イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2024年12月7日
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ところで、われわれ無教会はイエスの名による洗礼〔式〕も按手〔礼〕も、その他いっさいの礼典(サクラメント。カトリックでは「秘跡」)を行わない。
もし〔水の〕洗礼(注1)と按手(注2)によってしか聖霊(注3)がくだらないとすれば、無教会には聖霊の賜物(たまもの)が与えられていないこととなるであろう。
この問題は、無教会キリスト者にとってゆるがせにできない重要問題の一つであることは否定できないであろう。
そこで、この問題に関する洗礼者ヨハネの言葉にまず耳を傾けてみよう。
「私よりも力のある方(=イエス)が、あとからおいでになる。私はかがんで、その靴のひもを解く値うちもない。
私は水で〔あなたがたに〕バプテスマ(洗礼)を授けたが、この方は、聖霊によってバプテスマをお授けになる」(マルコによる福音書 1:7~8、口語訳参照)。
「私は、悔い改めのために、水でおまえたちにバプテスマ(洗礼)を授けている。
しかし、私の後から来る人は、私よりも力のある方で、私は、その靴を脱がせてあげる値うちもない。
この方は、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになる」(マタイによる福音書 3:11参照)。
マルコとマタイでは「聖霊によるバプテスマ(洗礼)」と「聖霊と火によるバプテスマ」という若干の相違はあるが、重要なことは、ともに〔主〕イエスが直接お授けになるバプテスマ〔を言い表しているの〕であって、人の手を介してのイエスの名による〔水の〕バプテスマではないことであろう。
イエスご自身からじかにバプテスマを受けることによって、〔われわれは〕神と交わる聖霊と罪を火で焼き切る罪の赦しの恵みを受け取る・・・これが〔洗礼者〕ヨハネの悔改めのバプテスマ(水の洗礼)と、イエスのバプテスマ(聖霊の洗礼)との根本的相違であると言えよう。
・・・
ここで〔コロサイ人への手紙2章11~12節(注4)から〕私に鮮烈に啓示された真理は、キリストの洗礼(=まことの洗礼)とは十字架の血による洗礼(=キリストの流された血潮によって、われらの罪が洗われ、同時に新しい命を注がれること)であるとのことであった。
この洗礼は、〔制度教会(注5)で執行されているような〕人の手を介した水による洗礼ではなく、まさにキリストが御自身の生命(いのち)を捨てて十字架の血によってなし給(たも)う直接の洗礼である。
これは私にとって大発見であり、まさしく天啓(てんけい)であった。
無教会キリスト者は、礼典としての水によるバプテスマは受けていないが(注6)、主イエスのバプテスマ、すなわち、十字架の血によるバプテスマを受けて彼の死に合わせられなければならない。
そこではじめて《古い人間》に死に、キリストの復活に合わせられて新しいキリスト者としてよみがえるのである。
かくて罪のゆるしと聖霊とすべての賜物(たまもの)とが豊かにそそがれるのである。
無教会が宗教改革の徹底という使命を帯びているとすれば、十字架の血によるキリストの洗礼をじかに受けて〔古い人間に〕死んで〔、キリストの復活の生命に新たに〕生かされるところに、その原点があるのではあるまいか。
これを純粋に信じ〔て生き〕るならば〔制度〕教会に属さなくても救われる、洗礼〔式〕とか聖餐〔式〕とかの礼典や教会制度の中にあるさまざまな伝統にあやからなくても救われるという無教会の主張は、十字架の血による洗礼というイエスに直結した〔積極的〕真理に根ざしていることを知るのである(注7)。
この真理に固く立つ限り、教会もまた祝福の中にあることは言うまでもない。
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(溝口正主筆『復活』第193号、1982年8月より抜粋。( )、〔 〕内、下線は補足)
注1 洗礼の起源-聖書学の知見
注2 按手礼(あんしゅれい)
注3 聖霊について
注4 コロサイ 2:11~12
「あなたがたはキリストにあって、〔人間の〕手によらない割礼(かつれい)を受けました。
それは肉の体(=罪の体、ローマ 6:6)を〔全部〕脱ぎ捨てること、すなわち、キリストの割礼です。
あなたがたは、〔まことの〕洗礼(バプテスマ)によってキリストと共に〔死んで〕葬(ほうむ)られ、〔同時に〕キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」。
(聖書協会共同訳、( )、〔 〕内、下線は補足)
注5 制度教会の発生
10「洗礼・聖餐の祭儀化と制度教会の発生」へ
注6 洗礼式・聖餐式は「救い」を保証しない
日本宣教リサーチ「JMR調査レポート 2018年度版」(東京基督教大学ホームページに公開)によれば、日本の代表的な教団・教派の2018年度の礼拝出席率(礼拝出席者数/信徒総数)は、以下の通りである。
・カトリック教会:約23%
・日本基督教団:約30%
・日本聖公会:約15%
・日本福音ルーテル教会:約16%
・日本キリスト教改革派教会:約45%
・日本バプテスト連盟:約36%
この統計データから分かることは、「教会籍」がある、つまり水の洗礼を受けて陪餐(ばいさん)会員(教会信徒)となった者で、実際に教会に来ている者はせいぜい3割にすぎず、残りの約7割は教会に来ていない、つまり教会から離れているという事実である。
つまり教会で洗礼を受けても、そのかなりの部分の人々は教会を離れキリスト教から遠ざかっているという事実であり、水の洗礼は、必ずしも人間の生き方を根源的に変革するものではないという事実である。
この事実は、制度教会の水の洗礼式や聖餐式などの礼典(サクラメント)は「救い」と直接、関係しない、つまり「救い」を保証するものではないことを如実(にょじつ)に物語っているのではないだろうか。
注7 宗教改革の原点
溝口の論考に基づくならば、パウロの手紙に倣(なら)って無教会は次のように自己紹介できるであろう。
「〔制度〕教会への所属にもよらず、儀礼にもよらず、ただ十字架にかかられたイエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって《宗教改革》貫徹の使命を託された無教会から、日本と世界の諸集会(エクレシア)へ」。
紀元55年頃、使徒パウロは「律法の遵守」を要求する《ユダヤ主義者》から《福音の真理》を守るため、ガラテヤの諸集会(エクレシア)に宛てて手紙を書いた。
この手紙の初めで、パウロは自らの《使徒職》について次のように記している。
「人々から〔使徒にされたの〕でもなく、〔ある〕人間を通してでもなく〔すなわち、人間の命令や委任によってでなく〕、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ・・・から、ガラテヤの諸集会(エクレシア)へ」(聖書協会共同訳参照、〔 〕内は補足)。
パウロは、自らの使徒職を二重の否定によって明らかにしている。
つまり、自分は「人々から」の使徒ではなく、「人間を通して」の使徒でもない。そうではなく、自らの使徒職は「イエス・キリストと神とによるのだ」と。
こうして彼は、自分の使徒職は直接にイエス・キリストから、したがってまた、まさしく父なる神から受けたものであって、それ以外の誰からでもないという確信を、手紙の読者に単刀直入にぶつけて行く。
そして、彼が使徒として立てられたのは、「ある人間によってではない」とすれば、もちろんまた自分自身で自分を使徒に仕立てたわけでもない。
《使徒》という名称には、そのすべての権威にもかかわらず、いかばかりに低いへりくだりの姿勢が込められているものかを、ルターは力説している(大島智夫・杉山好訳、ヘルマン・W・バイヤー著、パウル・アルトハウス改訂『NTD新約聖書注解 8 パウロ小書簡』NTD新約聖書注解刊行会、1979年、10項参照)。
溝口が《宗教改革》貫徹の原点として発見した真理(=十字架の血による洗礼)は、パウロの使徒職の自覚と同様に、直接に神から(聖霊によって)啓示されたものと言えよう。
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