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* * * *

聖書の最終真理

-神の国・復活の希望-

はじめに

〔1-①〕
聖書を通して、人は様々な真理を学ぶことができる。

 

では、その中で、聖書が説く最終かつ究極の真理は何か。


聖書によれば、この世界と歴史は無目的に、ただ延々と続くのではない。また円環的に歴史が繰り返されるのでもない。

 

この世界と歴史には、明確な目標があり、終着点がある。

 

歴史の終局において歴史世界と天地・宇宙は完成し、《神の国》が実現する。

 

その時人間は、その身体(からだ)から罪と死の棘(とげ)を取り除かれて、〈栄光の体〉へと変えられる。

また、すでに召されたすべての人は《復活》し、全く新しい〈復活の生命〉、すなわち《永遠の生命》に生かされる(注1)。

 

神の国》と《復活》。これは、天地宇宙と人間に対する神の救済行為の完成・成就(じょうじゅ)であり、聖書の〈最終真理〉と呼ぶにふさわしい。

 

〔1-②〕
では無教会の先達である内村鑑三は、どのようにして《神の国》と《復活》の希望(信仰)を抱くに至ったのか。

そして、神の国》の希望に生きるとは、どういうことか。

 

これが、本論考において共に探究したいことである。


探究の手がかりとして、我らはまず、内村の「恩恵と艱難」という一文に注目したい。なお、文中の「恩恵」は「希望」と言い換えることができよう。
 

内村は言う。


「〔神を信じたからといって〕恩恵は、直(ただち)に〔信じる者のもとに〕来るものではない。

むしろ恩恵は、〕困難を通して来るものである。

 

困難は、恩恵を〔われらの〕身に呼ぶための〔、無くてはならない〕中間物である。


燃料がなければ〔燃える〕火もないように、困難がなければ〔まことの〕信仰も歓喜もない〔のである〕。


火に先立つものは、煙である。〔同様に、〕信仰に先立つものは、疑懼(ぎく、懐疑と恐れ)であり、煩悶(はんもん)である。

 

まず〕これ〔ら〕があり、〔そして、〕これ〔ら〕に天からの火が点灯して始めて、天来の平安と喜悦(よろこび)とが我らの心(霊魂)に臨(のぞ)むのである。


困難を(へ)ずに深き信仰を得ようとするのは、まず煙を見ずに光と暖(だん)を得ようとするのと同様であって、〔きわめて〕難しいことである。


それゆえに、われら、神の心を知る者は、困難の到来を見て、決して驚いてはならない。

これは、恩恵の先駆けである。真(まこと)に、恩恵の始まりである」。
(「恩恵と艱難」、『聖書之研究』44号、1903年9月、現代語による引用。( )、〔 〕内は補足)。

この一文が暗示しているように、内村が《神の国》と《復活》の希望また信仰を与えられるに到った道は、決して平坦なものではなかった。


以下、我らは、その経緯を辿(たど)り、さらに、《神の国》の信仰(希望)を与えられた者の、地上の歩みについて旧約聖書・詩篇 第84篇から学びたい。

2 実験と啓示

〔2-①〕
もともと内村は、魚類学・水産学専攻の科学者であった。

 

その経歴からも分かるように、彼は書斎にこもって沈思黙考し、〈悟り〉を得るタイプの人ではなかった。

むしろ、内村の生きざま―信仰的実存―の特徴は、《実験》(現)と《啓示》にあったといって良いのではなかろうか。


内村は決して、キリスト教の〈教理〉を鵜呑(うの)にすることも、オウム返しに受け容れることもしなかった。また思弁的に了解して、分かったつもりになることもなかった(これらは、神また神の真理との生きた出会いを阻害する)。

彼は、神の真理に対して不誠実な態度をとること-無理やり信じ込むこと、盲信-を拒否したのである。

 

むしろ内村は、自分および世界ののっぴきならない事態に直面するたびに、自らの全存在(実存)を賭(か)けて、これと体当たりし、格闘した

そうして、そのつど、彼は神から新たに真理を啓示されたのだった。

 

このようにして彼は、聖書の真理を一つ、また一つと学んでいった。このような過程、また経験が、内村の言う《実験》という言葉の意味であろう。

 

〔2-②〕
実際、浅田タケとの結婚に破れ、米国に渡った若き内村は、エルウィンの知的障がい児養護院で看護人として働きながら、一人、《罪》の問題と格闘した。

 

その後、アマスト大学に編入した内村は、情愛溢れる総長シーリーの言葉によって、1886年3月8日、ついに、《回心》の経験を与えられた。


その時のシーリーの言葉は、次のようなものであった。

 

内村、君は君の内ばかりを見るからいけない。君は君の外を見なければいけない


なにゆえ〔君は〕、自己を省みることをやめて、十字架の上で君の罪を贖(あがな)ってくださったイエスを仰ぎ見ないのか。

 

君のしていることは、子供が植木を鉢に植え、その成長を確かめようとして毎日その根を抜いて見るのと同じである。

 

なにゆえ、これを神と日光にお委(ゆだ)ねして、安心して君の成長を待とうとしないのか」。
(「クリスマス夜話=私の信仰の先生」、『聖書之研究』305号、1925年12月20日。現代語による引用)


シーリーの、この一言によって、内村は決定的な回心を体験した。《十字架の贖(あがな)い》の意味が明瞭に、彼に啓示されたのである。


内村の回心について、弟子の政池仁は『内村鑑三伝』(教文館、1977年)に、こう記している。


「〔内村は、〕実に死ぬまで、しばしば罪責〔の思い〕におそわれた。

しかしその都度、彼は十字架を仰ぎ見て、これをしりぞけた。

 

実に、この日1886年3月8日は、彼の真の新生の日であった。そしてその日はまた、日本の贖罪(しょくざい)信仰の誕生日でもあった」(132項)

 

〔2-③〕
また、1912年1月12日の愛娘ルツの死によって、また彼女が残した最期(さいご)の言葉「モー往(ゆ)きます」によって、内村に「霊魂不滅は明白に証明」された(1月20日青木義雄宛書簡」)。

 

この​つらい経験を通して、彼の魂は、神から《永遠の生命》、《復活》、《来世》の希望をハッキリと示されたのだった。

 

〔2-④〕
さらに、1914年の第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)と17年の米国参戦によって、内村は欧米のキリスト教(国)に絶望するとともに、文明の進歩発展による理想世界の実現という彼の希望(進歩史観への信頼)は、崩れ去った。


キリスト教文明と歴史の進歩に対する失望によって、内村は深く行き詰まり、彼の信仰は危機に陥った。そのとき彼は、生涯の事業と考えていた『聖書之研究』誌の廃刊さえも、真剣に考えたほどであった。

 

そのような中で啓示されたのが、実に、《キリスト再臨》の信仰であった。  

              
破壊と殺戮
(さつりく)、罪と死の蔭(かげ)に沈む人類と被造物の歴史が完成に到り、永遠平和の《神の国》が地上に成就することそれはまさに〈新しい創造〉であり、神のみが成しえることである。

 

つまり《神の国》の実現は、神ご自身の介入によって、この宇宙と歴史が根本的に転換される時を待つしかない。

そしてその時は、聖書によれば、あのキリスト・イエスがもう一度、人の世に来ること(キリストの再臨)によって開始されるのだ。


この《再臨信仰》は、内村の他の思想と同様、《実験》の結果、彼に示されたものだった。

 

愛娘ルツの死や第一次世界大戦勃発が決定的契機となって、「死は果たして人間のすべての終わりなのか。永遠の生命とは何か。死者は復活するのか」、また「いかにして、人類世界に平和は実現されるのか」との長年の課題に対する答えが、彼に示されたのである。

 

〔2-⑤〕
人生の重大岐路にあって、内村はその都度、必死に神に向かって救いを求め、活路を求めた。

そうして内村は、《十字架による罪の赦し》、《復活》と《永遠の生命》、そして《キリスト再臨》による《神の国》実現の希望を神から啓示された。


実験と啓示。これが、内村の信仰的実存が我らに教える真理受領の姿ではないだろうか。


我らもまた、それぞれの人生行路においてしばしば、それまでの生き方、価値体系が大きく揺さぶられる出来事に遭遇(そうぐう)する。

 

その時、我らは〈貧しき者〉、〈低き者〉とされる。我らは神に向かって魂の叫び声をあげる。全存在をかけて必死に、神に祈る。


内村の場合にそうであったように、我らの叫びと祈りに応えて神は必ずや、救いと希望の道を示してくださるであろう。

3 天の故郷(ふるさと)を目指す旅人

これらの人々はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていないかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者(きりゅうしゃ)であることを、自ら言いあらわした。

そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。

 

しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。・・事実、神は彼らのために、〔天の〕都を用意されていたのである」(ヘブライ 11:13~16、口語訳)。


キリスト者は、自らを「地上では旅人、また寄留者」と言い表す。そして、《神の国》の希望を与えられたキリスト者は、〈人生の巡礼者〉とされる。

 

この巡礼者は、一体、どのように人生を歩むのか。


詩篇 第84篇1~8節を通して、《神の国》を目指して地上を旅するキリスト者のこころを学びたい。

詩篇 第84 18 

 

1

聖歌隊の指揮者に、ギティトに合わせて。コラハの子らの歌。

2

あなたのみ住居(すまい)は如何(いか)に愛すべきかな、
 万軍の
〔神〕ヤハヴェよ、

3

わが魂はヤハヴェの前庭(まえにわ)を慕い、

 絶え入るばかり、

わが心と身とは

 生ける神に向かって喜び呼ばう。

4

あなたの祭壇のそばに雀(すずめ)も住みかを見つけ、

 つばめもその雛(ひな)を入れる巣を見出した、
万軍のヤハヴェよ、わが王わが神よ。

5

幸いだ、あなたの家に住む人たちは、
 彼らはいつもあなたをほめ讃える。

6

幸いだ、あなたを力とし、
 その心がシオンの大路
(おおじ)にある人は。
7

彼らはバカーの谷を通っても
 そこを泉ある所とする。

また前の雨は祝福をもってそこを覆(おお)う。
8

彼らは力より力へと進み、
 シオンにおいて神にまみえる。

(関根正雄訳、月本昭男訳、聖書協会共同訳参照)

詩篇 第84篇は、遠い異邦の地からエルサレムへ宮詣(みやもう)でをする巡礼の歌である。


藤井武は、主著『詩編研究』において、詩篇 第84篇を「来世憧憬(しょうけい)」と題して講じ、エルサレム神殿を慕うこの詩から「来世(神の国)を慕う心」を聴き取っている。

 

以下、主に藤井の詩篇研究を参照しつつ、探究の歩みを続けよう。

⑴幸いだ、あなたの家に住む人たちは(2~5節)
 

2

あなたのみ住居は如何に愛すべきかな、
 万軍の〔神〕ヤハヴェよ、

3

わが魂はヤハヴェの前庭を慕い、

 絶え入るばかり、

わが心と身とは

 生ける神に向かって喜び呼ばう。

あなたのみ住居(すまい)」とは、至高の天における神の住まいのことであって、その象徴がエルサレム神殿(ソロモン神殿)であり、「前庭」とは、神殿の中の一般信徒の礼拝の場所を指す。


ユダヤの民は大いなる熱心をもって、エルサレム神殿にあこがれた。

彼らにとって神を慕う心は同時に、神殿を、そして神殿の前庭を慕う心にほかならなかった。

 

その思慕のこころは、高調な歌となって、詩篇の中にみなぎっている。


巡礼の詩人は、そこに住む神に向かって喜び、叫ぶ。「あなたのみ住居は如何(いか)に愛すべきかな!」と。


そして、「わが魂は」、「絶え入るばかり」に、つまり青ざめてやつれるばかりに「ヤハヴェの前庭を慕い」、「わが心と身とは生ける神に向かって喜び呼ばう」と彼は叫ぶ。

4

あなたの祭壇のそばに雀も住みかを見つけ、

 つばめもその雛を入れる巣を見出した、
万軍のヤハヴェよ、わが王わが神よ。

神ヤハヴェのみ住居を慕う詩人は、ついに神殿に巣を作る小鳥さえも、羨(うらや)ましく思う。

(まこと)わが王わが神である、万軍のヤハヴェの祭壇のそばに、小鳥たちは巣をかまえて雛を育て、神の家を自分の家として住まうからである。


詩人にとって、神殿は心の故郷である。

5

幸いだ、あなたの家に住む人たちは、
 彼らはいつもあなたをほめ讃える。

讃美の生活にまさる幸いはない。

幸いなのは、雀、つばめのように常に「あなたの家に住む人たち」、つまり、神の家に住む祭司たちである。彼らはそこで、たえず神を讃美することが許されているからである。


詩の第一段において、詩人は、天の国に対する憧憬を表現するとともに、すでに憧(あこが)れの地に住む者の幸いを歌い、彼らを羨(うらや)む心情を述べた。

 

この憧憬のこころの由来は、生ける神に対する詩人の切なる愛であった。


旧約の詩人は、エルサレムの神殿を憧れ、慕う。

しかし我らキリスト者は、朽ちる、地上の神殿ではなく、来世(神の国)を憧れ、慕う

 

キリスト者が来世を憧れ慕うのは、決して、もの暗い厭世(えんせい)的な思いからではない。

 

実に、神の国を慕う心は、生ける神、キリストへの愛による


藤井は言う。


まことに、来世の希望は愛に始まる。愛は神秘である、永遠である。・・

 

もし我らが、真実にキリストを愛するならば、我らは一日〔たりと〕も天の国を思わずには生きることが出来ないはずである。・・」と。


キリストこそ、わが愛する贖い主、わが喜び、わが希望、わが生命、わがすべて。

そして、そのキリストは今、天の国におられる。それゆえにこそ、我らは、キリストのおられる天の国を憧れ、慕う


旧約の詩人がエルサレムの神殿を慕ったように、パウロは天の御国(みくに)を慕いつつ、言った。


私の切なる願いは、世を去って、キリストと共にいることであり、このほうがはるかに望ましい」(フィリピ 1:23)と。


また、彼は言った。
我らの国籍は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、我らは待っています」(フィリピ 3:20)と。

まことにパウロの魂は絶え入るばかりに天の国を慕い、彼の心、彼の身は、生けるキリストに向かって喜び、呼ばわったのである。


私にとって、生きることはキリスト!

パウロが天の国(神の国)を慕ったのは、新婦が新郎を思うように、キリストを愛したからである。

⑵ 巡礼の途上にある者の幸い(6~8節)
 

6

幸いだ、あなたを力とし、
 その心がシオンの大路にある人は。

確かに、ヤハヴェの家(神殿)に住み、讃美に生きる者は幸いである。

 

しかし、幸いなのは彼らだけではない。いまだ巡礼の旅路半​(なか)ばにある者であっても、神を「避け所」とし、また神の家を望み「その心が〔神の都〕シオンの大路にある人」は同様に、幸いである。
 

7

彼らはバカーの谷を通っても
 そこを泉ある所とする。

また前の雨は祝福をもってそこを覆う。

乾燥の谷に茂るバカーの木と、干からびた砂漠のような谷。

 

エルサレムへの旅路にも、このような〈バカーの谷〉があった。〈バカーの谷〉は、〈嘆(なげ)きの谷〉であり、苦難と涙の谷である。

 

そこは普通の旅人には耐えがたく、悩ましく、危険な場所であった。


しかし、神の住居を目指す巡礼者は、このようなところを「泉ある所」に変えつつ進む


あたかも、夏の日照りの後の〈前の雨〉(10~11月の雨)がたちまち、荒れ地を一面の緑野に変えるように。

8

彼らは力より力へと進み、
 シオンにおいて神にまみえる。

多くの旅人が疲労から疲労へと落ち込んでいく中で、希望の巡礼者は、力より力へと進む。旅路が終わりに近づけば近づくほど、彼らは新しい力が増し加えられる

 

まことに、「〔神〕ヤハヴェを待ち望む者は新たなる力を得、鷲(わし)のように翼を張って昇る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ 40:31)。


そして巡礼者は、ついに目指す神の都シオンにたどり着いて、待ち焦​(こ)がれた神にまみえ、彼らの歓喜は頂点に達する。


神殿を目指す巡礼者の心は、まさに、《神の国》を目指して、この世を旅するキリスト者の心である。


   
⑶ その心、シオンの大路にある者は幸いなり


藤井は、詩篇 第84篇6~8節を「その心、シオンの大路にある者は幸いなり」と題して、感銘深く講じている。

最後に藤井の語る言葉に耳を傾けて、本論考を終えたい。


*     *     *


この一段〔詩篇 第84篇 6~8節〕は、来世の希望に生きるキリスト者の経験を表して、いかに切実かつ美(うる)わしいことか。

おそらく、聖書中、もっとも美わしき本文の一つであろう。  

彼らはバカーの谷を通っても、そこを泉ある所とする」という。〈希望の子〉で、この奇蹟を経験しない者が誰かいるだろうか。


かつて、私も一つの大いなるバカーの谷に臨んだ。

そこは誠に焼けた砂の地、火と硫黄の坑(あな)を思わせる禍(わざわ)いの谷であった。

 

私は愕然(がくぜん)として恐れ戦(おのの)き、立ちすくんだ。暫(しば)しの間〔私は〕、荒野のペリカン、廃墟のフクロウのように惨(いた)ましく〔も〕、悲哀の声を挙げた。


しかし、まもなく目を挙げて私は見た。〔神の国の都〕シオンの大路を私は想い起こした。天の国をひたすら〔仰ぎ〕望み続けた

 

その時、見よ、奇(く)しくも焼けた砂〔地〕は池となり、潤(うるお)いなき地は水の源(みなもと)と変わったのである。

 

荒野はたのしみ、砂漠はよろこんで番紅花(サフラン)のごとくに咲き出(い)でたのである。


真実の意味における私の生活は、実に、このバカーの谷から始まったのであった。


この大いなるバカーの谷は、今もなお私に続いている。恐らくそれは、私の〔この世の〕巡礼が終わるまで尽きないであろう。

 

しかしながら、私は恐れない

 

なぜなら、新たに湧き出る泉もまた無限であるばかりでなく、ついにシオンにいたって彼〔、ヤハヴェ〕にまみえる日のますます近いことを思えば、私は「力より力へと進む」からである。


今や私は、往年の学友たちが漸(ようや)く人生に倦(う)み疲れつつあるのを見る。

 

これに反して私自身は年とともに、高き希望を加えられつつある。いよいよ大いなる夢を私は見つつある。

 

今よりのち、私は鷲のように翼を張って昇るであろう。世を去る日が来たならば、おそらく〔私は〕雀躍(こおど)りしながら去るであろう。

 

それゆえ、わが〕友よ、私が召されたのを〔伝え〕聞くとき、どうか、私のために悲しまないでほしい。〔むしろ、〕歌いつつシオンの城門の中に姿を没しゆく巡礼者を見送るような、晴れやかな歓呼もって私を送ってほしい

〔ハレルヤ! アーメン〕

♢ ♢ ♢ ♢

(参考文献:『藤井武全集 第4巻』岩波書店、1971年、340~346項、「来世憧憬 詩篇第84篇」、初出:『旧約と新約』第75号、1926年9月。現代語による引用。( )、〔 〕内は補足)

1 死者の復活と朽ちない体(復活体)

 

死者の復活もこれと同じです。

(く)ちるもので蒔(ま)かれ、朽ちないものに復活し、卑(いや)しいもので蒔かれ、栄光あるものに復活し、弱いもので蒔かれ、力あるものに復活し、自然の体で蒔かれ、霊の体に復活します。

自然の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(コリントⅠ15:42~44、パウロの言葉)。

新約聖書のギリシャ語で身体(ソーマ)とは、単なる肉体のことではなく、肉体・精神・霊魂をもった丸ごとの人間を意味している。

したがって《身体のよみがえり》(復活)とは、その人の身体的特徴と個性・人格を保ったまま、つまり、ひと目でその人と識別できる形で、しかも質的に全く新しい身体(復活体=栄光の体=霊の体)によみがえることを意味している。

2 イエス・キリストの復活が意味するもの

キリスト者にとって、〔主イエス・キリストの〕復活は必然的に二つのことを意味する。

第一に、キリスト者は決して一人で生きているのではない〔という〕ことである。

すなわち、〕すべての問題の〔ただ〕中で、復活のキリストは、〔彼の〕相談相手としてそこにおられ、すべての労苦の〔ただ〕中において、〔彼の〕助け手としてそこにおられ、すべての悲しみの〔ただ〕中において、〔彼を〕慰め〔勇気づけ〕るためにそこにおられ、すべての暗い道において、〔心の中の〕恐怖を追い払うためにそこにおられ、日の光の下において、〔彼の〕喜びを二重に価値あるものとするためにそこにおられる〔のである〕(注4)。

キリスト者は、世の終わりまで、何時までも、ご自分の民と共にいるとの約束を成就された方〔、主イエス〕を〔自らの〕座右(ざゆう)に持つのである。

第二に、キリスト者は、彼のなすことで、主〔イエス〕が見ていてくださらないことは一つもなく、彼の語ることで、主が聴いてくださらないことは一つもないということを知っている。

 

それゆえに、彼は主〔イエス〕の現在(現臨)を覚えることによって、すべての悪を抑制され、自分の生活を、ご覧になっている〔主の〕眼差しに耐えるように整えなさいとの警告と励ましを与えられるのである。

復活に関して、・・・歴史学者や神学者がどのように論じようとも、キリスト者は、主の絶えることのない臨在と力、すなわち、死さえも奪い去ることのできない〔主イエスの〕臨在(りんざい)と力とを自覚しているのである。」

(​注2の参考文献:ウィリアム・バークレー『使徒信条新解』日本基督教団出版局、1970年、203、204項​より引用。原著:William Barclay "The Plain Man Looks at the Apostles' Creed 1967")

3 イエスよって罪と死を除かれ、完成した新天新地(新宇宙)を待望する讃美歌

讃美歌453番「聞けや愛の言葉を」クリックしてYou Tubeへ

 

聞けや、愛の言葉を

1.

聞けや愛の言葉を、諸国人(もろくにびと)らの
罪咎
(つみとが)を除く 主の御言葉(みことば)を、
主のみことばを。

 

*おりかえし
やがて時は来たらん、神の御光(みひかり)
(あまね)く 世を照らす明日(あした)は来たらん。

 

2.

見よや救いの君を、世のため悩みて
(あがな)いの道を 開きしイエスを、
贖いの道を 開きしイエスを、
開きしイエスを。

 

*おりかえし

 

3.

歌え声を合わせて 天地(あめつち)と共に、
喜びに満つる 栄
(さか)えの歌を、
さかえのうたを。
 
*おりかえし

 

現代語訳

1.聞け、愛の言葉を、諸国民の
罪咎
(つみとが)を〔取り〕除く 主〔イエス〕の御言葉(みことば)を、
主の御言葉を。

 

*おりかえし
やがて時は来る、神のみ光が
(くま)なく世〔界〕を照らす明日(あした)は来る。

 

2.

見よ、救いの王〔イエス〕を、世の〔救いの〕ために苦しみ〔つつ〕
〔世の罪の〕贖
(あがな)いの道を 〔切り〕開いたイエスを、
開いたイエスを。

 

*おりかえし

 

3.

歌え、声を合わせて 天地〔宇宙のすべて被造物〕と共に、
喜びに満ちた 〔神の〕栄光の〔讃〕歌を、
栄光の〔讃〕歌を。

*おりかえし

( )、〔 〕内は補足

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