イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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以下の文章は、2016年5月15日、〔千葉県の〕大網聖書集会でもたれた故S・K氏召天(しょうてん)1周年記念会における講話に、若干(じゃっかん)の加筆を行ったものである。
1 はじめに
2015年5月14日に私たちの敬愛するS・K氏さんが66歳で天に召されて、はや1年が経過しました。
本日は皆さまと一緒にKさんの召天を記念し、Kさんの生と死の出来事を通して働かれた生ける主(しゅ)イエス・キリストの御業(みわざ)を思い、共に主に感謝し、主の栄光を讃美しつつ、《神の国》を待望したいと思います。
2 講話の題名
本日の講話の題は、「土の器(うつわ)と福音(ふくいん)の輝き」です。
「土の器」とは、直接には、肉の弱さを身にまとい、悪性疾患の宣告と闘病の中で暗黒をさ迷ったKさんのことを指します。
また、「福音の輝き」とは、死と絶望の淵(ふち)に立たされた魂(たましい)に注がれた《救いの光》を意味しています。
《死の病(やまい)》の中にあったKさんが、いかにして神の救いを再発見し、主に身を委(ゆだ)ねて感謝するに至ったか。
あるいは、いかにして神がイエス・キリストによって、Kさんを罪と死の支配下から《赦し》と《永遠の生命(いのち)》の中へと奪還(だっかん)して下さったか。
聖書とKさんの短い手記を手掛かりにして、主の恩恵の御業を少しく学びたいと思います。
3 土の器
⑴ コリントの信徒への手紙Ⅱ
「土の器」は、〔新約聖書〕コリントの信徒への手紙Ⅱの第4章7節に出てくる言葉です。
コリントは、エーゲ海とイオニア海に挟まれた地峡部にある交通の要衝(ようしょう)で、使徒(しと)パウロの時代はローマ帝国アカイア州の首都でした。
紀元49年頃、パウロは第二次伝道旅行の際にアテネから初めてコリントに来て、すでにローマからこの地に来ていた同業のユダヤ人夫妻アキラとプリスキラに支えられて十字架の福音を宣教し、コリント集会が形成されたました(使徒18章1~17節)。
パウロは1年6ヶ月にわたってコリントに滞在し、集会(エクレシア)の基礎をつくりました。
しかしパウロが去った後、ユダヤ人の巡回宣教者たちがコリント集会に入り込み、「異なるイエス」、「異なる福音」を説きました。
彼らは、集会内で公然とパウロに敵対し、パウロの《使徒》としての資質を攻撃し、自分たちこそが使徒であると主張しました。そのため、コリント人たちの間にパウロの使徒職への疑念が生まれたようです。
それに対しパウロは、自分はキリストの福音のために召された《使徒》であり、ユダヤ人宣教者たちは偽(にせ)使徒であること、また信徒たちがパウロから聞いて信じた《福音》に堅くとどまるようにと、コリントの集会に手紙を書いて弁証しました。
この手紙を含め、複数の手紙が後に一つの手紙の形にまとめられたのが、「コリントの信徒への手紙Ⅱ」であると言われています(複合書簡説)。
⑵ 使徒職の栄光
この手紙で、パウロは言います。
「わたしたちは自分自身を宣(の)べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕(しもべ)にすぎない」(コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章5節、口語訳)。
偽使徒は、不純な動機で自分自身を宣べ伝える。
しかし私たち使徒は、自分自身を宣べ伝えるのではなく、イエスを《主》として宣教し、主に信従(しんじゅう)する。使徒は主イエスのために集会に仕える奴隷とされたものであり、これこそが使徒にとっての栄光である、とパウロは言います。
それゆえ《使徒職》の栄光は、自分からではなくキリストから出るのであって、キリストの栄光の前には人間的な能力や功績などは消え失(う)せるのです。
⑶ 土の器と宝
「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」(同7節)。
6節によると、「宝」とは栄光の福音の輝き(キリストの救いの恵み)のことです。
また「土の器」とは「素(す)焼きの器」のことですが、脆(もろ)く、限界のある使徒たち、パウロ、また広義(こうぎ)には私たち「人間」を意味します。
神の慈愛(じあい)によって、《福音の光》が宝として「土の器」に与えられます。そして、土の器は、暗黒の中に光り輝きます。
しかし光を発するのは、器それ自身ではありません。神から与えられた宝である《恩恵の光》が、器の脆さ、弱さを突き破って光り輝くのです。
そのようにして、神が弱く脆い人間を「恩恵の器」として用いられるのは、《神の力》が本当に神の力として認められ、人間の力と混同されないためです。
無教会では、職業的宗教家によらない平(ひら)信徒伝道―万人(ばんにん)伝道者ということが言われてきました。
私たち無教会の平信徒は皆、世俗のただ中にあって、そのまま伝道者です。
確かに私たちは、《使徒》ではありません。しかし私たちは各々、神の救いの恵み―栄光の福音―を証(あか)しすべく、神に召された小使徒ではないでしょうか。
それぞれが、与えられた環境の中で、与えられた賜物(たまもの)に従って、福音を伝道します。
そして伝道において最も大切なものは、人間的な能力ではなく、主の福音によって生き、生かされることです。
三谷隆正は「伝道神髄(しんずい)」において、伝道(宣教)の本質について次のように述べています。
「・・いったい、〔人間の力によって〕人を救おうなどと考えるのは、僭越(せんえつ)である。われわれは、自らが救われた事実を知っている。その経験、その喜びを率直に物語るのみである。
われわれ自らが、自らの力をふるって〔神の許(もと)へと〕人を率(ひき)いるのではない。神の驚くべき力と恩恵とを讃美するのである。
大いなる讃美が〔すなわち、〕大いなる伝道である。讃美のないところに伝道はあり得ない。
主〔イエス〕を着よ。主〔の生命〕を飲め。主の光を君の内に充満させよ。そうすれば、おのずから、大伝道が始まるであろう。・・・
伝道は〔自らの〕恩寵(おんちょう)の体験の解説でなければならない。
ある場合には、一言も言わなくてもよい。一歩も出なくてもよい。ただ〔神の恩寵の中に〕存在し、生きているだけでよい。
われわれ自身が恩寵のもとに肥(こ)え太ること、それ自身にまさって力ある伝道はついにない。
ゆえに見よ、最も偉大なる伝道は、しばしば瀕死(ひんし)の病人がしたではないか。無力で貧しき者、無学な者がしたではないか。・・」と(三谷隆正『信仰の論理』より現代語による引用。〔 〕内は補足)。
三谷の言葉を読むとき、私は《土の器》としてのKさんの闘病の日々、また文字通り命をかけた、彼の《恩寵》の証言を思わずにはいられません。
⑷ 使徒の生の現実―苦難と神の護(まも)り
「わたしたちは、四方から患難(かんなん)を受けても窮(きゅう)しない。途方(とほう)にくれても行き詰(づ)まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない」(同8、9節)。
ここに4組の対比があります。
「四方から患難」を受けても「窮しない」、「途方にくれて」も「行き詰まらない」、「迫害に会って」も「見捨てられない」、「倒されて」も「滅びない」の4つです。
つまり使徒パウロの生の現実は、患難と困窮(こんきゅう)そして迫害と屈辱(くつじょく)だった、というのです。
パウロは、使徒としての労苦を次のように語っています。
「〔偽使徒たちは、本当に〕キリストに仕える者なのか。
気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。
苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭(ムチ)打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭(あ)ったことも度々(たびたび)でした。
ユダヤ人から40に一つ足りない鞭を受けたことが5度。鞭で打たれたことが3度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが3度。一昼夜(ちゅうや)海上に漂(ただよ)ったこともありました。
しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人(いほうじん)からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、 苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。
だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。
誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ 同11章23~30節、新共同訳)
コリントの人々は、使徒パウロの苦難に躓(つまず)いたのです。
それは、コリント人(ギリシャ人)たちは、苦難ではなく、しるしと奇跡、雄弁の中に直接現れる神の力と栄光の啓示(けいじ)を熱狂主義的に期待したからです。
しかし神の栄光は、イエスの十字架と使徒の苦難の道を通って進みます。
キリストの栄光は、イエスの受難と十字架に現れたのであって、使徒職の栄光もまた、苦難を通して現れるのです。
実際、使徒パウロの弱さと患難の中に神の力が働き、パウロを絶望と破滅から守りました。弱さと苦難は、神の栄光に仕えるのです。
こうして使徒職の働きと福音宣教は、人間の業(わざ)ではなく、神の力から出ることが明らかになります。
つづく
♢ ♢ ♢ ♢
(『九十九の風』2016年 クリスマス号、通算No35 収載、( )、〔 〕内は補足。固有名はアルファベットで略記)