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「わたしのもとに来たれ」

トールヴァルセン作

​"Come to me"

​By Thorvaldsen

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人が〔神の前に〕義とされるのは(注①)、律法の行い(注②)によるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。


これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって〔神の前に〕義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。
(ガラテヤ信徒への手紙 2:16 聖書協会共同訳。〔 〕内は補足。注2) 

 

注①:「人が義(ぎ)とされる」とは、人が神により(ただ)しいとめられ、無罪を宣言されて神に受け容れられること、すなわち「神の救いにあずかる」ことを意味する。


注②:「律法の行い」とは、聖書本文上は「割礼と食事規定を中心としたユダヤ教の律法(戒律)諸規定を遵守すること」と解されるが(浅野淳博著『NJT新約聖書註解 ガラテヤ書』、217~218項)、現代的には「自己救済(自己義認)のため、宗教的・信仰的な努力によって業績(功績)を積み重ねること」とも解しうる。

yet we know that a person is not justified by works of the law but by the truth of Jesus Christ, so we also have believed in Christ Jesus, in order to be justified by the truth of Jesus Christ and not by works of the law, because by works of the law no one will be justified.

(Galatians 2:16  ESV: Changed the translation of the underlined part)

Note: “A person is justified [before God]” means “a person becomes a partaker of God’s salvation.”

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信仰と救いのコペルニクス的転回

内村鑑三 原著

キリスト信徒とはもちろん、キリストを信じる者〔のこと〕である。

 

しかし彼は実に、自ら信じて信徒となったのではなく、神に〔よって〕信じるようにされて信徒となったのである。

 

彼の信仰は救いの結果〔として与えられたもの〕であって、 信仰が救いの原因〔なの〕ではない〔。つまり、まず神による救いがあり、そこから信仰が始まるのである。注1〕。

 

あなた方が信じるのは、神の大いなる力の働きによるのである」とは、聖書が熱誠を込めて宣(の)べ伝えるところであって、われらは「信仰によって救われる」とはいうものの(注3)、その信仰そのものが神の特別の賜物(たまもの)であることを、われらは決して忘れてはならない。

The Copernican turn of Faith and Salvation

By Kanzo Uchimura

A Christian is, of course, one who believes in Christ.
However, he did not become a believer by believing on his own, but by being made to believe by God.

His faith is a result of his salvation; his faith is not the cause of his salvation. [In other words, first there is salvation from God, and then faith begins.]

The Bible passionately proclaims, "You have believed because of the working of the mighty power of God." And it is said that we are "saved by faith," but we must never forget that faith itself is a special gift from God.

is supplementary information


♢ ♢ ♢ ♢

(出典:『内村鑑三全集 第11巻』岩波書店、1981年、第66~67項「信仰の意義」より抜粋し、現代語化。初出:『聖書之研究』34号、1903年2月。ルビおよび( )、〔 〕内は補足)

注1 信仰は救いの結果

Faith is the result of salvation

われわれプロテスタントはたびたび、「信じれば、救われる」、「信仰のみ」と聞かされてきた。


だが、本当にそうなのか。われわれが正しく信じれば、その結果、われわれは救われるのか


このことについて、われわれの経験は何と教えるか。


ある時、われわれは聖書のことばによって、あるいは人や書物との出会いを通し、また様々な出来事を通して、驚くべき神の愛を心に示された。


神の愛を知って、われわれの魂(たましい)は揺り動かされ、神・キリストへの信頼の思い(=信仰)が与えられた。

キリスト者は、感謝をもってこのできごとを思い起こす。


キリスト教の信仰を「持つ」とは言うものの、われわれはその実、人の思いを越えた出会いを与えられ、結果としてキリストのもとに至り、キリストを《わが救い主》として受け容れるべく「導かれた」。信仰を「与えられた」のだ。
これが、多くのキリスト者の偽(いつわ)らざる実感ではないだろうか。

この消息をパウル・ゲルハルト(Paul Gerhardt、1607-1676年)は、次のように詩(うた)っている。

私は深き死の闇夜の中に、倒れ伏していた。
〔だが、〕あなたはわが太陽となってくださった。

この太陽が私のもとに射(さ)し出(い)で、
光と生命
(いのち)と喜びと歓喜をもたらした。

ああ 太陽よ、
信仰の尊き光をわが内に灯
(とも)してくれた者よ。

あなたの光輝(かがやき)の何と美(うる)わしいことか!
(J・S・バッハ BWV 469 "Ich steh an deiner Krippen hier"〔ここ、馬槽のかたえに我は立ちて〕拙訳からの引用)

パウル・ゲルハルトは、キリストが太陽の光のごとく、死の闇の中に倒れ伏していた自分のもと差し込んで、光と生命と歓喜をもたらし、また信仰の光を灯(とも)してくれた、と詩(うた)う。


われわれは神の許(もと)から迷い出て罪と死の中に沈んでいたのに、キリストはご自身をわれわれに啓示して下さった(キリストの側から、われわれに出会ってくださった)。

 

この出会いを通して、われわれに救いの恩恵が与えられ、さらに、キリストに対する信頼の思い(=信仰)を与えてくださった。


このように、われわれに対するキリストの啓示とわれわれの救済(すくい)は、神の恩寵(おんちょう、一方的な神の恵み)のできごとである。

そして、その結果として与えられる信仰もまた、神の恩寵(恵み)そのものである


徹頭徹尾、神は恩寵(恵み)によって働きかける者われわれは恩寵(神の恵み)によって招かれ、照らされ、救いに与(あずか)り、さらには信仰を与えられる者である(関連リンク:「アメイジング・グレイス 」参照)
われわれの経験が教えるのは、これではないだろうか。


以下、注2、3において、さらに探究の歩みを進めよう。​​​

Note 1 Faith is the result of salvation

We Protestants have been told in church, ``If you believe, you will be saved.'' As if we were somehow driven.

But is that really true.  If we believe correctly, will we be saved?

What do our empirical facts tell us about this?

Each of us, one day, was shown the amazing grace of salvation through the words of the Bible, or through a person or book.

Knowing this grace, our souls were moved and we were given a feeling of trust (=faith) in God and Christ.

Christians recall this event with gratitude.

Although we say that we "have the Christian faith," in reality, each of us was given an encounter that goes beyond human imagination, and as a result, each was "led" to come to Jesus and to believe in Him as his Savior. I have been "given faith."
Isn't this the true feeling of many Christians?

An encounter with Christ and the revelation of salvation (which is grace itself). And the faith that is given as a result (this is also grace itself).  Surely this is what our experience teaches us? (see related link: ``Amazing Grace'').

We will explore this further below.

注2 前田護郎訳 ガラテア書 2章16節

Galatians 2:16 translated by Goro Maeda

 

聖書協会共同訳(2018年)は、ガラテヤ信徒への手紙2章16節を「イエス・キリストの真実によって義としていただく」と訳した。

 

この部分を、前田護郎(塚本虎二門下、新約聖書学者、元東京大学教授。1915~1980)も同様に、「キリスト・イエスのまこと(=真実)によって義とされる」と訳している。


前田訳は以下の通り。

人が義とされるのは律法の行いによるのでなく、ただキリスト・イエスのまことによると知って、われらもキリスト・イエスを信じました。


それは、律法の行いによらずに、キリストのまことによって義とされるためです。律法の行いによっては何びとも義とされないからです。
(『新約聖書 前田護郎選集 別巻』2009年、教文館、394項。初出:前田護郎訳『新約聖書』中央公論社、1983年)
 
ここで「イエスのまこと(真実)」とは、ことに《十字架への道》を歩んだ彼の真実な生涯、そして、われわれに出会い、われわれを照らし、われわれに生命を与え、われわれを義とする(=われわれを救う)、そのような「イエスのまこと」である。

わたしたちにとって、「イエスのまこと」はイエスの《恩寵(恵み)》そのものである。

この恩寵としての「イエスのまこと」がわれわれを救い、われわれの内に信仰の光を灯(とも)のである。


聖書協会共同訳に先立つこと35年、前田はすでに《恩寵義認(=神の恵みによる救い)》に関する明確な洞察を得ていたと言えよう。

 

注3 「信じれば、救われる」からの解放

Freedom from “Believe and you will be saved” 

①信仰による義認(ぎにん)
内村鑑三が文中で取り上げた「信仰によって救われる」とは、「信仰による義認(信仰義認)」の教えのことである。


信仰義認聖書のみ(聖書原理)》と共に、プロテスタントの《宗教改革原理》の一つであり、今日に至るまで、全プロテスタント教会の中心教義とされてきた。

 

信仰義認論は、慣用句的に「人は信仰によって、救われる(義と認められる)」、また端的に《信仰のみ(sola fide)》と表現される。

Note 3.Freedom from “Believe and you will be saved” 

ⅰ. Justification by Faith

The phrase ``being saved by faith,'' which Kanzo Uchimura mentioned in his text, refers to the teaching of ``justification by faith.''


``Justification by faith'' is one of the ``Principles of the Reformation'' of Protestantism, along with ``Scripture alone,'' and has remained a central dogma of all Protestant churches to this day.

 

Justification by faith is idiomatically expressed as ``one is saved (justified) by faith,'' or simply ``faith alone (sola fide).''


②コペルニクス的転回

Copernican turn

そもそも、なぜ内村はこの一文を書いたのか。

 

確かに信仰義認論はプロテスタントの中心教義である。しかし歴史上、この信仰義認論は、しばしば誤解を招き、深刻な副作用と弊害(へいがい)を生んできた

 

この副作用と弊害に対し、内村は警鐘(けいしょう)を鳴らすと共に、その解決の道を示そうとしたのではないか。
 

信仰が救いに先行するのではなく、救いこそが信仰に先行するのだ。君は、このことをしかと肝(きも)に銘じよ」と内村は言う。

 

彼の言説は、これまでの信仰者の常識を覆(くつがえ)すものであり、まさに「信仰救いのコペルニクス的転回」と言うべきである。


この転回は、「君に正しい信仰があれば(原因)、君は救われる(結果)」(信仰義認の誤解)から、「神の恵みによって、すでに君は救われている(原因)。その結果、信仰が君に与えられる」への根本的転換である。

. Copernican turn

Why did Uchimura write this sentence in the first place?

 

Justification by faith is certainly a central dogma of Protestantism. However, throughout history, this theory of justification by faith has often led to misunderstandings and caused serious side effects and harm.

Uchimura may have been sounding the alarm about these side effects and harmful effects, as well as trying to show a way to solve them.

His statement, ``Faith does not precede salvation, but salvation itself precedes faith. Please keep this in mind.'' It overturns the conventional wisdom and can truly be called a ``Copernican turn of faith and salvation''

This turn represents a fundamental shift from "If you have the right faith (cause), you will be saved (effect)" - this is a misunderstanding of faith justification -to "By God's grace you are already saved (cause). As a result, faith is given to you.''


③信仰義認論のルター的文脈

Lutheran context of faith justification


信仰義認論には、当然、ルター的文脈がある。

151710月31日、ドイツ中部、ザクセン地方の町ヴィッテンベルクにある城教会の門扉(もんぴ)に、一枚の紙片が貼り出された。

それは後に、《95ヵ条》と呼ばれることになった。

この《95ヵ条》によって、《宗教改革》の火蓋(ひぶた)が切られた。

 

95ヵ条は、正確には、「贖宥(しょくゆう)の効力を明らかにするための討論提題」というものである。当時、設立間もないヴィッテンベルク大学で聖書を教えていたM.ルターが、《免罪符(めんざいふ)販売をめぐる神学討論会を呼びかけたものだった。

​これは、一地方大学での討論会の呼びかけにすぎなかったが、当時、ドイツの印刷職人グーテンベルクによって発明されて間もない活字印刷技術のおかげもあり、わずか2週間ほどで全ドイツのみならず全ヨーロッパに拡がり、世界の歴史を大きく塗り替えることになった。

免罪とは、罪の免除のことで、特に死後、煉獄(れんごく、天国と地獄の間にあるとされる場所)で受ける罰の免除のことである。免罪符(贖宥状 しょくゆうじょう)は、その免罪の証書であった。

 

免罪符を購入すると昔の聖者の《功績》(プールされた《教会の宝)の一部が購入者のものとなり、煉獄での苦しみから逃(のが)れることができるとされていた。

民衆はこぞって、自分の死後のため、あるいは今、煉獄で苦しんでいるかも知れない亡き父母のために免罪符を購入した。

しかし、免罪符の背後には巨大な経済利権が絡(から)んでいた。

免罪符は、聖ペテロ(サン=ピエトロ)大聖堂の新築費捻出などのためカトリック教会(教皇レオ10世)が発行を許可したもので、免罪符の購入は善行の「寄進(きしん)」にあたると宣伝し、販売されたのである。

ルターは、この免罪符のシステムに疑問を抱いた。

免罪符にそんな力があるのだろうか。ましてや人間の罪の赦しの問題は、このような免罪符を金銭で購入したかどうかでなく、その人が真摯(しんし)な心で神に赦しを願うかどうか、という心の問題であるはずだ、と彼は考えたのである。

ルターは、カトリック教会の問題として、いわゆる《行為義認》(人が救われるのは神の恵みのみならず、その人の善行が必要であるという教え)を見出した。

 

彼は《信仰義認論》によって、この《行為義認》と闘った。これが宗教改革の核心である。

 

そしてルターの宗教改革は、教皇制度や教会組織の在り方あるいは礼拝の方法など、教会の制度や組織の改革へと展開すると共に、人々の信仰や思想の革命、つまり《魂の革命》を通して、《近代》への扉を開いたのだった(以上、江口再起著『ルターと宗教改革500年』NHK出版 参照)。

ⅲ. Lutheran context of faith justification

On October 31, 1517, a piece of paper was pasted on the gate of the castle church in Wittenberg, a town in Saxony, central Germany.
It later came to be known as the ``95 Theses.''             
This ``95 Theses'' sparked the Religious Reformation.

To be precise, the ``95 Theses'' is ``proposals for discussion to clarify the effectiveness of indulgence.'' M. Luther, who was teaching the Bible at the newly founded Wittenberg University at the time, called for a theological debate on the sale of indulgences.

This was just a call for a debate at a local university, but thanks in part to typographic printing technology, which had just been invented by the German printer Gutenberg at the time, it spread throughout Germany and all of Europe in just two weeks, rewriting world history in a major way.

``Indulgence'' is the absolution of sins, especially the absolution of punishments received in purgatory (a place considered to be between heaven and hell) after death. The ``indulgence'' was the ``certificate'' of that absolution.

It was believed that when a person purchased an indulgence, a portion of the ``deeds'' of the ancient saints (pooled ``Treasures of the Church'') belonged to the purchaser, allowing him to escape the suffering of purgatory.

​The people en masse bought indulgences for their own afterlife, or for their deceased parents who may now be suffering in purgatory.

​However, huge economic interests were behind the indulgence. The Catholic Church (Pope Leo X) authorized the issuance of indulgences to raise money for the construction of the Basilica of St. Peter, and the purchase of indulgences was advertised as a "donation" for good deeds.

Luther had doubts about this system of indulgences.

​Does an indulgence have such power? Moreover, the issue of forgiveness of human sins is not a question of whether or not such indulgences were purchased with money, but rather a question of the heart, whether or not the person sincerely asks God for forgiveness. That's what he thought.

Luther identified the so-called ``justification by works'' (the teaching that a person is saved not only by God's grace but also by his or her good works) as a serious problem for the Catholic Church.

He fought against this ``justification by works'' with ``justification by faith.'' This is the core of the Reformation.

Luther's Reformation developed into reforming the institutions and organizations of the church, such as the papal system, the structure of the church, and the methods of worship, and at the same time, the Reformation opened the door to ``Modernity'' through a revolution in people's beliefs and ideas, a revolution of the soul (see ``Luther and the Reformation 500 Years'' by Saiki Eguchi, NHK Publishing).


④信仰義認論の論拠

Reasons for faith justification theory


もちろん信仰義認の教えは、ルターの独創ではない。ルターが聖書、特にパウロから学び、「ここにキリスト教信仰の核心がある」と強調した教えである。


信仰義認論の論拠の一つは、使徒パウロの「ガラテヤ信徒への手紙」(2:16)であり、従来、以下のように翻訳されてきた。


人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。


これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。

 

なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」(ガラテヤ信徒への手紙 2:16 新共同訳、1987年)


信仰義認の核心部分は、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる(=救われる)」である。


⑤「キリストへの信仰」から「キリストの真実(まこと)」へ

From “faith in Christ” to “truth of Christ”


従来「キリストへの信仰」と訳されてきた部分は、ギリシア語原文では「キリストのピスティス(πιστεως ’Ιησου Χριστου)」となっている。

ピスティス(πιστις)」は、これまで「信仰」と訳されてきたギリシア語であるが、「真実」、「誠実さ」とも十分、訳しうる言葉である。

 

この語は、本来、人と人、あるいは人と神との関係性を築き、維持するのに不可欠な要素、つまり信頼性を指し、信頼性を態度で示す「信仰・信頼」、あるいは信頼性の根拠となる「真実・誠実さ」の両方の意味を持っている(浅野淳博ら著『ここが変わった!「聖書協会共同訳」』102項)。

 

そして、原文をそのまま訳せば(「の」を主格的属格ととる)、「キリストへの信仰」ではなく、「キリストのまこと(誠実=真実)」となる。

私たちが義とされる(=救われる)のは、私たちがキリストを信じるからなのか(旧訳)、それともキリストが十字架で真実(=神への誠実さ)を身をもって示してくださったからなのか(新訳)。


キリストのまこと(真実)」と訳した場合、ガラテヤ 2章16節は、十字架に象徴されるイエス・キリストの在り方-十字架に至るまで神への真実(誠実)を尽くして人に仕えた、その生きざま(フィリピ 2:7~8参照)-が人を神との和解へと向けるという意味になる(ローマ 5:10参照)。


このような理解を踏まえ、聖書協会共同訳では、従来「キリストへの信仰によって」と訳されて来たものを「キリストの真実によって」と訳したと考えられる(前田護郎訳の発表から聖書協会共同訳にいたるまで、35年の歳月を要している)。

 
旧訳から新訳への変化は、キリスト教信仰の在り方を根本的に転換しうる画期的なものであることを忘れてはならない。


⑥信仰義認論の副作用-自力としての「信仰」

Side effects of faith justification theory: “faith” as self-reliance


では、内村が危惧(きぐ)した信仰義認論に伴う副作用、弊害とは何か。


ルター神学の核心は《恵みの神》を発見したこと、と言われる。

 

神は《恵みの神》であって、神の恵みこそが、人の救いをもたらす。人間の信仰が救いをもたらすわけではない

 

つまり、人間の善行や努力、信仰心や自力によって人が救われるのではなく、「ただ神の恵み(恩寵)のみ」(ソラ・グラティア sola gratiaによって、人は義と認められ、救われる。すなわち、《恩寵義認(=神の恵みによる救い)》である

 

このことへの開眼が、ルターの《宗教改革的転回》と言われていることの内実である。

その後、ルターは《信仰義認論》によってカトリック教会の《行為義認》と戦うことになった。つまり信仰義認(=信仰による救い)は行為義認(=人間の行為による救い)に対するアンチテーゼだったのである。


しかし「信仰義認」という言葉が、この背景から切り離されて「人は信仰のみによって義とされ、救われる」、さらには「信仰のみ」と慣用句的に使われているうちに、微妙な、しかし重大な誤解が生まれた。

つまり、人が義とされる(=救われる)のは、その人の信仰のある・なしや、信仰の熱意の強さ・大きさ、立派な信仰的行為(信仰の英雄的行為)の量、果ては洗礼を受けているかどうか、聖餐式(聖体拝領)に参与しているかどうか。

これらが人の救いを決するという誤解。


また、その人が神の存在を認め、神の守りと支えに対して強い信念を持っているかどうか。

これが救いを決するという誤解。

 

総じて、その人の「信仰」が救済の決め手になるかのごとく誤解されるに至ったのである。


しかしこれでは、その人が救われるかどうかは、結局のところ、その人の信仰「力」によることになり、それは「自力」によるのであって、とどのつまり、行為義認(=業績主義・律法主義)と同じことである。


またここから、「自分の信仰はこれで大丈夫(だいじょうぶ)か、救われるのに十分か」との果てしない自己反省と自己凝視また信仰の動揺が始まる。

さらに「自分の信仰は他の人に劣ってはいないか、それとも優(まさ)っているか」と他者との比較が始まる。

 

この自己反省・自己凝視と優劣比較(信仰義認論の副作用・弊害)は、キリスト者一人ひとりを追い詰めるばかりか、キリスト者共同体をも深く蝕(むしば)関連リンク:三谷隆正「現代教会の最大欠陥」参照)。


⑦《信仰義認》から《恩寵義認》へ

From Justification by Faith to Justification by Grace


ⅰ.このように、「信仰によって義とされる(救われる)」という表現は舌足らずであって、しばしば誤解を招き、重大な副作用と弊害をもたらす。

それゆえ、信仰義認論》の定式は、新約聖書ギリシア語研究の進展(ガラテヤ書 216節等)を踏まえて、次のように表現し直すのが適切であろう。

 

人は神の恵み(=イエス・キリストの真実)によって、信仰を通し、神の前に義とされる(=救われる)」。

ⅱ.この定式において、「神の恵み(=キリストの真実)」こそが、人に救いをもたらす〈原因〉である。

 

人の「信仰」が救いの〈原因〉なのではない。人は、「信仰」という名の「(人間の)行為」によって救われるのではない。


また、この定式において、「信仰」は救いのための〈手段・方法〉であり、教会の定めた「善行」を行うことによる救いつまり、行為義認(=信仰的業績主義)に対するアンチテーゼである。


ⅲ.神と人間との間には、厳然たる区別と順番がある。

まず、神の救い(=神の恵み)の徹底した先行。そして、その後に、この救いに対する人間の信仰(受容と信頼)。


信仰もまた、神の御業、神の賜物(たまもの)であり、キリストがわれわれの中に呼び起こすものである。その意味で、信仰は救いの結果である。

 

これが《神の秩序》であり、神の恩寵の絶対性である(これを「恵みのみ」と表現する)。


ⅳ.確かにルターは《信仰義認論》によって、当時のカトリック教会の《行為義認》と戦った。以来、信仰義認論はプロテスタントの中心教義である。


しかし、信仰義認論は神の救いの業(わざ)の全貌(ぜんぼう)を言い表すものではないことに注意する必要がある。

神と人間との間には、《無限の質的差異》がある(K・バルト)。神は神であり、人はあくまでも人である。

有限な人間の言説や信仰箇条・定式が全能の神の働きを規定し、限界づけることはできない。

人間の側で、神の救いに対して「条件」を設定することは許されない


ⅴ.幼くして亡くなる子供たち、また知的な障害のため神のことも信仰のことも理解できない人たち。

彼らは神への信仰を告白できないがゆえに、救いの外に棄(す)て去られてしまうのか。

これは《信仰義認論》の射程(しゃてい)を超えた問いである。

この深刻な問いに対し、三谷隆正(1889-1944、内村鑑三門下、哲学者・教育者)は次のように答える。


もし、神がおられるならば、愛でなくて何であり得ましょうか。

そしてもし、神が愛であるならば、われら人間でさえ慈(いつく)しむ愛(いと)し児を、そのかけがいのない個性価を、どうして神が慈しまれない道理がありましょうか。・・

 

神様は、永遠にSちゃんを慈しんでくださるに違いありません。けっして、棄て去らないに違いありません」(三谷隆正著『S童子を葬(ほうむ)る言葉』より、現代語による引用)。

 

ⅵ.神は人の意表を絶して、驚くべき御業(みわざ)を成し遂げられる。

それゆえ、われわれは何ら人間的条件を付けることなく端的に、「神の慈愛(恵み)が人を救う」と言うべきではないか。

つまり恵みのみ》の救い(=恩寵義認)である。

神の救いに包まれたキリスト者は、心の底から喜びの声を上げる。

 

この私のためにpro me プロ・)、神は恵みを注いでくださった!」

神は恵み(=キリストの真実)によって、私を救ってくださった!」


これらの歓喜の声が示すように、「神の慈愛が人を救う」とは、信仰箇条(ドグマ)であるよりはむしろ、救いたもう神に対する信頼と感謝の讃歌(ハレルヤ・コーラス)であることを忘れてはならない。

ここでわれわれは、さらに一歩、前へ進むことを提案したい。

ルターの真意に即し、信仰と救いの本質的な関係を踏まえ、これからは《信仰のみ》を端的に、《恵みのみ》と言い換えようではないか

重大な誤解が発生しないように。

「しかし、私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたとき、神は、私たちがなした義の行いによってではなく、ご自身の憐れみによって、私たちを救ってくださいました

 

この憐れみにより、私たちは再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて救われたのです。・・

 

こうして私たちは、イエス・キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです(テトス 3:4、5、7。聖書協会共同訳)。

⑧神の恵みによる救い、結果としての信仰

Salvation by God's grace, resulting in faith


信じる力であれ、信仰による善行であれ、人間の側の力(自力)によって人は救われない。


人は絶対他力としての《神の恵み》によってのみ(sola gratia)、救われる。また、その救いを受容する信仰さえも、神によって与えられる。

ここから神・キリストへの信頼(=信仰)に生きる、新しい生が始まる。


⑨既成の救いに感謝しつつ生きる(結語)

Conclusion: Live with gratitude for the existing salvation


神の恵み、すなわち《十字架の真実》によって、君はありのままですでに救われている

そして、そのことを信じる信仰さえも、神は与えてくださるのだ。

 

それゆえ、絶え間ない自己反省・自己凝視も他者との比較も、無用。君はただ神を、キリストを見上げ、感謝をもって生きればそれでよい


現代のわれわれに対し、内村はそのように語っているのではないだろうか。

イエスの招き

労苦する者、重荷を負う者はすべて、わたしのもとに来たれ。わたしは君たちを休ませてあげよう。

(マタイ福音書 11章28節 杉山好(よしむ)訳)

(注3の参考文献:江口再起著『歴史再発見 ルターと宗教改革500年』NHK出版、2017年。江口再起著『ルターの脱構築』リトン、2018年、三章「恩寵義認」信仰論。47~67項。浅野淳博ら『ここが変わった!「聖書協会共同訳」』日本キリスト教団出版局、2021年、103~105項。織田昭編『新約聖書 ギリシア語小辞典』教文館、2002年、467項。日本語版監修・荒井献、H・Jマルクス『ギリシア語新約聖書釈義事典 Ⅲ』教文館、1993年、123項)。

注4 原文 Original text

「基督(キリスト)信者とは勿論(もちろん)基督を信ずる者である、然(しか)し彼は実に自(みず)から信じて信者となったのではなくして、神に信ぜしめられて信者と成ったのである、

 

彼の信仰は救済(すくい)の結果であって、信仰が救済の原因ではない。


(なんじ)らの信ずるは神の大(おおい)なる能(ちから)の感動(はたらき)に由(よ)る」なりとは聖書が力を籠(こ)めて宣べ伝うるところであって、吾等(われら)は信仰に由りて救わるるとは云(い)ふものゝ、其(その)信仰其物が神の特別なる恩寵であることを、吾等は決して忘れてはならない(エペソ書 2章8節)

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