
イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2025年3月31日
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* * * *
ああ、勇士は倒れた
"Alas, the Warrior Has Fallen."
By Toraji Tsukamoto
ああ、イスラエルよ、お前の誉(ほまれ)れは、
お前の高き処(ところ)で殺された。
ああ、勇士(ますらお)は倒れた。
このことをガトに知らせるな。
アシュケロンの巷(ちまた)に伝えるな。
さもないと、ペリシテ人の娘らは喜び、
割礼(かつれい)無き者の娘らが勝ち誇るであろう。
ギルボアの山々よ、
お前たちの上に、
露は降りるな、雨も降るな。
裏切りの野よ、そこに
勇士の盾(たて)が汚(けが)され、
サウルの盾も、もはや油塗られることなく、捨てられているからだ。
ああ、勇士(ますらお)は戦いの中に倒れた。
ヨナタンはお前の高き処で殺された。
わが兄弟ヨナタンよ、君のために私は悲しむ。
君は、まことにわが喜び。
君の愛は私にとって、女の愛にもまさって、すばらしかった。
ああ、勇士は倒れた。
戦いの器(うつわ)は失(う)せた。
(2 Samuel サムエル記下 1:19~27。注:聖書協会共同訳、岩波訳、新改訳2017、関根正雄訳を参照し、訳文を改訳)
1
〔1-①〕
勇士(ますらお)は戦いの中に倒れました。私どもの勇士、藤井 武(たけし)君は倒れました。
私はダビデではありません。しかし、友ヨナタンを失ったダビデの心は、また私の心であります。私どもの心であります。
ああ、私たちのヨナタン〔、藤井君〕は戦いの中に倒れました。私どもの戦いの器(うつわ)は失せました。
〔1-②〕
わずか100日前に、〔恩師〕内村〔鑑三〕先生を葬(ほうむ)るに際し、「われらは先生の残された剣(つるぎ)を取り上げ、先生の屍(しかばね)を乗り越えて前進するであろう」と言った彼〔、藤井君〕は〔しかし〕、剣を取り上げる暇(ひま)もなく倒れました。
〔5月29日の〕青山会館の内村先生記念講演会において、「私どもは、すべての真理の敵に向かって、新たに宣戦を布告します」と叫んだその雄叫(おたけ)びは、まだ私どもの耳にふるえているのに、彼はもう、うち倒れました〔注2、3〕。
恩師の屍に折り重なって!
2
〔彼の名、「武」のごとく、〕戦場に屍を曝(さら)すのは、武人の命運であり、本望(ほんもう)であります。
しかし、これはまた余(あんま)りであります。私は、すべてが真っ暗になりました。何も解(わ)らなくなりました。不覚ながら、私は茫然自失(ぼうぜんじしつ)となりました。
詩人テニスンと共に、「おお時よ、私が夢を見ているのでないことを教えよ!」と叫びたくあります。
3
藤井君はあらゆる意味において、なくてはならぬ人であります。
9年前に愛する母親を失った幼き者たち-19歳を最長に9歳を最小とする子供たちに〔とって〕、またわずか4ヶ月前に夫を失った老いた母上にとって、彼がなくてはならぬ人であることは、言葉を待ちません。
また、彼は、彼の友人たちにとって、なくてはならぬ人でありました。
彼は友人の間における最も正しき、また信頼すべき、真理の物差しであり、また、彼の友人たちは、彼以上に純情な友、至誠(しせい)の友、純真直截(ちょくさい)な判断忠告を与えてくれる友を、他に求めることができないからであります。
ことに私にとって、彼は唯一無二のクリスチャン・フレンドであり〔、私の一部でさえあり〕ました。藤井を失って、もはや私は完全ではありません。彼は誰よりも、誰にとってよりも、私になくてはならぬ人でありました。
4
しかし公人〔としての〕藤井君は、これらすべてに勝(まさ)って、必要不可欠な人でありました。
彼は日本にとって、キリスト教界にとって、しかり全世界にとって、なくてはならぬ人でありました。内村先生無き今日において、ことにそうであります。
ほとんどの人がこれに気づいていません。しかし、このことは、今から20年、50年後において明白になるでありましょう。
「眼(め)ある者は見るべし」であります。
5
私は彼の豊かな天分や、彼の流麗(りゅうれい)な文章について言っているのではありません。
ことに後者については、私はあまりの嫉(ねた)ましさに、かつて〔彼に向かって〕冗談に「巧言令色(こうげんれいしょく)」と言って 、絶交を求められたことすらありますから、もちろん、このことを言っているのでありません。
また必ずしも〔彼の伝道雑誌〕『旧約と新約』誌〔のこと〕を言っているのでもありません。
もちろん、〔主筆逝去に伴う〕同誌の廃刊は、何よりも大きな損失であります。〔すべての星の中で最も明るい〕おおいぬ座〔のシリウス〕が隕(お)ちたように、寂(さび)しく感じます。
また、もしできるならば、〔東京〕神田の雑誌店に堆(うずたか)く積み上げられている数十百の群小群大の雑誌を焼き捨ててでも、同誌だけは残しておきたいと思います。
しかし、これさえも絶対に必要なものではありません。
6
私がなくてはならぬと言うのは、彼の生活-若き預言者として、〔また〕十字架の戦士としての彼の生活それ自体であります。
彼は自分の師内村先生を〈預言者〉と呼び、〈近代の戦士〉と呼びました(注4)。しかし、彼自身、最も預言者らしき預言者であり、彼自身、最も強力な戦士でありました。
〔内村〕先生が偉大であるのに対し、彼は純真でありました。
先生が深く汲(く)み尽くすことができないのに対し、彼はあくまでも徹底でありました。
先生が抱擁(ほうよう)的であるのに対し、彼は孤独でありました。
先生に温情、人を魅了するものがあるのに対し、彼には剛健(ごうけん)な金鉄の意志がありました。
しかし、〔両者〕共に乙女(おとめ)のごとく純情であり、火のごとく熱いハートがありました。
もし先生がイザヤ型の預言者であるならば、藤井君は実にエレミヤ型〔の預言者〕でありました。
7
私はいまだかつて、彼のごとく真理と誠実と純真と生命(いのち)と自由を熱愛(ねつあい)し、虚偽と不純と死せる形式を熱憎(ねつぞう)した人を見たことがありません。
真実は実に、彼の生命(いのち)でありました。
そのためには、彼はいかなる犠牲も高価すぎるとは思いませんでした。しかり、彼は自身の生命をもそのためには犠牲にしたでしょう。彼はどこまでも真実であろうと願いました。
水晶のごとく透明徹底した真一文字に、生(き)一本に、その心の、その霊の純潔を捧げ尽くすことが彼の唯一の念願であり、〔生涯の〕事業であり、彼の生命でありました。
自身の親に対し、子に対し、妻に対し、その使用人に対し、しかり、彼は愛犬に対してまでも、真実至純な関係を求めました。彼は鵜(う)の毛ほどの不純も容(ゆる)すことができませんでした。
8
そして、これらすべての本源は、もちろん神に対する彼の無条件の信頼、絶対の真実でありました。
真(まこと)に、イエスのごとく、「アーメンである方、忠実で真実な証人」(ヨハネ黙 3:14)となることが、彼の唯一、最終の祈りでありました。
そしてそのためには-神に対しアーメンである者であり、神の忠実な証人となるためには、何をも辞(じ)しませんでした。彼の神経は、これに対し驚くほど敏感でありました。
もしこれを侵(おか)す者があれば、彼は誰とでも戦いました。親と戦い、子と戦い、妻と戦い、先生と戦い、友人と戦いました。しかも堂々の陣を張り、正面から「突き」の一手で戦いました。
内村先生すら藤井君の正面攻撃には恐れをなして、「藤井は神様のほかに恐(こわ)い者を知らない」と言われました。
そして一旦、戦闘を開始したが最後、一方が斃(たお)れるまでは決して止(や)みませんでした。ほんとうに彼は善く戦いました。
〔聞くところによれば、〕現に彼は、斃れる2、3日前にも、ある親しき友人の態度の不誠実を怒って、” 果たし状 ” を送ったとのことであります。
しかしながら、これはみな、神への熱愛と、愛する者への熱愛との尊い実でありました。
ゆえに、その激しき突撃の後ろに、熱い、熱い涙がありました。この百万の敵をも恐れない彼に、乙女(おとめ)のように優しき心(ハート)がありました。
本当に、それはみな、愛すればこその戦いでありました。やむにやまれぬ戦いでありました。神ゆえの、人ゆえの。
9
43年の藤井君の生涯は、文字通り血みどろな生涯でありました(私はこれ以上彼に長く生きていてくれという勇気を持ちません)。彼がキリストの戦士となって以後の生涯が、ことにそうでありました。
彼はただ神への忠実な生涯を送ろうとして、内に外に、猛(いさま)しき風波を巻き起こしつつ、一直線に勇往邁進(ゆうおうまいしん)しました。
ことに彼が自分の愛する半身(妻)を失い、〔なお、〕神を義(ぎ)とすべきことを学んで以来、彼の生涯は目覚ましいほどに徹底しました。
彼は神のみを、無条件に神のみを信じて歩きました。いかなる時、いかなる場合、いかなる事においても、絶対無条件にだだ、神を義とする生活が始まりました。
彼は貞淑(ていしゅく)な妻の心で、ただ純一(じゅんいつ)に神のみを慕い喘(あえ)ぎました。
10
その最も善き一例は、彼の幼き者たちへの親としての心遣(づか)いと、神への絶対信頼との〔間の〕痛ましき戦いでありました。
「私は若者であったときも、年老いた今も、義(ただ)しき者が捨てられ、その子孫がパンを乞(こ)うのを見たことがない」〔詩篇 37:25〕。
と聖書にありますけれども、〔窮乏生活を覚悟した独立〕伝道者の心はわが子ら〔のこと〕を思って、乱れます。
〔藤井君は〕人一倍、愛情深き父〔親〕であります。その幼き者たちの〔寝〕顔を見ては、その猛(たけ)き心も幾度か崩(くず)折れました。
忘れもしない1922(大正11)年11月20日 - 彼がその愛する者を喪(うしな)って20日後 - 秋の午後、〔自宅〕裏の小径(こみち)を歩きながら、彼は、自分の死期の近いことを感じると言いながら、私にその幼子達を託したことがありました。
彼は後(のち)に、このことについて自分の薄信(はくしん)を慚(は)じると言いました。しかし、世のどんな親が、自分の子らの将来を思慮しないでいられましょうか。
私自身、〔伝道生活の困窮によって〕今夜、餓死することも厭(いと)いません。しかし愛する子らのために明日のことを思い煩(わずら)うな、との軛(くびき)は余りに重くあります。
しかし藤井君は、たびたび言いました。「すべてのことを神様にお委(まか)せしておきながら、子供のことだけはお委せできない〔という〕訳(わけ)はない」と。
これは彼にとり、実に痛ましい戦いでありました。何よりも辛(つら)い戦いでありました。
しかし〔彼は〕、最後についに、これに勝ちました。
彼は「ヤハヴェ・イルエ」(神、備え給う、創世記 22:14)を信じて、アブラハムと共に、自分の子らを神の祭壇(さいだん)に捧げました。これができて、彼の絶対信頼の信仰を完成しました。
ああ、何と痛き、何と重き十字架〔であること〕よ!
そして、彼がいかに完全にこのことに打ち克(か)ったかは、彼の雄々(おお)しき、否(いな)、羊のごとく従順な彼の最後が、これを明白に示しています。
11
〔1930(昭和5)年〕7月14日の午後3時、急を聞いて私が〔駒沢新町の藤井宅2階〕に駆けつけた時は、藤井君はもはや、最後の息を引き取ろうとするところでした。
〔5人の〕幼き者たちは、父親の手をとりながら、「お父さん、お父さん」、「お母さんと一緒に〔天国で〕待ってて下さい」「私たちもじきに参(まい)ります」と泣き叫んでおりました。
彼はただ黙って、右から左、左から右へと、その愛する小さき者たちの顔をしげしげと見入りました(彼の意識は清明でした)。
〔そして〕彼は一言を〔も〕発せず、一滴の涙を〔も〕こぼさず、悲しみの眼(ま)ばたき一つせず、ただ、しげしげと子らの顔に見入りながら、〔同日午後3時45分、〕静かに自らの霊を父なる神に託しました。
あたかも、自分の子らがすでに天使の懐(ふところ)に〔護られて〕あるのを知っているかのような平安さをもって・・。
ああ、なんと厳粛な、また壮烈な、神々(こうごう)しき光景(シーン)よ!
これはただ、神の人の間でのみ、見ることをゆるされる場面であります。私は地上で見ることを許されざるものを見ました。
ほんとうに最後の藤井君は〔、神による〕完成の藤井君でありました。〔神に対する〕信頼そのものでありました。
羔(こひつじ)の婚姻がすでに成ったかのような藤井君でありました。私は未(いま)だかつて、彼のように逝(い)った人を知りません。
12
藤井君が無くてはならぬ人であると私が言うのは、この意味においてであります。
彼のごとく徹底して神を、神のみを信じた人が、今日(こんにち)の日本のどこに、教会のどこに、世界のどこに居るでしょうか。
聖書学者も、伝道者も、掃(は)いて捨てるほど沢山います。また、絶対信頼を説く人も決して少なくありません。
しかし藤井君のごとくに、真実を生き、言葉のままに絶対信頼に生きる人はいません。少なくとも私は、未だかつて見たことがありません。
神半分・この世半分、信仰半分・常識半分の人は多くいます。しかし藤井君のごとくに、だだ信頼の一本調子で、一切合切(がっさい)を神に委(まか)せきった人を知りません。
「ただ神の国と神の義とを求めよ。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる」との御言葉を、彼ほど馬鹿正直に信じ、かつ実行した人に、私は出くわしたことがありません。
13
彼は少しの譲歩も、弛緩(たるみ)も見せず、緊張そのものの四十幾年の生涯の後(のち)に、斃(たお)れました。
まことに、近時の偉観(いかん)でありました。明治、大正、昭和の時代(注:19世紀半ば~20世紀1/3)に生きて、この偉観を見ることができなかった人は、大きな不幸であります。
巨船が太平洋の怒涛(どとう)を蹴(け)って進むかのように、台風が高原を席巻(せっけん)し去るかのような偉観でありました。
ほんとうに彼の生涯は、戦闘(たたかい)の生涯であり、また主にありて完全に勝利した生涯でありました。
このような戦士を私どもの中に持った〔ことの〕誇りは大きいと共に、これを喪(うしな)った痛恨(つうこん)の思いも〔また、〕大きいのであります。
内村先生を喪い、また藤井君を喪って、われらは思わず、わが軍の空(むな)しきを感じます。「割礼(かつれい)無き者の娘ら」が、さぞ喜んでいることでありましょう。
しかし、すべては神の御意(みこころ)であります。それゆえ、すべては最善であります。
内村先生斃れ、藤井君仆(たお)れて、必ずや生きているとき以上の力を〔天より〕わが軍に遣(おく)ってくれることを信じます。
それゆえ私どもは戦いましょう。一人ひとりが大小の内村となり、藤井となって。
〔真理の〕敵は強く、戦(いくさ)は激しくあります。
しかし私どもは、必ず勝ちます。否(いな)、〔キリストにあって〕すでに勝っております。
〔それゆえ〕アーメン、ハレルヤ〔であります〕!
♢ ♢ ♢ ♢
(1930(昭和5)年7月16日、柏木聖書講堂に於ける藤井武告別式にて。矢内原忠雄編『藤井武及び夫人の面影』藤井武全集刊行会、1940年、45~52項。一部表現を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足・敷衍)
注1 ヨナタン(Jonathan)”ヤハヴェが与えられた”の意
イスラエル全12部族の最初の王であるサウル王の長子。ヨナタンは父サウル王と共に、ペリシテ人との戦いを指揮した。
ダビデがペリシテの巨人・ゴリアトを倒した後、サウル王はダビデを戦士として採り入れた。ダビデは後に、イスラエル軍の将軍となった。
ヨナタンは次第に、ダビデを尊敬するようになり、ダビデの忠実な友となった。
将来、サウル親子に代わってダビデがイスラエル王国を治めるようになるであろうというサムエルの予告(サムエル記上 20:31)-つまり、ダビデの存在が自らの王位継承を脅(おびや)かすであろうことを重々承知の上で、ヨナタンはダビデと兄弟の契(ちぎ)りを結んだのである。
ダビデに対するヨナタンの愛は強く、サウルがダビデの華々(はなばな)しい勲功(くんこう)に嫉妬して彼を宮廷から追放しようとした時にも、ヨナタンは彼のために執(と)り成しをした。
そればかりか、ヨナタンはダビデを守るために、幾度も、自分の命を危険にさらしたのであった。
サウル王はギルボア山での最期の戦いでペリシテ人に惨敗(ざんぱい)し、ヨナタンはサウルと共に戦死した(サムエル記上 31:2)。
彼らの遺体は鎧(よろい)を剥(は)ぎ取られ、ベト・シャンの城壁につるされた。
それを知ったギレアド・ヤベシュの住民は、城壁から遺体を下ろして、ヤベシュに持ち帰って火葬した。そして、その骨を拾い、ヤベシュのタマリスクの木の下に葬(ほうむ)った(サムエル記上 31:1~11)。
ダビデはサウルとヨナタンの死を深く嘆き悲しみ、「弓」と題する冒頭の哀歌(あいか、サムエル記下 1:17~27)を詠(よ)んだのである。
(参考文献:旧約聖書サムエル記上・下、『カラー版 聖書大事典』新教出版社、1991年、974~975項、ピーター・カルヴォコレッシ著『聖書人名事典』教文館、1998年、161項)
注2 病軀(びょうく)をおして起った藤井
藤井武は大正4(1915)年、栄達の道が約束されていた官職をなげうって伝道を志(こころざ)し、内村鑑三の助手として働きながら、内村の雑誌『聖書之研究』に寄稿し、内村の再臨(さいりん)運動にも加わってこれを助けたが、大正9(1920)年以来独立して伝道雑誌『新約と旧約』を自ら発行していた。
藤井の住居は玉川に近い駒沢の新町にあったが、彼は日曜日の午前そこで少数の青年たちに聖書を講じ、午後には読書研究会を開いていた。
この研究塾を彼は「新町学廬(がくりょ)」と名づけて、ミルトンやダンテやカントを読んでいたのである。・・・
しかし新町学廬は長くは続かなかった。藤井武が胃潰瘍のため倒れたからであった。
3月に内村鑑三が天に召されたとき、藤井は病床から内村鑑三の告別式にかけつけて熱烈な追悼(ついとう)の辞を述べ、5月29日の内村鑑三記念講演会でも病軀(びょうく)をおして壇上に立ち、あらゆる真理の敵への宣戦布告を力強く述べた。
その1ヶ月半後の7月14日、今度は藤井武が世を去ったのである。
(参考文献:矢内原伊作著『矢内原忠雄伝』みすず書房、1998年、「6 預言者の死」411~412項より抜粋)
注3 内村の死、藤井武の雄叫び
①時代背景-東京の狂喜乱舞と日本の危機
「歓喜の乱舞(らんぶ)の中に/沸き立った全帝都/昨日の人出実に200万/素晴らしい復興の首途(かどで)よ」
これは昭和5(1930)年3月27日の『東京朝日新聞』朝刊社会面の大見出しである。
当時のこの前後の新聞紙上には、減給、大量解雇、相次ぐストライキ、失業地獄といった深刻な不況を物語る記事が充満している・・
この「歓喜の乱舞」の記事は・・・一時的にでも不景気風を吹き飛ばそうと、東京市が官民一体で催(もよお)した「復興祭」の最終日の報道なのである。
復興祭は・・・3月23日から3月26日の4日間にわたって盛大に挙行され、花電車、旗行列、提灯(ちょうちん)行列、音楽行進、その他さまざまの催しが連日華(はな)やかにくりひろげられ、・・最終日は空前の人出で賑(にぎ)わったのだった。
不況とお祭り騒ぎのあいだには、密接な関係があるらしい。そして昭和5年のそれは、ファシズム台頭の予兆でもあった。
②内村の遺言-宇宙完成の祈り
東京全市が華やかな復興祭に酔っていた3月26日、内村鑑三の誕生日に彼の弟子たちは、柏木の今井館に集まって厳粛な会合を持っていた。
その日はちょうど内村鑑三満70歳の誕生日で人々は恩師の古稀(こき)を祝う感謝会を開いたのだが、そのとき鑑三は心臓発作のためすでに重態で、瀕死(ひんし)の床にあった。
したがって、祝賀感謝の会といっても、実は告別に近い悲痛な祈祷(きとう)会だった。
しかし病床の鑑三は自分のために弟子たちが集まってくれたことをよろこび、苦しい息の下でその人々へのメッセージを語った。令息祐之(ゆうすけ)がそれを紙に書きとり、感謝会の会場にもたらした。
読みあげられたのは、次の二つの言葉である。
「万歳、感謝、満足、希望、進歩、すべての善きこと」
「聖旨(みこころ)にかなわば生きのびてさらに働く。
しかしいかなる時にも、悪し(あ)きことは、われわれ及び諸君の上に未来永久に来ない。
宇宙万物、人生ことごとく可(か)なり。言わんと欲(ほっ)すること尽きず。人類の幸福と日本国の隆盛と宇宙の完成を祈る」
これは信仰ひとすじに苦難の生涯を希望をもって生きぬいたスケールの大きな思想が内村鑑三にふさわしい、壮大な遺言である。
この時のことを記して〔矢内原〕忠雄は「死の苦しみの発作の中から内村鑑三の唇を出たこの二つの言葉が、小さき紙片にうつしとられ、私どもの集(つど)うていた場所にもたらされて一同の前に読まれた時、私どもは先生の霊魂の偉大さにじかに触れたような厳粛な感動に満たされました」と書いている。
その2日後〔の3月28日〕に、内村鑑三はその信仰による不屈の戦いの生涯を終えたのだった。・・・
③藤井武の雄叫び
〔同年〕5月28,29日の2日にわたって、内村鑑三記念キリスト教講演会が東京青山会館で開かれ、藤井武、塚本虎二、矢内原忠雄、三谷隆正、畔上賢造、金沢常雄、黒崎幸吉の7人が講壇に立った。・・・
昭和5年の時点で、前記7人は内村鑑三の戦いを戦い続けるという点で結束して、講壇を共にした。その記念講演会の第2日目のしめくくりは、藤井武の「近代の戦士、内村先生」と題する講演だった。
藤井は当時すでに悪化していた持病の胃潰瘍(かいよう)の病床から出てきて登壇(とうだん)したのだが、本節冒頭に触れた東京復興祭のお祭り騒ぎから説き起こし、唯物(ゆいぶつ)思想と享楽主義の流行を弾劾(だんがい)し、「戦士」としての内村鑑三の戦いについて熱弁をふるい、その講演を次の言葉で結んだ。
「〔内村〕先生は斃(たお)れました。その戦いは勝利でありました。
しかしながら、現代のハルマゲドンの大戦争はまだ終わったのではありません〔注-「ハルマゲドン」は『〔ヨハネ〕黙示録』にあるこの世の王たちとキリストとの決戦場〕。
穢(けが)れた霊は致命傷を受けながらも、今なお活動を続けています。
マルクスは叫びます。アメリカは動きます。学者は囚(とら)われ、青年は迷わされ、教会は堕落(だらく)します。
私どもは起(た)たざるを得ません。
私どももまた真理のために、十字架の義のために、先生の遺(のこ)しました剣を取り上げ、先生の屍(しかばね)を乗り越えて、さらに前進を続けなければなりません。われらの戦いはこれからであります。
すなわちここに、先生の記念会に当たって、私どもはすべての真理の敵に向かって、新たに宣戦を布告します」(岩波版『藤井武全集』第10巻187項)
(参考文献:上掲『矢内原忠雄伝』、406~410項「6 預言者の死」より抜粋。一部表現を現代語化。①~③の小見出し、( )、〔 〕内、下線は補足)
注4 近代日本の預言者
内村鑑三を中心に論じたものとして、最近では、ブリティッシュ・コロンビア大学名誉教授 J.F.ハウズの大著『近代日本の預言者 - 内村鑑三、1861-1930年』(堤稔子(としこ)訳、教文館、2015年)がある。
