イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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1891(明治24)年3月3日生まれ-1966(昭和41)年4月19日召天(享年75)。
1891(明治24)年3月3日、福岡県吉井町にて5人兄弟の四男として出生。
父は豊田貫一、当時吉井町で開業していた医師であり、母は琴、福岡県志和町の出身。
1894(明治27)年、3歳の時に父貫一が脳卒中にて急逝し、兄弟と共に母親の実家に引き取られたが、まもなく転じて吉井町の親戚籠田家に寄宿して尋常小学校を卒業。その後、久留米市県立明善中学校を卒業。
1912(明治45)年、熊本の第五高等学校卒業し、同年、東京帝国大学医科大学入学。
1917(大正6)年、同校卒業。約1年間海軍機関学校に勤務の後、軍艦比叡に乗艦。
1920(大正9)年、和泉橋慈善病院小児科勤務。
1923(大正12)年、吉田孝子と結婚(後に一男二女をもうけた)、同年東京帝国大学医科大学薬理学教室に移り、2年間薬理学研究に従事して後、小児科教室に転じ小児科学を窮めた。
1927(昭和2)年10月、医学博士の学位取得(東京帝国大学)。
1929(昭和4)年、豊田小児科診療所(麻布区新堀町)開設し、以後14年間、小児科専門医として多忙な臨床業務に専念したが、
1943(昭和18)年、遂に健康を害して臨床医たることを断念し、診療所を閉鎖。
この間、1927(昭和2)年、忙しい臨床の合間をぬって内村鑑三に師事して聖書を学び、1929(昭和4)年10月よりギリシャ語聖書研究会、さらにヘブライ語聖書研究会に入会してギリシャ語、ヘブライ語の素養を積んだ。
1930(昭和5)年3月、内村没後は塚本虎二主催の聖書研究会の会員となり、1943(昭和18)年、診療所を閉鎖して後は、もっぱら聖書研究に従事することとなった。
一方、1941(昭和16)年より1947(昭和22)年まで7年間、ギリシャ語聖書研究会の講師として新約聖書ギリシャ語原典を講義、傍ら津田塾大学、日本女子大学で新約聖書の釈義を行い、1945(昭和20)年夏には北海道帝国大学の学生のために講義を行った。
1952(昭和27)年4月から1962年まで、信仰上の親しい友人、石川静子が校長であった鷗友(おうゆう)学園女子高等学校に於いて、週2回英語の授業を担当、1952年5月以降は日本大学講師としてキリスト教学を担当した。
1960(昭和35)年12月、塚本虎二の病気による「丸の内聖書研究会」解散にともない、1961(昭和36)年1月15日、「丸の内聖書知識誌読書会」が発足し、以後5年間、豊田栄の手によってマルコ伝講義が続けられた。
豊田は本来、小児科医であり、これはその最も愛した職業であって、自らこの職を重んじ、これを自ら捨てる気はなかった。
たまたま内村鑑三から福音を教えられ、塚本虎二から聖書を学び、信仰に対する熱心を内に秘めながらも、本人は一開業医たることに満足し、これを喜びとし誇りとして、一日といえども自らの仕事をおろそかにはしなかった。
健康を害して遂に医師としての仕事を断念するにいたったのも、あまりに臨床医家として自ら持するに厳であったためであった。しかしその反面、これを機として聖書の研究に専念することが、豊田の唯一の慰めとなった所以(ゆえん)でもある。
しかも1945(昭和20)年の〔アジア太平洋戦争〕敗戦と共に日本の国内情勢、特に貨幣価値の崩壊等により経済状況は一変し、多年にわたり培(つちか)われた豊田の経済的基盤も根底からくつがえった。
そのため、豊田の小児科医としての手腕を惜(お)しむ意味からも、また家庭の経済を支える意味からも、再び医師として働くことを多くの知人から勧められたのであったが、家族は心から感謝しながらも、一致して豊田が医業を廃した時の志を貫くことを望み、豊田が最も愛した職業に戻ることを拒んだのであった。
1952年に鷗友学園に英語教師として不慣れな仕事をすることになったのも、一つはこのためである。
しかし豊田はこの任を果たすためにあくまでも誠実であって、実兄でありまた英学者でもあった当時の青山学院院長豊田実博士に繁(はん)をいとわず問いただし、勉励ひたすら努めて数年は、家族が「英語などやらせるのではなかった」となげいた程に英語の研究に精根を込めた。
この時の努力は後にマルコ伝講義を行うさい、諸種の英語の註解や研究書を渉猟(しょうりょう)読破するにあたって、どれほど豊田を助けることになったか分からない。
豊田は生来、語学が好きで、「僕は語学者になればよかった」と述懐している程であるが、第五高等学校卒業在学中はドイツ人教師に可愛がられ、ドイツ語は常に最高点であった。
その後医学修得の際にさらに練り上げられたドイツ語の知識にギリシャ語、ヘブライ語が加わり、その上に英語が重ねられたこと、そして多年、諸所で聖書の講義をしながら10年間、聖書の辞解と取り組んで、一語一語かみしめながら聖書に親しんだこと、これらすべてがマルコ伝講義に結晶した。
晩年の5年間は、文字どおりマルコ伝に明け、マルコ伝に暮れる日常であり、それが生活のすべてであった。食事する暇も惜しんだといっても誇張ではなかった。
しかし、それは個人の努力というのではなく、福音の力が豊田を捕らえて離さなかったというのが真実であろう。
この世的な意味では生活がだんだん窮乏を加えていく中にあって、かえって豊田は「自分は本当にしあわせだ」とたびたび述べ、福音に生きる者の喜びがすべてにおいて豊田を支えていたのである。
はからずもこの5年間の講義が、・・・内藤修氏を中心とした・・・諸兄姉のご尽力によって当初は分冊の形で1966(昭和41)年4月より出版される運びとなったことは、豊田にとり決して私事ならぬ深い喜びであった。
ちょうど脳卒中発作の起こる前日にその見本刷りが手元に届いた時の、瞳(ひとみ)の輝きを我々は忘れることはできない。・・・
1966(昭和41)年4月17日の朝8時過ぎ、いつもより目覚めるのが遅いので、家人が不審に思い声をかけて、初めて深い昏睡(こんすい)状態にあることに気付かれた。
左上下肢に麻痺(まひ)があり、典型的な脳卒中発作として、年齢的条件からも予後は不良と考えられたが、意外にもその夜はいったん意識が完全に回復し、麻痺もとれ、平常と何ら変わらぬ状態で、翌日正午まで元気でいろいろ話もしていた(注:これは、今日でいう「一過性脳虚血発作」の典型的な経過と考えられる)。
正午頃、「内藤君は本当に大変だったろう、身体をこわさなければよいが・・・」、あるいは「みんな本当によくして下さった、僕は仕合わせ者だ」と言い、また「神は義だ、愛だ」とはっきりうなづくように言い、更に「完璧を期することは難しい、限りのないことだ、いいんだ、これでいいんだ」と自らに言い聞かせるようにつぶやきもしたが、昼過ぎ「少し眠りたい」といって寝に就(つ)き、そのまま再び昏睡状態に陥り、遂に目覚めることなく、翌4月19日午後9時30分、極めて安らかに息を引き取った。享年75歳であった。
思えば1936(昭和11)年、「兄弟のようだ」とまで言われ、豊田の最も親しい友人であった植木良佐氏の告別式に豊田がその略歴を述べ、「地上と天上とに何の関係もない〔。両者の間には無限の距離、無限の質的差異がある〕。ただ聖書のみがこの世から神の国にかけられた懸(か)け橋である。植木君はこれによって天国に往(い)った」と言ったが、豊田もまたこの懸け橋によって静かに天に帰ったのである。
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(安藝(あき)基雄「豊田栄・略歴」抜粋、一部改変。『マルコ福音書註解』内容見本、みすず書房、1983年、3~5項に掲載。( )、〔 〕内、下線は補足)