イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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* * * *
〔 6 〕
〔6-①〕
第三に、より一層身近な問題として、内村先生の時代と現代の相違を感じさせるのは、現代社会における著しい、《人間の機械化》、《非人間化》でありましょう。
その結果、聖書の問題と直接、関係づけて言えば、信仰の前提となるべき道徳の規範(きはん)が根本からゆらいでいる状況であります。
〔6-②〕
内村先生の信仰は、先生自ら言われ、人もよく言うように《武士道に接ぎ木されたキリスト教》であり、儒教的武士道的な日本の旧道徳が、聖書の用語を用いて言えば〔、人をキリストに導く〕《律法》として〔の役割を果たし、〕先生の信仰の根底を支えていたと思われます。
〔6-③〕
ところが今日、ことに第二次大戦後の〔現代〕日本において〔は〕、《武士道》は、もとより影を潜(ひそ)め、道徳的権威は地を払い、広い意味における《ニヒリズム》(虚無主義)が若い方々の精神状況となっているのです。
このような状況において、若い方々が〔哲学者・〕ニーチェのように「神は死んだ」と叫ぶのは一応、当然であり、神の問題などは全く問題にならないという生活感情が一般化しているのです。
〔 7 〕
〔7-①〕
以上を総括して申しますならば、現代は内村先生の時代に比して、なんといっても「信仰に遠い時代」、「神がその御顔(みかお)を隠された時代」であると言わざるをえないでしょう。
しかしこのような、人間的に言えば信仰の困難な時代、神が御顔を隠されたように思われる時代こそ、かえって真の信仰が我々に与えられ、全人類に与えられるべき時代ではないでしょうか。
聖書の教える信仰は、あらゆる時代の困難に打ち勝たせる神の力であります。問題は、この神の力の源泉を掘り当てるくらいに我々が聖書を読むかどうか、です。
〔7-②〕
確かに、現代の教育は道徳的バックボーンを欠いており、社会の風潮も著しく享楽的であって、このことは、ことに若い方達の信仰の成長に〔とって、〕決して好条件ではありません。若い方々に接し、伝道をしていて、私はそのことを感じます。
《罪》の自覚は道徳的自覚が鮮明でなければ与えられず、したがって《罪の赦し》の信仰も与えられないでしょう。
しかし根本的には、道徳的自覚は聖書によって鮮明にされる。信仰によってかえって、罪の問題(罪の自覚)が起こるのです。
〔7-③〕
だが、その信仰〔そのもの〕が分からない、と言われる方がいるかも知れない。
しかし、もともと信仰は不信仰のどん底において上(神)から与えられ〔る、しかも〕、我々がもはや信ずる力すらなくなった時に、全くの恵みとして与えられるものであります。
福音書にあるように、「信じます。信仰の無い私をお助けください」(マルコ 9:24)というのが、信仰の〔本当の〕姿であります。
もしそうだとすれば、私が指摘したような現代の困難は、かえって我々の信仰がいよいよ純粋に《信仰のみ》の信仰になるために、神から与えられ、または課せられた恵みである、と思われるのです。
〔7-④〕
いわゆるオートメーション(自動化)が進んで、人間が全く機械に奉仕するような時代が来ても、人間の知性の大部分を機械〔、人工知能、AI〕が代行するような時代になっても、人間に残される最後の一点は、もはや機械がどうすることもできない〔究極の〕一点として残されるように、私は思います。
その時、人間は「〔神によって〕驚くべきものに」造られた、という詩篇139篇の詩人の言葉が新たな光を放つことと思います。その時本当に、創(つく)り主なる神への信仰が人類に分かるのではないでしょうか。
〔7-⑤〕
医学の力で人体を改造し、新しい人間を造り出したと思っても、人間性の最も深いところは、神の力によって〔新たに〕造りかえられなければ、あくまでも《古き人間》として残るものと思われます。
新しく生まれ変わりたい、〔つまり〕《新生》ということ、これは人間の魂の最終的な要求だと思いますが、医学の力や環境の改善によって〔いくら〕人間を改良しても、《古き人間》の重苦しさは、ついに最後まで残るでしょう。
その時、人類は《罪の赦し》による《新生》を心から求めるようになるのではないか。
〔たとえ〕宇宙船を飛ばして宇宙の隅々まで探究しても、人間の真に求めてやまない本当のものは、神以外のどこにも見つからないのではないでしょうか。
〔7-⑥〕
全世界の社会革命が成就(じょうじゅ)したとしても、最終的に戦争の脅威はなくならない、人間はついに本当の幸福をつかむことはできないと思われます。
そのとき初めて人間は、聖書の教える《身体の復活》、《キリストの再臨》による《万物の復興》、《宇宙の完成》を真に希求するようになるのではないでしょうか。
〔7-⑦〕
このように、人間が自分の力と知恵の限りを尽くして努力しても、人間の根源的な問題は解決しないのではなかろうか。
そして、それは聖書の教えるところによれば当然であり、その理由は簡単です。それは、人間はついに人間であり、神ではないからであります。
〔あくまでも〕「人間が人間であり、神が神である」ということ。
この一つの真理を知るために、人間の真理探究は〔あらゆる時代を通じて、〕今日(こんにち)まで続けられてきたのです。そして今日は、この探究が飛躍的に新たな段階に入った時代です。
それだけに〔歴史の〕夜明けは近く、歴史の最後の時(=歴史の終末)もまた近いように思われるのであります。
内村先生が最期の病床で〔その実現を〕祈られた、《宇宙完成》の時。
現代の困難に際〔会〕して〔我々は〕、その時を待ち望まざるを得ないとともに、「人の子〔キリスト〕が再び来るとき、地上〔で人々の間〕に信仰を見るであろうか」とのイエスの厳しい御言葉(みことば)を想起いたします。
〔おわり〕
♢ ♢ ♢ ♢
(出典:関根正雄「内村先生と現代」、鈴木俊郎編『内村鑑三と現代』、46~49項より引用。( )、〔 〕内、下線は補足。文意を損なわない範囲で、表現を一部変更)
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