イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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〔人を真(まこと)の生命(いのち)と自由へ導くものは、〕
〔狭く、冷たい教条〕主義ではない。〔神の愛の深さ、広さ、温かさを宿す〕性格〔、精神〕である。
〔死せる化石としての〕教理(ドグマ)ではない。〔神の〕生命(いのち)である。
キリスト教〔という宗教〕ではない。キリスト〔ご自身〕である。
主義はいかに高くとも、教理はいかに深くとも、儀文(ぎぶん)であって〔、人の霊魂を〕束縛〔するもの〕である(注1)。
われらは直接(ただち)に生けるキリスト〔のもと〕に到(いた)り、彼の生命〔の霊〕を受けて、真の自由に入るべきである。
♢ ♢ ♢ ♢
(原著:内村鑑三「基督教とキリスト」『聖書之研究』80号、1906年10月、〔 〕、( )内は補足)
注1 文字は殺し、キリストの霊は生かす
「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕(つか)える者とされたのである。
それは、〔律法の〕文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。
〔固定化した〕文字は〔律法として〕人〔に働いて、これ〕を殺し、〔キリスト・イエスにある生命の〕霊は人を生かす〔からである〕」。(コリントⅡ 3:6 口語訳、〔 〕内は補足)
原 文
基督教とキリスト
主義に非(あら)ず、性格なり、
教理に非ず、生命なり、
キリスト教に非ず、キリストなり、
主義は如何(いか)に高きも教理は如何に深きも儀文にして、束縛なり、
我等(われら)は直(ただち)に活けるキリストに到り、其(その)生命を受けて、真の自由に入るべきなり。