イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2024年12月7日
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聖書に学ぶ 015
2022年5月18日改訂
原著:藤井 武
現代語化:タケサト・カズオ
詩篇研究
朝のいのり ⑴
詩篇 第3篇
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☆讃美
* * * *
朝のいのり
詩篇 第3篇
1.ダビデの歌、その子アブサロムの前から逃(のが)れたとき。
2.〔神〕ヤハヴェよ、わが敵のいかに多いことか!
数多(あまた)の者がわたしに向かって起ち上がり、
3.数多の者がわが霊魂(たましい)について言いつのる、
神の許(もと)には彼の救いなどありはしない、と。
4.しかしあなた〔こそ〕は、ヤハヴェよ、わたしを囲む盾、
わが栄光、わたしの頭(こうべ)をもたげたもうお方。
5.わが声をあげ、ヤハヴェに向かってわたしは叫ぶ。
彼はその聖なる山から、わたしに答えられる。
6.わたしは伏(ふ)して眠り、また目覚(さ)めた。
ヤハヴェがわたしを支えたもうから。
7.わたしは恐れない、わたしに向かって
四方から襲いかかる数知れぬ人々をも、決して。
8.起ち〔上がり〕たまえ、ヤハヴェよ。
わたしを救いたまえ、わが神よ!
あなたはわがすべての敵の頬骨(つらぼね)を撃ち、
悪(あ)しき者の歯を折られた。
9.ヤハヴェにこそ、救済(すくい)はある。
〔あなたの〕み民の上にこそ、み祝福(めぐみ)を下したまえ。
(関根正雄訳、月本昭男訳参照)
Ⅰ わが敵のいかに多いことか
2.ヤハヴェよ、わが敵のいかに多いことか!
3.数多の者がわたしに向かって起ち上がり、
数多の者がわが霊魂(たましい)について言いつのる、
神の許には彼の救いなどありはしない、と。
〔1-①〕
アブサロムは父ダビデに対する叛逆(はんぎゃく)を決意した(注1)。
彼は策を弄(ろう)して人心を掌握し、ヘブロンへ赴(おもむ)いて事を挙(あ)げた。
「謀反(むほん)を企(くわだ)てた者たちは力があり、多くの者が次第にアブサロムに加担した」(サムエル記下15:12)。
ダビデの相談役アヒトペルを始めとして、叛徒に加わってダビデに向かい起ちあがる者が多くいた。
〔1-②〕
ダビデは慌(あわ)てて起ち、王宮を棄てて逃げた。アブサロムは大軍を率いて彼を追った。
〔ダビデ一行が〕逃げてバフリムまで来ると、サウル家の一族の出でシムイという者が現れ、呪いの言葉を発しながら出て来た。
さらに彼は、ダビデとその家臣〔全員〕に石を投げ〔つけ、〕塵(ちり)を揚(あ)げながら、呪いの言葉を発して、こう言った、
「出て行け、出て行け。血にまみれた者、ならず者よ。
サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、ヤハヴェは報復されたのだ。〔だから〕ヤハヴェはお前の息子アブサロムに〔王〕国を渡されたのだ。
見よ、お前は血にまみれた者だから、禍(わざわ)いが降りかかったのだ」と。
〔1-③〕
ダビデは振り返り、迫り来るものがいかに多いかを見た。
この数多の者はみな、自分に向かって起ち上がり、自分を撃(う)とうとする者であることを思った。
また彼らは、単に自分の肉体を悩ませるばかりでなく、霊魂(たましい)にまでも迫ることを知った。
つまり彼らは、神と自分の関係さえ〔も〕傷つけようとするのである。自分を神に詛(のろ)われた者であると言って、誹謗するのである。
この惨(いたま)しい真情をダビデはまず、そのまま神に訴えた。
〔1-④〕
このようにダビデに敵が多かったのは、なぜか。
それは、彼を詛う者が言ったように、彼の罪に対する神の審判であった、とも言うことができる。
すでに神は預言者ナタンを通して、彼に予告し〔てい〕た。
すなわち、
「きみが〔神である〕私を侮(あなど)ったゆえに、剣(つるぎ)はいつまでも、きみの家を去らないであろう」と(サムエル記下12:10。関根正雄訳)。
しかしながら注意すべきは、この予告と同時に、「ヤハヴェもまた、あなたの罪を〔取り〕除かれる」との宣告が与えられていることである(同12:13)。
罪は〔すでに取り〕除かれたのである。そして、その後に禍(わざわ)いが臨もうとしているのである。
もし、罪が〔今〕なお除かれなかったならば、おそらく災いも未(いま)だ臨まなかったであろう。
換言すれば、もしダビデが悔い改めて義(ただ)しき人とならなかったならば、おそらくアブサロムは彼に叛(そむ)かなかったのであろう(サムエル記下12:23、31参照)。
〔1-⑤〕
いずれにせよ、一つのことは確かである。それは、神に従う者には敵が多いということである。
なぜかと言えば、この世は全体として神の敵であるからである。
イエスは言われた、
「〔この〕世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前に私を憎んだことを覚えておくがよい。
もしあなたがたが世から出た者であるならば、世はあなたがたを自分のもの(=仲間)として愛するだろう。
だが、あなたがたは世から出た者ではない。私があなたがたを世から選び出した〔のだ〕。だから世は〔「己(おのれ)をないがしろにする者」として〕あなたがたを憎むのである。・・・
〔弟子は、師に勝(まさ)る者ではない。〕人々が私を迫害したなら、あなたがたをも迫害するだろう」と(ヨハネ15:18~20)。
まことにイエスの生涯ほど、敵多き生涯はなかった。
数多の者が彼に向かって起ちあがり、ついに彼を十字架に釘づけた。また十字架の上で、彼の霊魂について嘲(あざけ)り〔、かつ〕謗(そし)った。
イエスは、地〔上〕に平和を投じるために来なかった。
いや〔、そうではない〕、かえって剣のためであった。
イエスのゆえに、人はその父から、娘はその母から、嫁はその姑(しゅうとめ)から分(わ)かたれた。人の仇敵(あだ)は、その家の者であった。
イエスは〔世に〕来て、火を地〔上〕に投じた。
〔1-⑥〕
誰が争いを好むだろうか、誰が敵を求めるだろうか。
しかし残念ながら、「今〔の時代〕は悪(あ)しき世」である。「〔この〕世の友となることは、神に敵対すること」なのである。
われらは〔まず、〕神に〔聴き〕従わなければならない。それゆえ、〔この〕世〔本位〕の人々を敵とせざるを得ない。
およそ二心(ふたごころ)なしにキリストを信じようとする者(=キリストに忠誠を誓う者)は、必ず〔や〕骨肉(こつにく)から、友人から、社会から分かたれることを覚悟しなければならない。
これは、動かすことのできない鉄則である。
〔人情としては、実に〕辛(つら)い。苦しい。
しかしやむを得ない。この世にあっては、敵のないところに神はおられない。
Ⅱ あなたこそ、わが盾
4.しかしあなた〔こそ〕は、ヤハヴェよ、わたしを囲む盾、
わが栄光、わたしの頭(こうべ)をもたげたもうお方。
5.わが声をあげ、ヤハヴェに向かってわたしは叫ぶ。
彼はその聖なる山から、わたしに答えられる。
〔2-①〕
〔謀叛による〕数多の敵に追われて、ダビデは身をもって王宮から逃れ出た。
彼は頭(こうべ)を包み、裸足(はだし)で進んだ。キドロンの谷を渡ってオリーブ山の道を登るとき、彼は泣いていた。従って行く民たちもみな、泣きながら登っていった(サムエル記下 15:23、30)。
憐れむべき限りの境遇である。
しかし、彼の世界はそれだけではなかった。ダビデには、今ひとつの隠れた世界があった。
そこには他のものは見えない。ただ、一人の者がいる。彼が一切である。彼の存在がすべての問題の解決〔の源〕である。
〔2-②〕
敵は四方から〔私に〕立ち向かう。
しかしヤハヴェがおられる。ヤハヴェこそ、私を囲む盾である。
〔これこそ、〕最強の盾。いかなる剣、いかなる火矢(ひや)が、この盾に敵(かな)うだろうか。
撃(う)つなら撃て、突くなら突け。ヤハヴェは〔私に〕代わって応じ、代わって斥(しりぞ)けられる。
私としては、ただヤハヴェの陰(かげ)に隠れさえすればよい。ただ彼を信じて、彼に委(まか)せさえすればよい。そうすれば、絶対に安全である。
敵は、〔私を〕嘲(あざけ)り辱(はずかし)める。
しかし、私の真実の栄光(さかえ)は何か。
〔それは、この世の〕地位ではない。勲功(くんこう)ではない。所有〔物〕ではない。〔神〕ヤハヴェである。〔救い主〕キリストである。
ただ彼を私は誇りとする。
彼こそは、心の底から讃(たた)えるべき〔わが〕名誉(ほまれ)。彼と一体のものである限り、私自身はどんなに嘲られ、辱められてもよい。
〔その時、〕私は常に彼を指〔差〕して答える。「見よ。〔彼こそ、〕わが栄光〔!〕」と。
〔圧倒的な敵に囲まれ、〕私の頭はうなだれる。
しかしひとたび、ヤハヴェ-キリストを思うとき、さながら夜寒にうたれた花が太陽に遇(あ)ってふたたび、茎の上に直立するように、それは起きあがる。
キリストこそは、わが頭をもたげ給(たも)うお方。彼によって癒されない傷はない。
〔2-③〕
私は此処(ここ)にいる。ヤハヴェは彼処(かしこ)におられる。
ここ〔は〕窮迫(きゅうはく)の谷底、かしこ〔は〕聖(きよ)き山。
ここから声をあげて、私は〔ヤハヴェを〕呼ぶ。かしこから、こだまのように彼は答えられる。
みだれた私の声、確かな彼のみことば。絶えざる呼びかけ、絶えざる応答。
必ずしも祈りが、常にそのまま聴かれるというのではない。人格者としての反響のことである。
とにもかくにも神は、死せる者のようではなく、生ける者らしく、われらの要求(もとめ)に何らかの手応(てごた)えを与えて下さるのである。
われらは触れてみて、知っている。神は生きておられることを。そして、それで十分なのである。
そうだ〔確かに、〕神は生きておられる!
〔2-④〕
ダビデは敵を見、〔そして〕自分を見て、泣いた。
しかし、やがてヤハヴェを仰いで、彼は歌いかつ讃えた。
彼の生命(いのち)は、ヤハヴェとの深き交わりの中にあった。
〔つづく〕
♢ ♢ ♢ ♢
(原著:藤井武「朝のいのり(詩篇 第3篇)」『旧約と新約』第92号、1928〔昭和3〕年2月初出。「藤井武全集 第4巻』岩波書店、1971年、95~97項を現代語化。( )〔 〕内、下線は補足)
注1 ダビデ
紀元前1,000年頃。イスラエルの第2代の王で、統一王国の確立者。
石投げ縄で投石してゴリアトを倒したこと、竪琴(たてごと)の名手で数多くの詩や歌を作ったことで知られる。聖書の詩篇の半数近くが、ダビデの作と言われる。
三男アブサロムが反乱を起こし、わずかな期間だったが、ダビデは逃亡を強いられた。
しかし、軍勢を再編したダビデが反攻に転じると、アブサロムの反乱は鎮圧された。
後の時代、イスラエルが存亡の危機に陥った時、神がダビデのような救済者を遣(つか)わしてイスラエルを救うという期待が生まれた(イザヤ 9:5,6)。これがいわゆる《メシア待望》である。
メシアは《第 2 のダビデ》として、ダビデの子孫、ダビデの故郷イスラエルから出ると考えられた(ヨハネ 7:42)。
ダビデについては長らく聖書外史料がなかったが、1993年にイスラエル北部のダン遺跡で発見されたアラム語の碑文に「ダビデの家」という語句があることが確認され、少なくともイスラエル王朝の創始者としてほぼ裏付けられた。
(参考文献:大貫隆ら編集『岩波 キリスト教辞典』岩波書店、2002年、725項。R.P.ネッテルホルスト『聖書人物記』創元社、2009年、86項)
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