イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
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最終更新日:2024年12月7日
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預言の声
近代の預言 001
2015年3月13日
内村鑑三
現代語で読む
【寡婦(やもめ)の除夜】
原文付
1
寡婦の除夜
1896〔明治29〕年の歳末、軍人〔たち〕が〔日清戦争 注1〕戦勝を誇るのを憤って〔、悲しみと困窮にあえぐ戦争未亡人の姿を〕詠んだ もの。
月清し、星白し
霜(しも)深し、夜寒し
家貧し、友少なし
歳(とし)尽きて、人帰らず
思いは走る西の海
涙は凍(こお)る威海(いかい)湾 注2
南の島に船出せし
恋しき人の跡(あと)ゆかし
人には春の晴れ衣(ごろも)
軍功(いくさいさお)の祝い酒、
われには仮の侘(わ)び住まい
ひとり手(た)向くる閼伽(あか)の水 注3
われ、むなしゅうして人充(み)ち
われ衰えて国栄ゆ、
貞(てい)を冥土(めいど)の夫(つま)に尽くし 注4
節(せつ)を戦後の国に全(まっと)うす
月清し、星白し
霜深し、夜寒し
家貧し、友少なし
歳尽きて、人帰らず
(『福音新報』1896(明治29)年12月、〔 〕、( )内は補足)
♢ ♢ ♢ ♢
2
注
注1 日清(にっしん)戦争
・1894~1895(明治27~28)年。朝鮮半島の支配をめぐる日清間の戦争。
・ 1894(明治27)年5月、朝鮮で政府の専制政治と日本の朝鮮進出に反対する大規模な農民の反乱(甲午〔こうご〕農民戦争、東学〔とうがく〕の乱)が起こると、これを機に、朝鮮支配の強化を狙う日清両国が出兵した。同年7月末、ついに日清両軍は衝突した。
・同年8月1日、日本は清国に宣戦を布告した。宣戦布告の中で日本は、「〔この戦争は、〕朝鮮の独立を助け、東洋の平和を守るため」の戦争であると称した。
・近代的に組織化された日本軍は、海陸で清軍を圧倒し、中国山東省の北洋艦隊の基地の港・威海衛(いかいえい)を攻撃し、全滅させた。戦争は本の勝利に終わり、日本は朝鮮への独占的支配を確立し、また遼東(りょうとう)半島を手がかりに中国東北部(満州)進出の機会を得た。
・戦後、日本は帝国主義列強の一員としての道を突き進んだ。一方、敗れた清は、列強の侵略の的(まと)となった。
・この戦争における日本軍の死者は、約17,000人で、その7割が戦病死であった。
・1910(明治43)年8月、日本は韓国併合を強行して韓国を日本 の領土とし、その名称を朝鮮に、漢城(現首都・ソウル)を京城(けいじょう)と改めた。日本は、天皇直属の朝鮮総督府(そうとくふ)を京城において、植民地統治を行った。
・日本の為政者(いせいしゃ)と国民は、遺族の悲しみと内村の声に耳を傾けず、軍備拡張と戦争への道を歩んだ。その後、日本は、日露戦争、日中戦争、さらに太平洋戦争を戦った。
その結果、日本の津々(つつ)浦々(うらうら)で「寡婦の除夜」の光景が見られることとなった。
・日本軍の死者数比較
日清戦争 : 約 1.7万人
日露戦争 : 約 20万人以上
太平洋戦争: 約186万人
(参考文献:『もういちど読む 山川 日本史』山川出版2009年、『詳説日本史研究』山川出版2008年、『世界史B 用語集』山川出版2008年)
注2 威海(いかい)湾:
中国、山東半島東端・威海衛の港湾。
注3
手(た)向ける:仏や死者の霊に物を供えること。
閼伽(あか)の水:仏に供える水。
注4 冥土(めいど):仏教で「あの世」のこと
♢ ♢ ♢ ♢
3
寡婦の除夜
〔私訳〕
〔除夜の〕月は〔悲しいほどに〕清く、星は白い
霜は深く、夜は〔凍(こご)えるほどに〕寒い
家は貧しく、〔訪ね来る〕友は少ない
年の終わりを迎えて〔も〕、〔あの〕人は帰らない
〔わが〕思いは、〔あの人が出征した〕西の海へと走り
〔わが〕涙は、〔あの人が傷つき斃(たお)れたという〕威海湾に凍(こお)る
南の島に〔向けて〕船出した〔あの時の〕
恋しい人の跡(あと)が慕わしい
〔軍〕人には、春の晴れ衣〔と〕
軍功(いくさいさお)の祝い酒〔の宴があり、〕
わたしには、仮の侘(わ)び住まい〔と〕
〔あの人に〕ひとり手(た)向ける閼伽(あか)の水〔があるのみ〕
わたしは虚(むな)しく、〔軍〕人は充(み)ち〔足り、〕
わたしは衰えて、〔軍〕国は栄える
〔わたしは、〕貞(てい)を冥土(めいど)の夫(つま)に尽くし
節(せつ)を戦後の国に全(まっと)うする
〔除夜の〕月は〔悲しいほどに〕清く、星は白い
霜は深く、夜は〔凍(こご)えるほどに〕寒い
家は貧しく、〔訪ね来る〕友は少ない
年の終わりを迎えて〔も〕、〔あの〕人は帰らない
♢ ♢ ♢ ♢
4
「寡婦の除夜」と内村の新たな出発
山本泰次郎は、『内村鑑三信仰著作全集 第21巻』(教文館)の解説において、「寡婦の除夜」誕生の背景と内村の非戦主義への転換について、以下のように述べている。
♢ ♢ ♢ ♢
「日清戦争〔開戦の時〕には内村は可戦論者であって、それが義戦(ぎせん)であることを和英両文につづって、〔国内外に〕さかんに高唱した。しかし、戦争とその結果は、ひどく内村を失望させた。
1895(明治28)年4月17日の下関条約調印の直後、アメリカの友人ベルあての手紙の中で〔内村は〕次のように言っている。
清国との紛争は終わりました。否(いな)、終わらねばならない、といわ れています。・・・「義戦」は掠奪(りゃくだつ)戦に近いものと化し、その正義」を唱えた預言者は、今や恥辱(ちじょく)のうちにあります。
内村は政治家、軍人、ジャーナリスト、御用商人を始め、国民が上下をあげて戦勝におごり、虚栄と私利を追いつつ、とうとうとして虚偽と堕落の淵(ふち)に落ちていくのを見て、戦争の愚かさと悪を痛感し、〔自分が〕戦争を謳歌したことを後悔した。特に彼の心を痛ませたものは、戦争の惨害と悲惨な結果であった。
こうして、終戦の翌年〔1896年〕の歳末(さいまつ)に生まれたのが、「寡婦の除夜」であった。これは、戦争犠牲者へ捧げる同情の涙の哀歌(あいか)であり、戦争の暴戻(ぼうれい)を怒る憤慨(ふんがい)歌であると同時に、内村が自らの過去を悔いて葬(ほうむ)るための挽歌(ばんか)でもある。
内村は、この歌を記念として残して、華々しい主戦主義から深刻な非戦主義へと一転するのである。同時にこれは、日本の非戦主義の出発点に立つ記念碑ともなるのである。・・・」
(山本泰次郎編『内村鑑三信仰著作全集 第21巻』教文館、1962年、〔 〕内は補足)
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