イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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〔2-①〕
こうした時勢の中にあって、聖書の言葉が我々の耳に響いてくる。
「人はパンだけで生きるものではない」、あるいは「貧しい人々は、幸(さいわ)いである」。
そういう言葉をイエス・キリストは宣言された。
私どもは、何度この言葉を聞かされてきた〔こと〕か。また自分たちも、〔何度〕この言葉を口にしてきたか分かりません。
しかし今日、日本的かつ世界的である、澎湃(ほうはい)として押し寄せる経済の要求、経済の優越、経済の重要性、「まず食べなければ」、「まず着なければ」という問題が、大きな潮のように押し寄せてくる真唯中に立って、その社会の激動を我々の身に受けながら、〔なお、〕「人はパンだけで生きるものではない」あるいは「貧しい人々は、幸いである」、そんなことが平気で言える〔の〕か、ということであります。
そして、世間〔の人々〕はこれに対し、「遠い昔ならばいざ知らず、今のこの時勢にそんな空虚なこと、そんな言葉だけの説教を聞く時ではない」、このように言うのです。
〔2-②〕
そういう世間の声を聞きながら、習い覚えたお経の文句はただ一つ、「人はパンのみによって生きるものではありません」ということを、いくら口先で繰返し言って〔みて〕も、キリスト教は日本に普及しません。
〔2-③〕
この前の内閣で、笹森国務相の首唱によって始めた国民的精神運動があります。
その会議の始め〔に〕、各方面の代表者200人ほどが集って〔運動について〕相談をした時に、共産党〔の〕代議士が立って、「人はパンを食べなければ生きてゆけない。パンも食べられないのに精神運動などやっても、それは全く無効であり、無益であり、否(いな)、誤謬(ごびゅう)である」と論じた時に、そこにいたキリスト教の有名な牧師は口を閉じて一言も発しなかったという。
〔発言〕できなかったのか、しなかったのか〔は〕知らないけれども、そこで物を言わないならば言う時がない〔という〕ときに、〔この牧師は〕沈黙していた。
これが恐らく、今日の日本社会の縮図でありましょう。
〔2-④〕
あるいは論点を移しまして、今日の時勢において「科学主義」ということを人々が考えている。
今日の科学主義は、戦争中に言われた「科学する心」などのような、極めて素朴で幼稚な、ごまかし的な思想ではなくて、社会の問題を本当に科学的に考えようと〔している〕。
その点においては、〔今日の科学主義は〕進歩していると思います。
その科学主義の澎湃としている世の中にあって、イエス・キリストは処女マリヤから生れたとか、キリストが十字架にかかったことによって人類の罪が赦されるとか、キリストは墓から復活して天に昇ったとか、そのキリストが再び天から現れて世界を審(さば)いて〔地上に〕神の国を建設するとか、そんなことをキリスト教が今も、この世の中で本気に唱(とな)えるのだろうか。
それもキリスト教会という一つの出来上った伝統と制度の枠の中で、昔から言い伝えられて来た教義を、〔意味も分からずに〕オウム返し〔的〕に言っているだけのものなのか。
もしもそれが、習いおぼえたお経のきまり文句を、言い伝えられたとおりに、できあがった仲間の中だけで唱えているにすぎないものならば、〔それは〕現実の生きた社会に対して〔全く〕無力であります。〔現実の社会とは〕何の関係もないことである。
そして〔伝統と制度の壁の中で、〕思いのまま惰眠(だみん)を貪(むさぼ)りながら、自分たちの仲間〔内〕だけで、いい気になってお題目を唱えていられるでしょう。
〔2-⑤〕
けれども、生きた社会の現実の要求を我々の身にヒシヒシと受けながら、〔なお、〕キリストは復活したとか、キリストは再臨するとか、そういうことを本気で言おうとするならば、そこに大きな戦いがあります。
「人はパンだけで生きるものではない」、「貧しい人々は、幸いである」などの言葉は、経済という大きな勢力、大きな思想、大きな事実に対し、真正面から対抗しているのです。最近流行の言葉によると、対決している。
イエス・キリストの言葉は今日の経済優越の思想に対し、真正面から向き合っているのです。
またキリスト教の教義、ことにキリストの降誕(こうたん)、贖罪(しょくざい)、復活(ふっかつ)、再臨(さいりん)の信仰は、科学と真正面から向き合っている、〔つまり〕対決しているのです。
しかも、それぞれ〔、自分〕の陣営の中でおのおの〔好き〕勝手なことを言っているわけで〔は〕なく、共同のフィールド〔上〕において相(あい)対決しているのであります。
そして我々は、それに対してどう考え、どう対処すればよい〔の〕か。
〔2-⑥〕
これについて一つの考えは、今日の経済優越の思想に対して、キリスト教の主張を引っ込める。「人はパンだけで生きるものではない」とか、「貧しい人々は、幸いである」などということは、もう言わない。そのような聖書の言葉については、黙殺する。
そして、キリスト教は社会問題に関心があるとか、労働争議にも関心があるとか、そういう具合に社会の現実の要求に対して調子を合わせてゆかなければ、キリスト教は今日の時代的意味がなくなり、無用の長物(ちょうぶつ)になる。
あるいはまた、科学主義の興隆(こうりゅう)に対して、もうキリストの復活とか再臨とかいうことは言わない。
それは科学思想の未発達であった昔の〔時代の〕人々の信仰であって、今日のキリスト教の生命はそのような教義にあるわけでない。キリスト教〔の本質〕は民主主義である、〔あるいは、キリスト教は〕民主主義思想の根底である〔という〕ことだけ言っておればよい。
贖罪とか復活とか再臨とか、非合理的なこと、非科学的なことは言わない方が、現代に処してキリスト教の生きてゆく道である。現代においてキリスト教が存在理由を保つためには、科学主義に調子を合わせなければならない。
このように考える者が〔、今日、大勢〕いるのです。
〔2-⑦〕
〔しかし、〕こんな問題は、特別新しい問題でありません。昔から何度も戦われてきた問題であって、〔歴史上、〕自然科学とキリスト教は大きな対立の問題でした。
しかし今〔日〕の日本、すなわち私がつい一週間前に見た答案に現れている学生一般、ならびにその背後にある日本社会の思想と生活の大きな波の中で、私どもはもう一度、この問題を考える必要があるのです。
つづく
♢ ♢ ♢ ♢
(『嘉信』第11巻、第4号、第5号、1948〔昭和23〕年4月、5月、( )、〔 〕内は補足。下線は引用者による)