イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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ああ幸(さいわ)いだ、あなた、貧しい人よ、
神の国はあなた方のものだから。
ああ幸いだ、あなた、今飢えている人、
あなた方は満たされるようになるから。
ああ幸いだ、あなた、今泣いている人、
あなた方は笑うようになるから。
人々があなた方を憎み、
キリストを信ずるからといって罵(ののし)り、
キリスト者なんか、と言って除名するとき、
あなた方は幸いだ。
その日には、喜び躍りなさい。
どっさり褒美(ほうび)が、天であなた方を待っているのだから。
あの人たちの先祖も、同じことを預言者たちにしたのである。
だが、ああ禍(わざわ)いだ、富んでいる人は、
あなた方は、もう慰めを受けたから。
ああ禍いだ、今食べ飽きている人、
あなた方は、飢えるようになるから。
ああ禍いだ、今笑っている人、
あなた方は、悲しみ泣くようになるから。
すべての人があなた方を良く言うとき、
あなた方は、禍いだ。
彼らの先祖も、同じことを偽(にせ)預言者たちにしたのである。
-ルカ福音書 6章20~26節による-
(マタイ福音書 5章3~12節参照)
§ § § §
上に記しましたのは有名な《山上の垂訓(すいくん)》の一部でありまして、新約聖書を読む人は誰でも、良くご存じの所であります。
イエス様は、原稿でも書いて来られて、〔大衆を前にして〕大演説をされたのではありません。
また学者が定義を下すようにして、『幸福者(しあわせもの)とは、何ぞや』と論じられたのでもありません。
それよりも個人的に、一人ひとりの貧しい人、悲しむ人を眼の前に置いてのお話だと思ってお聴きしますと、その御言葉がひしひしと私どものたましい(魂)に届くのを感じます。
貧しい人、悲しむ人の手を取って、イエス様は、「あなたは幸福者です」と仰(おっしゃ)るのです。
世の〔中の〕人の言うことと、正反対です。
しかしイエス様の御言葉には、なぜか人の心の奥底に届く〔真の〕権威がありまして、御言葉に向かって、とやかく理屈をこねることができません。
この御言葉をお聴きしただけで、何か分かりませんが、この世のものでない真理に、真っ先に、たましいの躍る思いを禁じ得ません。
でもイエス様は決して理由なしに、あのように仰ったのではありません。ちゃんと理由をつけて、お話くださっているのです。
貧しい人は幸せです、なぜなら天国(神の国)はその人のものですから。
悲しむ人は幸いです、なぜなら永遠の生命はその人のものですから。
今飢えている人、今泣いている人、今苦しめられる人、皆(みな)幸いです、なぜなら〔この人たちは、〕純粋な天国の歓喜(よろこび)と、死を超えた永遠の生命(いのち)とによって充足(みた)され、慰められるのですから。
苦しみ〔の中に〕ある人であって初めて、〔心底、〕天国の門を求めるようになります。そして、永遠の生命を与えられるようになるのです。
これに反して、この世の幸福と快楽で満足している人は、天国を求めません。
そして〔人間として〕一番善いもの、最も大切なものを知らずに、死んでしまうのです。
この世の〔一時的な〕喜びでごまかされた生涯を終り、純粋な永遠の生命の喜びを味わず、天国の希望も知らずに、結局、行詰ってしまうのです。
天国に行くには、貧しい又は悲しい、あるいは苦しい道を通らなければなりません。
そうした〔狭い〕道を通って初めて、〔人は〕天国の門を見ることができるのであります。
だから、そういう人々が真に幸福者なのです。
このような人は死後に初めて幸福になるのかというと、そうではありません。
この世にいる時から、すでに幸福者です。
苦しみや悲しみの事実が消え失せるというのではありません。しかし希望に満ちた世界が自分のものとなりますから、〔もはや、この〕世の苦しみなど、何でもありません。
〔このような人は、〕苦しみと悲しみに持ち耐える力を〔魂の〕内に持つことができます。
この世の苦しみでどれ程、押えつけても押え切れないほどに、滾々(こんこん)とした永遠の生命〔の水〕が魂の奥底から湧き溢れて来ます。
生きていながら苦しむ『生き地獄』が、この世の状態であるとしますれば、死ぬほどの苦しみの中にいながら幸福である『死に極楽(ごくらく)』が、キリスト信徒の世界です。
この湧き出る永遠の生命の泉に出口をぶち抜いたものが苦しみであるとすれば、〔私たちは〕苦しみそのものをも感謝することができるのです。
「苦しみに遇(あ)ったことは、私には善いことである」と〔旧約の〕詩人が歌い、「わたしは、受けた艱難をも喜ぶ」と〔使徒〕パウロが言ったとおりです。
キリストを信じたからといって、必ずしも、この世のいわゆる幸福は得られません。
〔人の世の常として、〕いろいろの不幸や苦難が信徒にも〔襲って〕来ます。
また、それから〔簡単に〕脱出できるとも限りません。キリストを信じる以前よりも、信じた後に、かえって多くの苦難と不幸がその人、その家庭に、臨(のぞ)むことさえあります。
以前、内村先生の集り(聖書研究会)の人々が「教友会」、「柏会」、「白雨会」という三つの会を作っていたことがありました。
その中、教友会の多く人は子供を失い、柏会の大部分は妻を失い、また白雨会の人は大部分、当人自身が〔早く〕召されました。
そこで「〔無教会の〕内村先生の所に行く者は、家庭の不幸に遇(あ)う」と、噂(うわさ)されたほどでありました。
それなら、内村先生の所に行かないで他の教会に行けば家庭が幸福になるかというと、そういうことも事実ではありません。
信徒にも、決して良い事ばかり来ません。むしろ、今まで以上の悲しみさえ、〔やって〕来ます。
けれども、私たちはそういう道を通って初めて、天国(神の国)の門に入ることができたのです。
この世に属する私たちの悦楽を神様が一旦、取上げてしまい、残っているものは天国だけとなった時、〔私たちの〕信仰は本当に純粋なものになります。
もし、神様が自分に良い境遇を与えてくださったから有難いというのでしたら、その感謝には〔、この世の御利益(ごりやく)を確保するために神を信じるという〕不純なものが混じっております。
〔そのような人は、〕境遇が少し悪くなれば、神を離れて、感謝しなくなるに違いありません。
天国の希望だけで感謝する、そこまで行きますと初めて、信仰は徹底するのです。絶対的、永遠的な幸福が初めて、私たちのものとなるのです。
そして、この行きづまりのない、益々旺(さかん)となって行く永遠の幸福を与えられる機縁となったとすれば、私どもが苦しみに遇ったこと、また今も遇っていることは、むしろ感謝の種でありませんか。
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(『通信』10号、1933〔昭和8〕年10月を現代語化。〔 〕、( )内は補足)