詩のとおりだったと思います。」
(出典:林久子・文、水野源三・詩『悲しみよ ありがとう -まばたきの詩人 兄・水野源三の贈り物- 』日本基督教団出版局、2020年、65~69項「高橋三郎先生」より引用。ルビ、〔 〕内は補足)
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