イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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* * * *
〔 1 〕
「神が求めるのは、仰々しい献げ物ではない。ただ、あなたがたの砕(くだ)かれた魂(たましい)である」と古(いにしえ)の預言者は教えた。
キリストが最も悪(にく)んだのは、ファリサイ徒〔輩〕の魂(まごころ)を入れ忘れた献げ物であった。
「行ない」、「〔立派な〕行ない」と言って功績(こうせき)のみを誇る〔、その〕ような態度であった。
パウロが熱誠をこめて広く異邦人の間に宣べ伝えたのは、人が〔神の前に〕義(ぎ)とされる(=神の救いにあずかる)のは、その〔人の立派な〕行いによるのではない、ただ信仰により、〔キリストの〕贖罪(しょくざい)により、神の愛による〔のだ〕ということであった。
その同じ福音が聖アウグスチススを救い、また〔宗教改革者〕ルターを起(た)ち上がらせたのであった。
そのことは〔、キリスト〕信徒の誰もが知っている。
それにもかかわらず〔、キリスト〕教界に「行い」によって起とうとばかり焦(あせ)る者のなんと多いことか。
〔 2 〕
われらがキリスト者として先(ま)ず為(な)さなければならないことは、何か。
何人を〔自分の宗教・宗派に〕改宗させ、何円を献金したかというような功績をあげることなのか。
キリスト在世の〔当〕時、ファリサイの徒〔輩〕はこのように考えて熱心にその功績〔をあげること〕に腐心(ふしん)した宗教人であった。
しかも、このファリサイの徒〔輩〕以上にキリストの真精神に相反する者は、他に〔い〕なかったではないか(注1)。
功績を挙げて、どうしようとするのか。
それによって人の前に〔自己を〕誇り、またより多く神の前に誇ろうとするのか。
しかも神は〔自己の〕功績を誇る者を良しとされず、ただ砕かれた魂のみを喜ばれる。
〔 3 〕
たとえば、伝道ということについて考えてみよう。
伝道とは〔、神の〕聖旨(みむね)を伝えて人を神〔の許〕にまで呼び返すことを目的とするものである。
しかし〔そもそも〕、人〔間〕が〔他の〕人〔間〕を捕えて独力〔で〕、彼を神の聖前(みまえ)に連れ返ることができるもの〔だろう〕か。
もし、それができるならば、伝道とは正(まさ)に、人の事業である。神の前に誇るべく、充分に値する事業である。
しかし、偉大な伝道者たちの一致した経験〔が教えるところ〕は、人を神にまで連れかえる者が常に神御自身であって、決して人ではなく、〔また〕伝道者ではない〔という〕ことであった。
伝道者は、自分さえも救うことができなかった。ましてや他人は、当然である。
ただ彼らは、神が自分を救ってくださったこと、その一事(いちじ)を鮮(あざ)やかに記憶し、確実に体験した人々であった。
その体験と記憶とのまざまざしさ、その歓喜の抑え難(がた)さに、座して沈黙することに耐えられなかったのが彼らである。
ゆえに、彼らは起〔ち上が〕った。
起って、自(みずか)らが経(へ)た恩寵(おんちょう)の体験を語った。その感謝の至情(しじょう)を〔人々の前に〕吐露(とろ)した。
喜び〔に〕溢(あふ)れて神を〔誉め〕讃(たた)え、神の愛を宣(の)べ伝えた。
それが彼らの伝道であった。
ゆえに彼らは、自らに恃(たの)んで何らかの功績を挙げようと焦(あせ)る事業家の群れに数えれるべきではなく、むしろ終日、琴(こと)を弾き歌をうたって、美を称(たた)えようとする詩人の群れに属すべき者である。
〔 4 〕
われらがキリスト者として先ずなさなければならないことは、何か。
そもそも〔人が〕人を救おうなどと考えるのは、僭越(せんえつ)である。
われらは自らが救われた事実を知っている。〔われらは、〕その経験、その喜びを率直に物語るのみである。
われらは自らの力を振〔り絞〕って、人を率(ひき)いるのではない。神の驚くべき力と恩恵とを〔こころから〕讃美するのである。
大(おお)いなる讃美が〔すなわち、〕大いなる伝道である。
讃美のないところに伝道はありえない。
主〔イエス〕を着よ。主を飲め。主の光をきみのうちに充満させよ。そうすれば、おのずと大伝道が始まるであろう。
きみ自身がイエスを〔魂の内に〕充分に、お迎えできていないのに、どうして人に彼〔のこと〕を伝えることができる〔だろう〕か。
西洋の古いことわざに、「〔他を〕教えて、初めて〔自分も〕学ぶ」というものがある。確かに、真理である。
しかし、それ以上の真理は、「〔まず自分が〕学んで、初めて〔他を〕教える〔ことができる〕」ということである、とある偉大な哲学者が言ったことがある。
〔この〕言葉の意味は、教師が一生懸命、勉強していればその一事だけで学生を教えるのに十分だ、ということである。
言い換えれば、教えよう〔、教えよう〕と焦らないで、〔まずは〕自分が〔しっかり〕学ぶことに励みなさい。〔そうすれば〕そのことがまた、そのまま他を教えることになるのだ、というのである。
学問においてさえ、そうなのである。まして信仰においては、当然である。
伝道は対外問題ではなく、〔実に〕対内問題である。
〔それゆえ〕まず、きみ自身に〔深く〕伝道せよ。そうすれば、その伝道は自(おの)ずからきみの兄弟姉妹に及ぶだろう。
〔 5 〕
私はある恩師先生から講義術の要諦(ようてい)を授(さず)けられた。
〔それによると、〕講義をする時には、先ず、自分自身が充分理解することに努める。その上で、それを自分自身の耳に充分納得が行いくように説明する。
それ〔だけ〕でいい、というのである。
その時以来、私は恩師の教えを守るべく努めている。
だから私が講義する時は、いわば独(ひと)り言をやっているに過ぎない。
ある人には分からないかも知れない。
しかし私が自分自身に対して充分納得の行いくように解説しても、なおかつその間の論理の分からない人に対しては、私は結局〔のところ、〕講義の能力を欠いているのである。
〔その場合、〕私の頭が間違っているか、または彼の〔頭〕が間違っているか、どちらか一つである。
〔いずれにせよ、〕私は自分自身の理解できないような難問を、他人のために解説してやることはできない。
〔 6 〕
伝道は、恩寵の体験の〔活きた〕解説でなければならない。
その解説の最も有力で、しかも自他を誤ることのないものは、個人の生活そのものである。
言葉は欺(あざむ)きやすい。しかし生活は欺かない。生活からほとばしり出る言葉には、特別の権威がある。
〔自分の本当の姿を〕人は隠すことができようか〔。それは自ずと、生活に表れるざるをえない〕。
自分の持つ恩寵の体験を豊かにせよ。それ(恩寵の体験)は自分自身にとっても、必要不可欠の営養である。
そして、このようにして自分自身を肥(こ)やすことそれ自身が、われらの為しうる最大の伝道である。
ある場合には、〔人前に、〕一語も言わなくてもよい。一歩も出なくてもよい。ただ〔そこに〕在(あ)って、活(い)きているだけでよい。
結局〔のところ〕、われら自身が恩寵のもとに肥え太ることに勝(まさ)って、力ある伝道はない。
〔 7 〕
〔それ〕ゆえに見よ。
最も偉大なる伝道は、しばしば瀕死(ひんし)の病人がしたではないか。無力で貧しき者、無学な者がしたではないか。
〔また〕見よ、幾多(いくた)の大説教家の大雄弁が時に、キリストを宣べ伝えるのに最も無力で貧弱であることを。
ここに真実なるイエスの僕(しもべ)一人を活(い)きさせよ。その二人また三人を相(あい)結ばせよ。
その時彼らの周囲に、イエスから発する光の波〔動〕が次第、次第に拡がるのを〔きみは〕見るであろう。
この少数の忠信(ちゅうしん)なるイエスの僕たちがイエスとともに活きる〔、〕その事実は、暗夜の燈火のごとく四方に輝き出(い)でざるをえない。
そして多くの人々を惹(ひ)きつけざるをえない。
「山の上の町は隠れることはない。〔それは、どこからでも見えるものだ〕」。
ただ、このような忠信なる生活がありさえすれば、人は〔まことの〕道を求め来る人々(=求道者)の多さに苦しむばかりだろう。
〔 8 〕
〔ゆえに、〕伝道の事業化は詛(のろ)うべきである。
事業化はすなわち人業(じんぎょう)化である。それゆえ、業績を追い、分量(=数)を気に病(や)む。
詛うべきは、伝道の人業化である。
〔一体、〕何者か、神の聖業(みわざ)をその大御手(みて)から奪い取ろうとする者は。
すべての栄誉(えいよ)は、主にのみ帰せ。
決してわれらに自分の栄誉を求めさせてはいけない。決して功績を追わせてはいけない。
神与え、神取りたもう。われらにただ、神を讃(たたえ)えさせよ。
われらが為しうる唯一の伝道方法は、これである。心から神を讚(ほ)めることである - 心から。
♢ ♢ ♢ ♢
(原著「伝道神髄」『問題の所在』岩波書店、1929〔昭和4〕年9月収載、『三谷隆正全集 第一巻』岩波書店、1965〔昭和40〕年9月、145~149項を現代語化。( )、〔 〕内、下線は補足)
語注1 神髄(しんずい)
その道の奥義、ものごとのいちばん中心にある大切なこと。
語注2 仰々(ぎょうぎょう)しい
見かけや表現がおおげさである。
語注3 徒輩(とはい)
仲間の者。やから。
語注4 至情(しじょう)
この上なく誠実なこころ。まごころ。
語注5 恩寵(おんちょう)
人に対する神の恵み、慈(いつく)しみ。
語注6 僭越(せんえつ)
自分の身分や立場、権限をこえて出しゃばること。
語注7 要諦(ようてい)
物事の最も大切なところ。ようたい。
語注8 忠信(ちゅうしん)
誠実で、偽りのないこと。
語注9 事業(じぎょう)
利益を得るために、一定の目的と計画をもって経営する仕事。
注1 イエスのファリサイ派批判
「禍(わざわい)なるかな、律法(りっぽう)学者とファリサイ派よ、あなたたちは偽善者だ。
改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡(めぐ)り歩くが、改宗者ができると、自分よりも倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ」。
(マタイ 23:15)
イエスは今、キリスト教界をどうご覧になっているだろうか。