イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2024年12月7日
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聖書に学ぶ 014
2022年1月30日改訂
原著:藤井 武
現代語化:タケサト・カズオ
詩篇研究
鹿が渓水を慕い喘ぐがごとく
⑸
私の詩としての詩篇42篇2~6節
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藤井 武(1922年、34歳)
〔6〕
ああ、わが魂よ。何ゆえうなだれるのか。
わが内に呻(うめ)くのか。
ヤハヴェを待ち望め。
なおもわたしは神を讃(たた)えよう、
「あなたこそ、わが顔の救い、わが神」と(注1)。
(詩篇 42:6)
〔6-①〕
このように思い来(きた)れば、私は私の悲痛の原因が何処(どこ)にあるかをさえ、思い惑(まど)わざるをえない。
私の神はすでに、ご自身の懐(ふとこ)ろの中心にまで、私を容(ゆる)された神である。彼は、永遠に私のものたるべく自ら誓われた神である。
ああ、キリストにおいて〔自らを〕顕(あら)わ〔さ〕れた私の神!
彼と私の間に、誰が立ち入ることができようか。
〔一体、〕何が、彼に〔対し〕疑い〔の思い〕を抱(いだ)かせることができようか。
私は、自己の実験によって彼の心を識(し)っている。
〔決して、〕彼は偽(いつわ)らない。彼は変らない。彼は〔愛する子らを〕棄(す)てない。
〔6-②〕
ああ、わが魂よ。おまえは何ゆえ、力なくうなだれるのか。何ゆえ平和を失って、胸の内に呻(うめ)くのか。
おまえは、おまえの神がどのような方であるかを熟知しているではないか。
彼は、しばし〔の間〕であっても、おまえを〔見〕棄(す)てることのできる神だろうか。彼は、おまえの痛みを見過(すご)すことのできる神だろうか。
〔むしろ、〕すべての人の理解できないおまえの痛みを残りなく理解して、人の思いを超えた同情を絶え間なく、おまえに寄せつつある者は彼ではないか。
おまえに先だっておまえのために泣く者は、実に彼ではないか。おまえのすべての涙を拭(ぬぐ)うべく、こころ熱しつつある者は彼ではないか(注2)。
〔6-③〕
わが魂よ、彼を待ち望め、待ち望め!
彼の言葉を信じて、待ち望め。彼の前に自己〔の思い〕を注ぎ出しつつ、待ち望め。
やがて試練を経て「良し」とされるとき、彼は必ず、以前に勝(まさ)る輝きの聖顔(みかお)をもっておまえの前に現れ、おまえを抱きしめてくださるだろう。
〔6-④〕
神は今も、私と共にある。
彼は深き御心(みこころ)によって、しばし〔の間〕私を悩ますことがあっても、彼の聖顔は常に私の上に注(そそ)がれていることを私は知っている。
彼は今、私のために最も善(よ)き事を成し遂(と)げつつあるのである。
私は彼を信じる。彼に一切を委(ゆだ)ねる。
たとい私の身は宙に転(まろ)んでも、私の声は虚空に消えても、なお何処(どこ)までも彼にのみ、信頼する。
彼はやはり愛である。永遠にそうである。
私は私の神である彼に打ち据(す)えられながら、なお〔も〕彼を讃美せずにはいられない。
彼の偉大かつ光栄ある永遠の経綸(けいりん)の中に(注3)、私の小さきなやみもまた、〔何らかの〕必要〔不可欠〕な場所を占(し)めるのであると思えば、私は自己を忘れて〔神を〕讃(ほ)め歌わざるをえない。
ああ、ヤハヴェよ。
御心(みこころ)が成就(じょうじゅ)されんことを。
聖名(みな)が永遠(とこしえ)に崇(あが)められんことを(!)。
アーメン
〔 完 〕
♢ ♢ ♢ ♢
(原著:藤井武『旧約と新約』第30号、1922年11月-夫人死去の翌月。『藤井武全集 第4巻 詩篇研究』岩波書店、1971〔昭和46〕年9月、281~283項を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足)
注1 詩篇 42:6b
詩篇 42:6bの引用については、各日本語訳『聖書』のほか、A.ヴァイザー著『ATD旧約聖書註解13 詩篇 中 42~89篇』(ATD旧約聖書註解刊行会、1985年)2項の聖書本文日本語訳を参照した。
注2 主の熱心・人の呻き
すべての人を救う神の愛(=主の熱心)は、神の許(もと)から迷い出て失われた者、労苦する者、重荷を負う者を探し求めて救うイエス・キリストにおいて、具現化された。
S・キルケゴールも、そのことを以下のように証言している。
「労苦する者、重荷を負う者はすべて、わたしのもとに来たれ。わたしはきみたちを休ませてあげよう〔マタイ 11:28〕。
驚け、驚け、救いをもたらしてくださるその人(=イエス・キリスト)が、みずから「来たれ」と言われるとは!
なんとういう愛よ!
救う力があって、救いを求める人に援助の手をさしのべることは、〔それだけで〕すでに愛である。
しかし、みずから〔進んで〕救いを提供されるとは! しかもすべての人に提供されるとは!
そうだ、受けた救いの恩返しをするだけの力のない、そのすべての人にむかって〔、無償の愛をもって〕である!
しかもまるで、救いを必要としているのは救い手自身であるかのように、救いを提供される、否(いな)、呼び売りされるのである。
すべての人を救う力と意志を持っておられるその人自身もまた、ある意味では救いを必要としておられるかのように。
すなわち、救おうとする要求〔=熱心〕に駆(か)られるあまり、悩める人々がいてくれてかれの救いを受け、それによってかれ自身を救ってくれるのを求めておられるかのように」。
(杉山好(よしむ)訳、S・キルケゴール著『キリスト教の修練』白水社、1963年。第1部「労苦する者、重荷を負う者はすべて、わたしのもとに来たれ。わたしはきみたちを休ませてあげよう」、「招き」17項より引用。一部表現を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足)
「『来たれ。』おお、立ち止まってはいけない。・・・
『来たれ。』おお、きみが労苦のために、あるいは、助けと救いを求めて、今まで遠く、遠く、しかし空しくさ迷ってきたために、どんなに疲労困憊(こんぱい)していようとも、また、これ以上は一歩も進めない、もう一瞬もこらえて立ってはいられないと思えようとも、ああ、あと一歩だけだ。
ここに〔真(まこと)の〕休み(イエスの休息)がある!
『来たれ。』ああ、いったい世のどこに、来られないほどに苦しい境遇を負った人がいるだろうか。ひと声の呻(うめ)きで十分なのだ。
きみがかれ(キリスト)に向かって呻くならば、それもまた〔彼の〕み許(もと)に来ることにほかならないのだ」。
(上掲『キリスト教の修練』第1部、「招き」Ⅲ 34~35項より引用)
※上に引用したキルケゴールの言葉は、慰めに満ちた呼びかけである。
しかしなぜ、「キリストに向かって呻くこと」が、「キリストのみ許に来ることにほかならない」のだろうか?
イエス・キリストは、今から2千年前のイスラエル -時間的にも地理的にも遙(はる)か遠いところ- に生きた人物ではないか。
そのキリストの許に、どうしてわれらが行けるというのか?
その理由は、キリスト自らが無限の隔たりを超えてわれらを、労苦する者、重荷を負う者を探し求めてくださっているからではないか。
《インマヌエルの神》であるキリストが、われらの傍(かたわ)らにまで来て、われらのかすかな声にも耳を傾けてくださっているからではないか(神学・論文 ブルンナー〖キリスト教とは何か ①〗2 へ)。
だから、われらの「ひと声の呻きで十分」なのではないか。
キリストは、われらの呻きを決して聞き漏らすことはない。
われらの思いが千々(ちぢ)に乱れて、祈りは言葉にならなくても、ただ主に向かって呻く。
それだけで、主はすべてを受けとめ、理解し、われらを愛と癒やしの御手(みて)の中に包んでくださる。
主の御声(みこえ)がわれらの魂に響きわたる。
「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。
たじろぐな、わたしはあなたの神。
わたしはあなたを強め、また助ける。
わが義(ただ)しき右の手で、しかとあなたを支える。」
(イザヤ 41:10、岩波訳、関根正雄訳参照)
そしてわれらは再び、起ち上がる。主に信頼して。
なんと、有難いことだろう。
人生行路では様々なことが起こる。
そしてわれらは、しばしば困惑し、落胆し、悲しみ、時に疲弊(ひへい)する。
けれども、救い主であるキリストがわれらの傍らに、そしてわれらの内にいてくださる。
それゆえ主から決して離れず、またすべての思いを主に打ち明けよう。
そうすれば、きっと主が最善の道を開いてくださる。最善の時に御心(みこころ)を成してくださる。
悩み、苦しみ、悲しみそして不安のただ中から、主を呼ぼう。
友よ!
注3 経綸(けいりん)
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