イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2024年12月7日
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紹介・書評 009
2021年1月1日改訂
タケサト カズオ
島崎暉久著
「ヨハネ福音書と現代 第4巻」
- 現代世界に語りかける、神の御声に聴く-
証言社、2021年1月1日刊行、B6判・定価:本体2,000円+税
☆ 注文方法は、本ページ末尾に記載
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島崎輝久(てるひさ)著『ヨハネ福音書と現代』第4巻が発刊の運びとなった。
本聖書註解の数項をひも解くならば、読者は、本書が著者の「信仰と学問の結晶」であることに気づかれるだろう。
すでにこの註解シリーズをお持ちの読者には、ただちにこの「真理の森」に分け入ることを勧めたい。
しかし、聖書註解書は初めて、という方もおられるかも知れない。
以下、その方々のため本註解が前提としている、聖書そのものの受けとめ方と聖書との向き合い方とについて、一言述べたい。
1. 聖書の二重性
内村鑑三は、島崎氏の信仰的・思想的源流に位置する人物の一人であるが、彼は聖書の本質について、核心を突く言葉を残している。
内村は言う。
「神の聖旨(みむね)を人の手をもって写したもの、これが聖書であります。」(「聖書の話」、『聖書之研究』第1号、1900年9月所収)
内村は、聖書は二重性を持つ、つまり聖書は神の御心(みこころ)を伝える神の言葉であると同時に、人間が書いた言葉でもあるというのである。
島崎氏も、この聖書観を共有している。
2. 「神の自己啓示」としての聖書
聖書が《神の言葉》であるとは、一体、何を意味するのだろうか。
20世紀の代表的神学者の一人であるエーミル・ブルンナー(1889~1966)は、その著「キリスト教とは何か」において、聖書の際(きわ)だった特質について次のように述べている。
「聖書の〔証言する〕生ける神は、〔決して、人知が考える〕抽象〔的な、貧しい統一理念〕ではなく、〔生ける〕人格的〔な愛〕の力、私たち〔人間〕の霊にご自身〔の御心の秘密〕を打ち明け〔、ご自身を人間に与え〕てくださる霊〔的・人格的な神〕である。
〔まことに、〕私たち人間に《汝(なんじ)》と呼びかけて下さる、《我(われ)》〔としての人格的な神〕である。
聖書は、哲学者の書いた〔抽象的・無時間的な理念の〕本ではなく、神の〔具体的・歴史的な〕自己啓示を証言する書物である。
それゆえ、聖書を読むことは、哲学書を読むのとは全く異なる。
聖書において私たちは、神から個人的に〔《汝》と〕呼びかけられ、〔神によって、良〕心を射(い)ぬかれ、〔罪を〕裁かれ、〔そして罪赦されて、真に〕慰められるのである。
聖書を読むことにより、私たちは〔生ける神と人格的に出会い、〕神の愛をいただく。そして、その神の愛は、私たちの命となるのである。
聖書における神の最高の自己啓示は、イエス・キリストであり、《受肉(じゅにく)》し〔て人となっ〕た神の言葉(ロゴス)である。・・・・
神は、〔かつて〕イスラエルの大預言者たちを通じて、ご自分の言葉を語られた。
私たちはしばしば、旧約聖書に「主〔なる神〕は、こう仰せられる」と書かれているのを見る。
旧約聖書の預言の言葉は、〔神が預言者に託した、〕真(まこと)に《神の言葉》であって、神はこれによって神の性質、奥義、目的、計画を〔私たち人間に〕啓示される〔のである〕。
しかしこれは、まだ神の最終的〔・究極的〕な啓示ではない。
神は〔、預言者を通して〕語られた言葉によるよりも、もっと親密に私たち〔人間〕に近づこうと願われたのである。
預言者たち自身も、彼らが〔神によって〕語るべく命じられた以上の究極的〔・決定的〕な啓示が〔神によって〕備えられているのを感じていた。
〔事実、〕彼らは〔大いなる希望を抱(いだ)きつつ〕、《インマヌエル》(神われらと共にいます)の到来を預言した〔のである〕(イザヤ 7:14)。
そして、〔預言者〕イザヤがインマヌエルについて預言してから実に700年後に、そのインマヌエルは、イエス・キリストという人となって〔、私たちの間に〕来た。
キリストは、ただ〔神の〕言葉を語るだけなく、〔同時に〕彼自身が〔神の〕言葉〔- ロゴス- そのもの〕である。
「〔神の〕言葉(ロゴス)が肉〔なる人イエス・キリスト〕となり、〔私たちの間に到来した。〕私たちはその栄光を見た」(ヨハネ 1:14)。
「私(キリスト)を見た者は、父〔なる神〕を見たのである」(ヨハネ 14:9)
- これがイエス・キリストの奥義である。」
(中沢洽樹・川田殖編『日本におけるブルンナー』新教出版社、1974年所収の「キリスト教とは何か」より引用。( )、〔 〕内は引用者による補足、以下同様)
つまり、聖書は歴史的な出来事や預言者の言葉を通して表された、神の自己啓示を証言する書物である。
そして聖書における神の究極的な自己啓示は、イエス・キリストその人 - 受肉した神の言葉(ロゴス)- である。キリストは、ただ神の言葉を語るだけなく、彼自身が《神の言葉》そのものである。
このように、ブルンナーは証言している。
3. 「人の手になる書」としての聖書
一方、内村は、聖書は「人の手をもって写したもの」、つまり人間が書いた言葉でもあるという先の言葉に続けて、次のように敷衍(ふえん)している。
「〔聖書は、時代的制約のある〕人〔間〕の手に〔よって〕成ったものでありますから、これに文字上の誤謬(ごびゅう)、歴史上の不明、科学上の欠点があるのは、決して不思議なことではありません。
聖書を完全無欠、万事、万物を識別するための経典と思う人は、必ず、この尊い書について躓(つまず)く者です。
・・・聖書を読めば天然と人類とに関することは何でも分かるものと思う人は、いまだ聖書の何たるかを知らない人であります。」
(「聖書の話」より、現代語による引用)
つまり、人間の手になる聖書の文字面(づら)を絶対化して、それを機械的に万事・万物の判断基準とするとき、聖書の受けとめ方が浅薄なものとなり、聖書自体に躓いてしまう。聖書の本質を見誤る、という。
これは、原理主義的(ファンダメンタル)な聖書観の大きな問題点でもあろう。
さらに内村は、われわれが現有する聖書の問題点- 後代の教会による福音書編集の際に行われた加筆、削除、改変 -についても、次のように指摘をしている。
「・・それは、〔現有の〕聖書そのものが〔後代の〕教会によって編集された書物だからである。
〔つまり、〕教会は自己の便宜(べんぎ)に従い、〔聖書の元となった伝承や資料に〕あるいは〔教会の考えを〕加筆し、あるいは〔不都合な部分を〕削除した。
しかしながら教会は、原資料に添削(追加・削除・改変)を行うに当たって、原資料に現われていたイエスの精神を〔完全に〕隠蔽(いんぺい)することはできなかった。
〔現有の〕新約聖書は、教会による改変・削除にもかかわらず、〔見る目をもって見るならば、なお〕イエスの自由(・・)な(・)精神を鮮(あざ)やかに示している。・・」
(『聖書之研究』1911年8月所収、「無題(現今吾人(ごじん)の有する聖書)」の現代語による引用)
4. 福音書の歴史的・批判的研究
聖書批評学- 福音書の歴史的・批判的研究 -の成果によると、イエス・キリストの言行と使信を証言する福音書は、各聖書記者とその聖書記者の背後に存在する信仰共同体- 教会(教団) -の信仰的・神学的理解を反映した作品であることをわきまえる必要がある、とされる。
また福音書は、イエスに関する口頭伝承から始まって、伝承収集、保存、文書化、そして福音書の編集に至るあらゆる段階で、当時のキリスト教徒たちが様々な解釈や書き込みを行った可能性があることを想定し、注意深く読まなければならない、とされる。
(同志社大学教授越川弘英『新約聖書の学び』キリスト新聞社、2016年、「第四章 イエスの誕生 (1)イエスに関する資料と研究」、「第12章 新約聖書の誕生(2)」)
現代聖書批評学の到達点と先の百年以上前の内村の所見は、ほぼ一致しており、今さらながら内村の慧眼(けいがん)に驚かされる。
5. 学問的聖書研究の必要と限界
人の手になる聖書(特に福音書)を正確に読み解き、イエスの原初の声に耳を傾けるためには、後代の教会による追加、削除、改変を厳密に弁別(べんべつ)する必要がある。
そのためには、歴史学、言語学、考古学、思想史、文学等を踏まえた学問的な聖書研究- 現代聖書学 -に通じることが求められる。
しかし学問的な聖書研究には、特有の落し穴と限界があると考えられる。
人間の考え出した聖書解釈のモデル(様式史批評におけるヨーロッパ民話形成モデル等)が聖書解釈と判断の《主体》となり(この場合、神・キリストは人間によって判断が下される対象・《客体》となる。注1)、聖書を通して語りかける真(まこと)の神・キリストに対して、身を低くして耳を傾けることを阻害する危険である。
6. 聖霊の導きによる聖書研究
イエス伝承に加えられた後代教会の改変と夾雑物(きょうざつぶつ)を峻別(しゅんべつ)し、イエスその人の生きざまと、イエスの福音の神髄を把握すること。
また、聖書の字句の表面に捕らわれることなく、聖書の文字の背後から語りかける《神の細き御声(みこえ)》に心耳(しんじ)を澄ますこと。
本聖書註解は、生けるイエス- 聖霊 - の導きにより、これらの困難な試みに果敢に挑戦した証(あか)しである。(注2)
祈りをもって本註解を読むことにより、読者諸氏が聖霊の命の注ぎを受け、混迷の時代を、希望をもって力強く前進することを希(こいねが)う。
*著者・島崎輝久氏は、キリスト証言集会責任者。月刊誌『証言』主筆。福井大学名誉教授。
♢ ♢ ♢ ♢
注1 神・キリストと人間との無限の質的差異
聖書が証言する真(まこと)の神は、誕生138億年の全宇宙とその中の万物を創造された方であり、宇宙を越えて無限大、かつ全知・全能のお方である。
また、「その神の大きさ、広さ、温かさ、厳しさを人間となって(受肉して)、私たちに現してくださったのが、イエス・キリストである。
私たちは、そのイエス・キリストを、そういう大いなる、宇宙全体を包む、永遠にわたる、真理そのもの唯一の具現者たる、一(いつ)なる神の独(ひと)り子と信じる。キリストはそれ以下の方ではない。」
(大阪市立大学名誉教授・佐藤全弘氏(哲学)による、『ヨハネ福音書と現代 第1巻』序文より)
神・キリストと人間との間には、《無限の質的差異》がある(S・キルケゴール)。
にもかかわらず神・キリストはわれらを救うため、無限の距離を超えてわれらのもとに降(くだ)られる(降られた)、と聖書は証言する。
その神・キリストが人間の頭脳の中に収(おさ)まり、人間に判断を下される対象・《客体》となりうるだろうか。
真(まこと)の神・キリストは、人間の判断や評価に寸毫(すんごう)も影響されない。微動だにしない。
人間が把握し、判断を下したつもりでいる「神・キリスト」は、実は人間が思い描いた《虚像》(きょぞう)にすぎないのであって、真(まこと)の神・キリストとは無関係である。
有限な人間が神・キリストを把握できると考えるのは、《自我》が肥大化し、真の神との《無限の質的差異》を忘れた《近代人》の傲慢(ごうまん)ではないのか。
注2 聖霊の導きによる聖書研究
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証言社刊『ヨハネ福音書と現代 第4巻』
定価:2000円+税
2021年1月1日刊行
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