イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2024年12月7日
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* * * *
〔 4 〕
〔4-①〕
次に私が問題としたい第二の点は、内村先生〔の時代〕と現代との相違であり、この点をごまかしなく、はっきり認識しなければ、内村先生を記念する意味はまた、失われると考えます。
ここでは、信仰の問題、神の問題に限定し、内村先生の時代と現代の著(いちじる)しい相違点について述べてみたいと思います。
〔4-②〕
第一に、自然科学の異常な発達と、それに伴う技術の発達を挙げなければなりません。
内村先生が当初、自然科学者として出発され、また終生、自然科学に興味と関心を持ち続けられたことは、周知の通りです。
ヨーロッパにおいて、近世における自然科学の発達がキリスト教信仰に対して多くの問題を提出し、いわゆる「科学と宗教の対立」という困難な事態を惹(ひ)き起したことは、歴史をひもとく者の、皆(みな)知るところです。
しかし、ごく最近に至るまで、科学と宗教の間の摩擦や対立ということは、それほど深刻な問題であったとは考えられません。
〔4-③〕
内村先生と自然科学という問題が興味深い主題であることは、すでに多くの人が指摘したとおりですが、先生は自然科学をキリスト教の信仰と矛盾するものとはお考えにならなかった。進化論の問題に対しても、そうでした。
我々はもちろん、そこに先生の強力な信仰から発する優れた問題解決を見るわけですが、他面、先生の時代の自然科学は、宇宙における人間の位置〔付け〕について、それほど大きな考え方の変革を要求していなかった、と思うのです。
〔4-④〕
ところが第二次大戦後、原子力の偉大な発見と開発に伴い、人間の宇宙に対する関係は全く新たな様相を呈するようになった、と思われます。
人工衛星が地球の周囲を回り、月や火星にまでロケットが打ち上げられるという宇宙時代の幕がすでに切って落とされ、人類は科学の力で今や、宇宙を支配する〔かの〕ような意気込みを示しております。
〔4-⑤〕
かつて天文学者ケプラーは、天体を観測して宇宙の整合美に〔心〕打たれ、創造者(神)を讃美し、内村先生は、顕微鏡下に初めて鮑(あわび)の卵子を発見して、〔宇宙〕万物の造り主なる真(まこと)の神に感謝の祈りを捧げました。
しかし、今日の宇宙科学の発達は、今まで見られなかった深刻な意味において、人類を神から離れる方向に追いやりつつあるように思われるのです。
〔今や、人々の意識においては〕神が宇宙の支配者ではなく、人間が宇宙の支配者になりつつあります。
〔4-⑥〕
人間はやがて、生命(せいめい)を〔遺伝子工学的に〕造り出すことができると主張する科学者がおり、また他の惑星に人間と同じような〔知的〕生命体がいるのではないかと想像されている現代です。
このような時代に人類全体が〔その前に〕再び新たに立たされている大きな問題は、「はたして神はいるのか」という問題ではないでしょうか。
〔 5 〕
〔5-①〕
次に、より身近な我々の問題は社会の問題であり、この点においても内村先生〔の時代〕と現代とでは、大きな相違が見出されるのです。
「現代は組織の時代である」といわれます。近代合理性の産物としての社会組織の複雑化とそれ自身の法則性が、デーモン化した組織の力を生み出し、個人と社会は分離し、もしくは個人は社会の中に埋没しつつあります。
〔5-②〕
このような状況は、キリスト教の信仰に対して困難な課題〔の提出〕を意味することは言うまでもありません。
旧約預言者の昔から今日に至るまで、信仰は現実の歴史や社会の問題との生きた関係において主張されてきました。
ところが今日では、個人が社会と分離し、もしくは個人が社会に埋没する傾向が強く、それがそのまま信仰に微妙な影響を与えている、と思われます。
〔5-③〕
一例を組合運動にとるならば、我々のある人は、〔信仰の故に〕始めから組合に加わろうとはしない。このような立場をとる人は、信仰の故に社会と分離せざるを得ないわけです。
他方もちろん、信仰者であっても組合運動に積極的な意味を認める人もいる。
私は今ここで、この二つの立場のどちらが信仰的に正しいかを論じようとは思いません。これは、各人の信仰の決断に委(ゆだ)ねるべき問題でありましょう(注1)。
〔5-④〕
ただ、ここで私が指摘したいのは、現代においては今までの時代より、より強度に社会や政治の問題はそれ自身の法則によって動いており、その結果、信仰者は社会や政治と遊離するか、あるいは逆に、社会や政治の自己法則性の中に巻き込まれる危険が著(いちじる)しいということです。
〔5-⑤〕
内村先生の時代には、先生の政治に対する発言はそのままに、信仰の発言でした。また、それが全体として可能な状況でした。
社会や政治の自己法則性がそれほど著しくなかったからです。先生の上からの発言が、そのまま下まで届いた、と言ってよろしいでしょう。
〔5-⑥〕
ところが今日では、必ずしもそうはいかない。今日の我々は、社会や政治の問題に対して《信仰のみ》の立場を貫くことに特殊な困難を感じております。
私は、〔旧約〕預言者以来、政治に対する信仰の発言は《批判》という形で為されてきたし、今日でもそう為されるべきだと思うのですが、今日の状況においては、その〔信仰の〕批判が全く為されないか、あるいは為されても、あまりに超越的な批判になっ〔て現実から遊離し〕たり、あるいは社会の問題の中に内在しすぎて〔単なる社会批判となり〕、もはや信仰の批判ではなくなる傾向がある、と思うのです。
〔5-⑥〕
それ故、〔旧約〕預言者や内村鑑三の持っていたような、現実に対する信仰の生きた緊張〔関係〕が失われる傾向がある。
預言者の《メシア信仰》や内村先生における《再臨の信仰》のような生きた《終末的信仰》が、そこから生まれてこないのではないか。
〔5-⑦〕
さらに資本主義社会における経済的不平、失業や貧困等、社会主義社会〔や独裁国家〕における全体主義の個人の良心に対する圧制等は、信仰者にとってもどうにもならない困難な問題であって、今日、世界中の真面目な信仰者が苦しんでいる問題である、と言わなければなりません。
〔5-⑧〕
一言で言えば、個人を越えた、どうにもならない社会の問題が大きく、我々の上にのしかかってきている。ここにおいて、今日の多くの人にとって、神は社会という大きなデーモンの影に隠れている。
現代の真面目な人々は、「神ははたしているのか」、「いるとしても、その神ははたして正しい神なのか」という旧約のヨブ記以来の問題を、大きな歴史の舞台の上で問わざるを得ないのです。
〔5-⑨〕
かつて〔ロシアの文豪・〕ドストエフスキーは、『カラマーゾフの兄弟』の中でイワンの口を借りて、この世界に行われる不正・不合理を指摘し、殊(こと)に罪のない者が苦しまねばならないという〔この世の〕矛盾の前に立って、「それでも神はいるのか」との問いを発したのですが、今日では、この問いはドストエフスキーの時代と比べものにならない程、複雑かつ深刻な意味において、現代人の〔根源的な〕問いとなっているのです。
〔つづく〕
♢ ♢ ♢ ♢
(出典:関根正雄「内村先生と現代」、鈴木俊郎編『内村鑑三と現代』、42~46項より引用。( )、〔 〕内、下線は補足。文意を損なわない範囲で、表現を一部変更)
注1 歴史・社会とどう向き合うか-この世(社会)に処する二つの道
以下の溝口正の文章は 、この世(社会)の問題に対する信仰者の在り方を深く問うものである。
二つの道
溝口 正
キリストを信じる者が、この世に処する生き方に二つの道がある。
一つは、心にイエスの十字架、復活を信じつつ、この信仰を外に言い表すが、この世の問題にかかわることを避け、時代の流れに棹(さお)さし〔て結果的に、時流に対して暗黙の支持を与え、時流に乗っ〕て生きる道である。
もう一つは、前者と同じように、十字架、復活を心に信じつつ、その信仰を外に言い表すと同時に、この世の不義・不正に対しても、主に押し出されるならば、黙(もく)すことをせず、信仰による愛の戦いを回避しない生き方である。
この二つの道は、病気や障害や老化などによって不自由な人にも〔、等しく問われており〕、どちらの道を歩むかは、祈りの内容として神の御前(みまえ)に捧げられるであろう。
どちらの道を歩むかは、その人の自由である。同時に信仰者が神から示された道をいかに誠実に歩むかは、その人自身の責任である。
(溝口正主筆『復活』第408号、2000年11月。浜松聖書集会『みぎわ』第62号、2022年11月「巻頭言」を転載。( )、〔 〕内、下線は補足)
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