イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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1月<内村鑑三「一日一生」現代語訳
1月1日~1月5日
(2021年1月5日更新)
このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『続 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。
【1月1日】宇宙完成の希望-終末論的希望-
初めに、神は天地を創造された。(創世記 1:1)
■はじめに神は天地を創造された、という。
宇宙に始まりがあった。〔そえゆえ、〕これに終末(おわり)があるに違いない。
神が宇宙を創造されたのである。宇宙は自ら進化してできたものではない。
神は宇宙を創造されたのである。これは、偶然にできたものではない。
〔宇宙の〕創造は、ある明確な目的をもって為(な)された〔神の〕最大の業(わざ)である。
〔善き〕神〔の意志〕が宇宙を創造されたのである。それゆえ、創造が失敗に終わるはずがない。
天界は完全な構造体である。同じように、〔最終的に、この〕地球もまた義(ただ)しき者と真(まこと)の人の住処(すみか)となるに違いない。
柔和な者が地を継ぐであろう。
〔この世の〕強者と知者とは、今日(こんにち)彼らが為すように永遠に地球を占領することはないであろう。
神が創造されたものは、完成に達するにちがいない。
〔終末において、全く〕新しい天と新しい地とが出現して、〔神の〕義(ぎ)がその内で〔完全に〕行われるようになるに違いない。
〔宇宙完成の希望-神は最終的に、その愛と全能の力により、ご自身が創造された宇宙(自然界と人類)を罪と死の奴隷状態から救い出し、完成へと導いてくださるであろう。〕
聖書の冒頭第一の言葉に、すべての約束と人類すべての〔終末論的〕希望とが含まれているのである。(注1・21)
♢ ♢ ♢ ♢
【1月2日】わたしが今日あるのは
サムエルは石を一つ取ってミツパとシェンの間に置き、「今まで、主〔ヤハウェ〕は我々(われわれ)を助けてくださった」と言って、それをエベン・エゼル(助けの石)と名付けた。
(サムエル記上 7:12)
《現代語訳》
■わたしが今日(きょう)在(あ)るのは、〔神〕ヤハウェ〔の慈(いつく)しみ〕による(注1)。
わたしはヤハウェを捨て去ろうとした。しかし、彼はわたしを去らせてくださらなかった。
わたしは〔ヤハウェを忘れて、〕この世の者になろうとした。しかし、ヤハウェはわたしの望みをへし折り、わたしを強要して、彼の聖国(みくに)に引き寄せてくださった。
ヤハウェは〔牧者が羊にするように、〕その鞭(むち)、その杖によってわたしを導き、今日、わたしを緑の牧場(まきば)に伏させ、憩いの水辺(みぎわ)に伴ってくださる〔旧約聖書・詩編23編参照〕。
わたしの過去〔に歩んだ道〕は、険(けわ)しかった。しかし険しかったことは、わたしのために善かった。
わたしもまた、〔羊のように〕鞭打たれ〔、それによっ〕て癒(い)やされたのだ。〔わたしは、〕愚かな羊のように〔自分勝手な道へ迷い出ようとしたが〕、杖によって〔打たれ、導かれて〕主の牧場に追い込まれた。
わたしもまた、新年の門出にあって〔感謝を込め〕、サムエルのように一つの石を立て、これをエベン・エゼル(助けの石)と呼ぼう。(信8・205)
§ § § §
《原文》
わが今日あるを得(え)しは、エホバによりてなり。
われはエホバを捨て去らんとせり。されど彼はわれを去らしめたまわざりし。
われはこの世の者とならんとせり。されどエホバはわが希望をくじきたまいて、強(し)いてわれを彼の聖国(みくに)にひきつけたまえり。
エホバはその笞(しもと)、その杖をもってわれを導き、われを今日、緑の野に伏させ、いこいの水辺(みぎわ)に伴いたまえり。
わが過去はけわしかりき。されど、けわしかりしは、わがために善(よ)かりき。
われもまた鞭(むちう)たれて癒(い)やされたり。愚かなる羊のごとくに、杖もて主の牧場に追い込まれたり。
われもまた新年の首途(かどで)において、サムエルのごとくに一つの石を立て、これをエベネゼル(助けの石)と呼ばんかな。
§ § § §
注1 神名ヤハウェ(Yahweh)とエホバ(Jehovah)に関する旧約聖書学の知見
♢ ♢ ♢ ♢
【1月3日】われわれにとっては
キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、〔今ここに〕新しいものが生じた〔のです〕。(コリント第2 5:17)
■われわれにとっては、新年は、必ずしも新(しん)ではない。旧年は、必ずしも旧(きゅう)ではない。
霊(注1)こそ、新である。肉(注2)こそ、旧である。キリストこそ、新である。〔キリストに背を向ける〕この世こそ、旧である。
キリストは、きのうも、きょうも永久に新である。この世は、過去も現在も永遠に旧である。
肉を捨てて霊に行き、この世を去ってキリストに至るほかに、旧から〔まことの〕新に移る道はない。(信17・113)
注1 霊
神、キリストの霊によって生かされる新しい生命(いのち)、またそのあり方。
注2 肉 (ギリシャ語:サルクス sarx σαρξ)
ここでは、神を知らず、感覚とこの世の欲望に支配されて、うつろいゆく生来の生命、またそのあり方。
(参考文献:織田昭編『新約聖書ギリシャ語小辞典』教文館、2002年)
♢ ♢ ♢ ♢
【1月4日】キリスト信徒は、後ろを
わたしは、既(すで)にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。
なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向け〔て努力し〕つつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピ書 3:12~14)
■キリスト信徒は、後ろを見ない。前を見る。彼は、最善を過去に探らない。未来に求める。
彼が歴史を学ぶのは、理想を昔の人に求めるためではない。永遠の生命(いのち)の起源を尋ね求めるためである。
彼が待ち望む神の国は、〔歴史の〕最後に到来するものである。
その時までは、すべてが準備である。途上である。
それゆえ、不完全であることを免(まぬか)れない。歴史的イエスといえども、完成されたキリストではない。
「わたしたちの国籍は天にある。そこから救い主(ぬし)、主イエス・キリストの来られるのを、わたしたちは待ち望んでいる」(フィリピ書 3:20 口語訳)というのが、キリスト信徒の生涯である。
それゆえ彼は、おのずと理想家である。夢見る者である。過去・現在をもってしては、満足することのできない者である。
永遠の青年である。前へ前へと進む者である。〔過去を追慕する〕墓や石碑を嫌って、〔将来を待望する〕天国の歌に酔う者である。(信19・37)
♢ ♢ ♢ ♢
【1月5日】星は音信を伝えて
全地よ、主(ヤハヴェ)に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前(みまえ)に進み出よ。
知れ、主こそ神であると。
主は たしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。
感謝の歌をうたって主の〔神殿の〕門に進み、賛美の歌をうたって主の〔中〕庭に入れ。感謝をささげ、御名(みな)をたたえよ。
主は恵み深く、慈(いつく)しみはとこしえに、主の真実は代々(よよ)に及ぶ。
(詩編100:1~5)
■星は、音信(たより)を伝えて言う。万物ことごとく良し、と。
地は、洪(おお)きな声を放って言う。万物ことごとく良し、と。
歴史は、その教訓を伝えて言う。万物ことごとく良し、と。
信仰は、その実験を宣(の)べて言う。万物ことごとく良し、と。
「神はお造りになったすべてのものを御覧(ごらん)になった。見よ、それは、極(きわ)めて良かった」(創世記 1:31)と〔聖書は言う〕 。
〔神によって創造された〕宇宙と人生の事物で、〔根本的に〕善(ぜん)かつ良(りょう)でないものが何かあるだろうか〔。
万物ことごとく良し、である〕。(信8・305)
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