イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2025年1月14日
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* * * *
ヤハヴェはわが牧者⑵
詩篇第23篇
〔 2 〕
〔人生の荒野における幸福〕
〔2-①-ⅰ〕
荒野、そして弱者。ならば、ついに絶望か。
そうではない。パレスチナの〔荒〕野における羊の生涯は絶望ではなかった。かえって、最も幸(さいわ)いなものであった。
人生もまた、そうである。人生の価値を決定する原因は、環境ではない。自分の力でもない。
環境を、荒涼とした荒野とせよ。自分を、全く無力〔なもの〕とせよ。
それにもかかわらず、われらはただ失望する必要がないだけではない。かえって歓喜と希望とに溢(あふ)れて〔神を〕讃美し、また感謝しつつ生きることができるのである。
詩人の歌う人生は、実にこれであった。彼は自ら幸いな羊となって、声高く歌い出(い)でた。
ヤハヴェ(主)はわが牧者、
私は乏しいことがない。
〔2-①-ⅱ〕
私は荒野にさ迷う羊である。
しかしながら、わが人生は失敗ではない。いや、断じてそうではない。かえって幸い身に余る、わがこの生涯!
どのようにして、これを歌おうか。ただ、わが牧者のことを言い表すのみ。なぜなら、わが歓び、わが希望、わがいのちはすべて、彼に在(あ)るからである。
彼が何者であるかによって、わが生涯の価値は定まる。彼が私に何を為すかによって、わが生涯の内容は極(きわ)まるのである。
〔2-①-ⅲ〕
わが牧者は、誰か。
〔それは、神〕ヤハヴェ!
在(あ)ろうとして在る方。
始めなく終わりなく、昔おられ、今おられ、将来来られる方。
他の何物にも依存することなく、自ら充足する方。
きのうもきょうも永遠まで変わらない愛のお方。
天地(宇宙)万物を創造し、これを保持し、これを支配する方。
まどろむことなく眠ることもない方。
私が天に昇ってもそこにおられ、私が床(とこ)を陰府(よみ)に設けてもそこにおられる方。
一度(た)び言葉が〔その口から〕出たならば空しく〔元に〕戻ることなく、必ずその喜ぶことを成(な)し、その命じ送った業(わざ)を成し遂(と)げる方(イザヤ 55:11)。
義と公正は王座の礎(いしずえ)であって、慈愛と真実(まこと)は御顔の前を進みゆく方(詩篇 19:14)。
まことに、力の力(究極の力)、知恵の知恵(究極の知恵)、そして愛の愛(究極の愛)である方。
実に、このような方がわが牧者〔なの〕である。
〔2-①-ⅳ〕
〔神ヤハヴェを〕「わが牧者」という。
〔しかし、〕始めからそうではなかった。始め私は〔自分勝手な道を歩み〕、神に背(そむ)い〔てい〕た。そして牧(か)う者なき迷える羊であった。
ところが神は、切々たる愛をもって、私を〔み許に〕招いた。神はキリストにあって、私のために生命(いのち)を捨てたのである。
〔神の愛を知って〕私は、ついに神〔のもとに〕に帰らざるを得なくなった。私はキリストの十字架の下にひれ伏して、わがすべてを神に委(ゆだ)ねた。
こうして私はことごとく、神のものとなった。同時に神もまた、完全に私のものとなったのである。
神はご自分を信じるすべての者に、自己のすべて与えずにはおかない。今や、「わが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの」〔である〕(雅歌 2:16)。
〔神の〕愛とこれに応じる信頼によって成るこの関係は、絶対である。永遠である。
〔究極的に、〕私はただ神にのみ属し、他の何物にも属しない。
もちろん、神は絶対者であるがゆえに私一人に専属することはできないけれども、しかもなお、自己のすべてを〔私に〕与えて憚(はばか)らない(多数者の一人ごとに対してこのような関係に入ることができるのは、神のみの特権である。しかしわれらもまた、神にあってこの特権に与(あずか)りうることを感謝する)。
絶対的な意味における私のもの。人はみな私に背(そむ)いても、神だけは捨てないもの。天地は崩れ去るとも、ただひとり変わらない私のもの。
ヤハヴェと私の関係は実に、このような性質を有する。
〔2-①-ⅴ〕
この関係は、これを内側より観察する時、すなわちわがたましいと神との交流の面から見るとき、これを《父》と《子》の関係と呼ぶ。
〔神〕ヤハヴェはわが父、私はその子である。
しかし、これを人生の荒野における外側の立場から見るとき、どのような語が「牧者」といい、「羊」というよりも、より適切にこの関係を表現することができようか。
まことにヤハヴェは、わが牧者である。天地の創造主である彼、貴(とうと)きヤハヴェは、物の数でもない私のために、牧者としてのすべての責任を負ってくださるのである。
すなわち彼は、人生の荒野において常に私と共にある。
彼はわが性格、わが立場、わが必要、わが苦痛を残りなく察知し、そしてわがために最善のものを備えようと心を砕きつつある。
彼はしばしば、わが名を呼んで私を励まし、また慰める。彼は己(おのれ)の生命を惜(お)しまぬ愛をもって、私を護(まも)りかつ導く。
ああ、これは一体、どれほどの〔大きな〕幸い〔だろう〕か。
「ヤハヴェはわが牧者」という。
その響きはあまりに高く、自らこれを〔現〕実〔経〕験せずには信じることができない。
しかしながら、事実である。日のごとく、大きな事実である。心にキリストを迎えた者は誰でも、実験によってこれを知っている。
「ヤハヴェ」、「わが」、「牧者」。
〔この〕わずか3字の連結で表現される、壮大無比な事実よ。
幸いなのは、この事実を自己に体現する者である。彼らは〔人生の〕荒野を光の園のようにして、歌いつつ歩むのである。
〔恩寵(おんちょう)あふれる生涯〕
〔2-②-ⅰ〕
ヤハヴェをわが牧者とするとき、〔これにより〕わが生涯の価値はことごとく定まる。
それは、どのような生涯か。これを一言で述べるならば、「私は乏しいことがない」である。
今も後(のち)も、乏しいことのない生涯、〔かえって〕満ち足りて余りある生涯、恩寵(おんちょう)溢(あふ)れる生涯である。人生のいかなる方面かを問わず、必要なものすべてが、ことごとく豊かに供給される生涯である。
〔2-②-ⅱ〕
〔世の〕人は争って、欠乏を訴えつつある。
今日、われらの耳を聾(ろう)するばかりの喧(やかま)しき声はみな、その叫びではないか。
生活難の嘆(なげ)きはほとんど、日常のあいさつとして交(か)わされ〔、それでも〕、誰もこれを不思議に思わない。
また「私に政権を与えよ」と叫ぶ政治家、「賃上げを」と叫ぶ労働者、「解放を」と唱(とな)える新婦人、「保護を、援助を」と呼び求める実業家、実に宗教家までも〔が欠乏を訴えつつある〕。
実に今や、いずれの階層かを問わず、社会の総員が声をそろえて、「足りない、〔ぜんぜん〕足りない。よこせ、〔もっと〕よこせ」と連呼しつつある。
憐(あわ)れ! 彼らはみな、乞食である。
さらに憐れなことよ、彼らは性急に外的生活の欠乏のみを訴えるのみで、多くの場合、それよりもはるかに重要な内的生活の欠乏を自覚しないのである。
人はパンだけで生きるものではない(マタイ 4:4)。
たとえ彼らは自己の主張し、要求するすべてのものを獲得し〔たとし〕ても、なお人として最も必要な所有(もの)に乏しい霊的乞食であることを免(まぬか)れない。
〔2-②-ⅲ〕
このような欠乏の世にあって、「私は乏しいことがない」という。
「よこせ、よこせ」との喧(かまびす)しい叫びの中に〔あって〕、ひとりその声の静けさよ。気(け)高さよ。
このように言う者は、果たして事実を語っているのか。
ヤハヴェを牧者とする者に、霊の糧は豊かであるとしても、果たして肉〔体〕の糧はどうか。いわゆる生活問題は、キリスト者には起こらないのか。
〔2-②-ⅳ〕
いや、そうではない。むしろ、その反対である。
キリスト者は生活の保障を人に求めない。
彼らは「肉の鍋(なべ)の前に座り、パンを満ち足りるまで食べ」るために、自己を〔エジプトの王〕パロに売るという屈辱に堪(た)えない(出エジプト 16:3)。
生活のことについても、その他のことと同じく、キリスト者はただ神にのみ頼る。
そればかりか、彼らは「命は食べ物より大切である」ことを信じるがゆえに、まず命を求めることなしに食べ物を求めない。
すなわち、まず「神の国と神の義とを求め」て、いわゆる生活問題はこれを後回しにするのである。
このため生活難の脅威は自(おの)ずから、世の人よりもキリスト者にとって、より痛切なものとならざるを得ない。
ああ、古来、幾人のキリスト者がこの脅威のために〔信仰に〕躓(つまず)かなかったか。
まことに信仰の立場からする生活問題の研究は、まじめな仕事(テーマ)である。
これを軽んじる者は、〔一体〕誰か。
その人はきっと、自分の小さき家族を養うために額に汗した記憶のない不幸な人〔である〕に違いない。
しばしばこの〔生活〕問題によって神は、ご自分の愛する者の信仰を試(こころ)みられる。
世の人を脅(おびや)かしつつある生活問題は、キリスト者にとって、確かに一層切実な試練である。
〔2-②-ⅴ〕
それにもかかわらず、牧者はいたずらに自分の羊を飢えさせない。
神は豊かに空の鳥を養い、この上なく美しく野の花を装(よそお)ってくださる。〔まして、〕ご自身を牧者として頼る子ら〔を養ってくださるの〕は、なおさら〔のこと〕ではないか〔マタイ 6:25~30〕。
〔私は〕問う。
かつて正直なキリスト者で、自分の生活の保障を神に一任したために空しく餓死した実例が果たしてあるか。
私は寡聞(かぶん)にして未(いま)だ、これを知らない。
〔旧約の〕詩人もまた言う。
「私は若者であったときも、年老いた今も、正しき者が捨てられ、その子孫がパンを乞(こ)うのを見たことがない」と(詩篇 37:25)。
エジプトを捨てて紅海を渡ったイスラエルの民は、荒野にあって常に天からの《マナの恩寵》(おんちょう)に与った(注1)。
キリスト者の生涯にもまた、必ず、マナの恩寵がある。
時として彼自らいかにして糧を求めるべきか分からなくても、大いなる牧者は彼自身よりも良く、その必要を察知しつつある。そして、彼の気づかない不思議な方法で必ず、その必要を満たすのである。
必要でないものについては、神は必ずしも責任を負われない。
しかし、いやしくも必要であるならば、すなわち、それによって神の栄光が揚(あ)がるために必要であるならば、神は必ずそれを満たしてくださる〔のである〕。
生活問題についてもまたもちろん、「ヤハヴェに依り頼むは、人に頼るよりも良い。ヤハヴェに依り頼むは諸侯(しょこう)に頼るよりも良い」〔の〕である(詩篇 118:8,9)。
ヤハヴェは決して、ご自分の子らを飢えさせない。
「あなたがた天の父は、これらのものがみな、あなたがたに必要なことをご存じである。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる」(マタイ 6:32、33)とは、われらが信じるべき幸いな約束である。
また、すべての誠実な〔主にある〕兄弟たちがその生涯をもって証明した事実である。
〔2-②-ⅵ〕
だが万が一にも、この約束と違って、われらが信仰のために餓死するような希有(けう)な場合に遭遇(そうぐう)したとするならば、書き記(しる)せ。
その時こそ、われらは最も幸いであることを。
その時われらは、特にこのような死をもって神の栄光を輝かすべく選び出されたのである。これは、人が容易に与(あずか)ることのできない常ならざる特権である。
〔代々の殉教(じゅんきょう)者を見よ。〕ある人は同じ理由で、すでに、火で焚(た)かれた。ある人は石で打たれた。ある人は剣(つるぎ)で刺された。彼らはみな、感謝してこの特権を受け〔入れ〕た。
そして彼らの死によって、神の聖名(みな)は日のごとくに輝いたのである〔。またそのようにして、神の聖名は今日のわれらにまで伝えられたのである〕。
われらもまた、もし聖名の〔栄光の〕ために餓死を選ばせられるようなことがあれば、感謝してこれを受けたいと願う。
キリストと共にあって餓死するのは、キリストを棄(す)てて「肉の鍋の前に座る」よりも、はるかに大きな幸いである。
〔2-②-ⅶ〕
「私は乏しいことがない」。何と豊かな告白〔であること〕か。
肉〔体〕の糧であれ、霊の糧であれ、その他どのような糧食であれ、正しい意味で私に必要なものはすべて、必ず私の上に臨(のぞ)んでなお、余りある。
何故、そうなるのか。
ヤハヴェはわが牧者だからである。〔そして、〕限りなく充足する彼が、その全自己を私に与えるからである。
ヤハヴェと結びつき、彼をわが有(もの)とするとき、〔たとえ〕私が乏しくなろうと願っても〔、それは〕不可能〔なこと〕である。
ましてヤハヴェ自ら一度び、〔人間キリストとして地に降り、〕「屠(ほふ)り場に引かれていく小羊のように」されて、その〔貧しさと苦しみの〕実験によってわれらのすべての必要を味わい知っておられるのだから〔、なおさらである〕。
ヤハヴェを牧者として仰ぐとき、われらは「何も持たないようでいて、すべてのものを持っている」のである〔コリントⅡ 6:10〕。
〔このように、〕いやしくも必要なものについては、断じて欠乏はあり得ない。
ところが、自らキリスト者と称しながら、何か乏しげな容ぼうをする者は、誰か。
われらは(祈りのための)断食(だんじき)の時にすら、〔偽善者のように〕暗い顔つきをすることなく、頭に油を塗り、顔を洗うべきではない〔の〕か(マタイ 6:16、17)。
すべてのキリスト者よ、ヤハヴェの羊らしくあれ。神の恵みの満ち足りた者のごとくあれ。
重ねて言う、キリスト者の生涯は豊かな生涯であると。
「ヤハヴェはわが牧者。私は乏しいことがない」。
この冒頭の一節に彼の人生観のすべてがこもっている。思うに、以下の数節はこの敷衍(ふえん)にすぎない。
〔つづく〕
♢ ♢ ♢ ♢
(原著:藤井武「エホバはわが牧者なり(詩篇 第23篇)」初出『旧約と新約』第93号、1928〔昭和3〕年3月。「藤井武全集 第4巻』岩波書店、1971年、238~244項を現代語化。( )〔 〕内、下線は補足)
注1 マナ manna
モーセに率(ひき)いられてシナイ半島の荒野をさ迷うイスラエルの民に、神が天から糧として与えた食べ物。「パン」とも「天からの穀物」とも呼ばれる。
芳香(ほうこう)のある小さな白色の果実のようなもので、人々は毎朝これを集めて粉に挽き、食べた。蜜の入った菓子のように甘かったという(出エジプト16:15)
後にイエスは自分を「天からのパン」つまりマナになぞらえ(ヨハネ 6:31以下)、使徒パウロはマナを「霊的なパン」と解する(コリントⅠ 10:3)。
(参考文献:山谷省吾著、東海林勤補訂『新約聖書小辞典』新教出版社、1989年、164項、大貫隆ら編『岩波 キリスト教辞典』岩波書店、2002年、1067項)
注2 詩篇研究 「エホバは我が牧者なり(詩篇第23編)」
Psalm Study "The Lord is my Shepherd Psalm 23"
以下に、原文の一部を引用する。
原 文
Original text
・・・
然(しか)るにも拘らず、牧者は徒(いたず)らにその羊を飢ゑしめない。神は豊かに空の鳥を養ひ、いとも美しく野の花を装ひ給ふ。況して彼を牧者として頼るその子等をや。問ふ。曾(かつ)て正直なる基督者にしてその生活の保証を神に一任したるが為に空しく餓死したる実例が果たして有るか。余は寡聞(かぶん)にして未だ之を知らない。詩人も亦曰(い)ふ「我むかし年若くして今老いたれど、義しき者の棄られ、その裔(すえ)の糧乞ひありくを見しことなし」と(詩37の25)。
・・・
(『藤井武全集 第四巻』岩波書店、1971(昭和46)年、「詩篇研究 エホバは我が牧者なり(詩篇第二三編)」、242項より原文のまま引用。ルビは補足)
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