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1888(明治21)年1月15日~1930(昭和5)年7月14日

内村鑑三の高弟にして、激動の時代を預言者のごとく駆け抜けた独立伝道者(佐藤全弘氏評)。

 

1888(明治21年、陸軍軍人浅村安直の次男として、石川県金沢市に生まれる。


1901(明治34年、14歳の時に実父が重病に陥(おちい)ったため、友人藤井鉄太朗の養子となり、藤井姓を名乗る。


旧制・石川県立第一中学校を経て、

1904(明治37)年、旧制・第一高等学校に入学。

 

1907(明治40)年、東京帝国大学法科大学政治学科に入学。

 

1909(明治42)夏、内村鑑三の聖書研究会の会員となり、柏会に所属。


1911(明治44年、大学を卒業し、京都府に赴任。

 

1913(大正2年、山形県庁に勤めたが、この間、デンマークのグルントゥィー(1783~1872)の国民教育を範にとり、山形県自治講習所を設立し、地方における人材育成に尽くす。

 

1915(大正4)暮れ、伝道に生涯を捧げるべく、官を辞して上京、内村の助手となる。

内村の講演の筆記、『聖書之研究』の編集、同誌への寄稿などを始める。

1916(大正5年、『新生』および『ルーテルの生涯および事業』を刊行。


1920(大正9年、内村と衝突しその下を去る。同年、個人雑誌『旧約と新約』を創刊。独立伝道生活に入る。


1922(大正11年、内村との交わりを回復。3月より毎日曜日、東京神田基督教青年会館で聖書の公開講演を始める。


この年の10月1日、伝道の良き同労者であった妻・喬子(のぶこ)死去(29歳)。遺骨を葬(ほうむ)らず、終生、書斎の机上に置く。

1929(昭和4年、『聖書より見たる日本』を刊行、古き良きものを日本の伝統の中に認める一方、現実の日本を強く批判する。


病弱のため、その伝道は華々しくなかったが、少数の人に強く深い影響を与える。


生来、純粋な詩人的性格を備えていたが、妻の死を契機に永遠の実在世界に眼(まなこ)を向けるようになり、神の独り子と教会(エクレシア)の聖なる結婚を主題とした長編詩『羔(こひつじ)の婚姻』の執筆を開始し、『旧約と新約』に連載。


藤井はこの詩において天地創造から歴史の終末に至る聖書の救済史をを描くとともに、近代日本の文明至上主義を強く批判した。

しかし、その死により未完に終わる。


藤井武全集』全12巻(1938~40、1971~72)がある。

 

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参考文献『キリスト教人名辞典』日本基督教団出版局、1986年。『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2002年、『日本キリスト教歴史人名事典』教文館、2020年他)

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