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<信仰入門

無教会入門 004

2024年4月30日改訂

原著:内村鑑三

​現代語化:さかまき・たかお

Second Reformation

第二の宗教改革

原題:宗教改革仕直しの必要

* * * *

歴史的な予備知識-宗教改革以前の中世ヨーロッパにおいては、ローマ法王を頂点とするカトリック主義(教会)が、「キリストの救いにあずかる道はここ以外にはない」という絶対的救済機関〉(ハイルス・アンシュタルト)として、当時の世界を支配していた。

 

しかし、ルターにより遂行された宗教改革によって、各人がキリストのみを媒介(ばいかい)として直接、神の救いにあずかる道が開かれたことは、カトリック教会による救いの独占を突き破り、各人が直接神の前に責任の主体として立つ個人の解放を実現させたのであった(注2)。ところが、今や、〕

 

現代世界は、宗教改革の仕(し)直しを必要としている。

 

ルターらによる〕16世紀の宗教改革は、阻止された〔未完の〕運動として終わった〔からである〕。

 

宗教改革によって生まれた〕プロテスタント主義(教会)は、〔最終的に、〕制度化され〔て法制度的組織体となり、また聖職者とサクラメント(聖礼典)を残すことによっ〕て、〔自ら〕放棄した〔はずの〕ローマ・カトリック主義に後もどりし〔てしまっ〕た(注3)

 

そして、信条(ドグマ)とサクラメントを中心に据(す)えたプロテスタント主義は、カトリックの場合と同様に、一つの救済機関として神と民の間に介在するようになったばかりでなく、それぞれのドグマに従って異端(いたん)と断定した人々に対する宗教的審問や弾圧を行うようになった。

 

その著明な例として、再洗礼派への弾圧やセルヴェートスの火刑などが上げられる。

この点ではプロテスタント主義は、カトリック主義と同じ道を辿(たど)ったのである。

そして、これが教会同士の対立抗争や多くの宗教戦争の原因となったことは、その後の歴史的悲劇が証明しているとおりであり、現代世界においても、なお、ここから由来する争いが全人類の上に波及している。〕(注2)


今や、〕われわれは、〔福音の原点に立ち返ろうとした〕プロテスタント主義を〔その〕論理的帰結(きけつ)まで持ち行く、再度〔の、すなわち第二〕の宗教改革を必要としている。

第二の宗教改革による〕新プロテスタント主義は〔、人為的宗教性から〕完全に自由であって、その内に教会主義の痕跡(こんせき)さえとどめないものでなければならない。

プロテスタント主義によるエクレシアは、〕制度〔的組織体〕ではなく〔、キリストを首(かしら)とする信徒の〕親しき〔愛の〕交わりであり、〔宗教〕組織または〔勢力〕団体ではなく、霊魂の自由な交わり〔すなわち、キリストにある霊的・人格的共同体〕でなければならない。

実際的に言えば、それは、神の子イエス・キリスト以外の誰をも司教〔、神父〕(注4)、または牧師(注5)と呼ぶことのない、〔また、救済機関としての制度〕教会を必要としないキリスト教でなければならない。

そして神は、この日本において、このような〔、イエス・キリストのみを信じ仰ぐ〕キリスト教が現れることを望んでおられないと、誰が言えるだろうか。

人類の霊的向上の歴史において試みられるべき、この新しい試み、すなわち、日出(い)ずる国においてキリスト教の根本(=イエス・キリストその人のもたらした福音)に遡(さかのぼ)り、これを新たに始めようとする偉大な試みが、われら日本人の間で試みられるべきではないと、誰が言えるだろうか。

神よ、われらに聖霊を〔豊かに〕注ぎ、われらの内に大望(たいぼう)を起こし、この大事に当たらせてください。

 

 

♢ ♢ ♢ ♢

(「宗教改革仕直しの必要」『聖書之研究』333号、1928(昭和3)年を現代語化。〔 〕、( )内は補足)

 

注1

原著は、英文(英文題名:NEED OF RE-REFORMATION.)。

 

注2

参考文献:高橋三郎「宗教改革の根本問題」、「宗教改革者イエス」『高橋三郎著作集 最終巻』教文館、2012年、p793~797。

 

注3

参考文献:E.ブルンナー「キリストの教団と史上の教会」『教会の誤解』待晨堂、1955年、p116~133。

4 司教 bishop、神父 priest

カトリック教会が定め、任命した聖職者であり、役職のひとつ。

司教(episcopus)は、〔カトリック教会の〕叙階(じょかい)の《秘跡》(ひせき)によって与えられ、教会法を通して規定された、教会の最高の役職を指す。

 

司教は全世界の司教団に属し、一体となって全教会の指導の責務を負う」とされる(カトリック中央協議会「司教とは?」より。〔 〕内は補足)。

なお「神父」(priest)は、司祭(sacerdos)に対する敬称(呼び名)。カトリック教会の聖職者の《位階》のひとつであり、司教によって任命される。

神父は、司教によって与えられた任務に従事し、教会に配属されて、毎日、ミサを執行する。

 

カトリック教会での管理・運営などすべての責任を持ち、懺悔聴聞(信者の悩みを聞くこと)も大切な仕事。また、教区の信者の信仰活動に奉仕する。

神父はプロテスタント諸派と異なり、生涯独身と定められており、家庭を持たない

一方、プロテスタント教会には、《万人祭司》(ばんにんさいし)の原理により、司祭はおらず「牧師」がいる。 

牧師 pastor

プロテスタント教会で、教会の管理や信徒の指導・監督をする教職者のこと。

 

教団・教派の《按手礼》(儀礼)によって任職されるが、《万人祭司原理により、立場は神の前に一般信徒と同じとされている。

6 原文 Original text

NEED OF RE-REFORMATION

宗教改革仕直しの必要

世界は宗教改革の仕直しを要求する。第16世紀の宗教改革は阻止されたる運動として終った。プロテスタント主義は制度化せられて、放棄せられし羅馬(ローマ)カトリック主義に後戻(あともど)りした。

 

我等はプロテスタント主義を論理的結論まで持行く再度の宗教改革を要求する。

 

新プロテスタント主義は完全に自由にして其(その)内に教会主義の痕跡だも留めざる者であらねばならぬ。制度ならずして親交であり、組織又は団体に非(あら)ずして、霊魂の自由なる交際であらねばならぬ。

 

実際的に言へば、それは神の子イエス・キリストならぬ何人(なんぴと)をも監督又は牧師と呼ばざる、教会を要せざる基督(キリスト)教であらねばならぬ。

 

そして神は此(この)日本国に於(お)いて斯(か)かる基督教の現はれん事を欲(ほっ)し給はずと誰が言ひ得る乎(か)。人類の霊的向上の歴史に於て試みらるべき此新しき試み、即(すなわ)ち日出ずる国に於て基督教の根本に遡(さかのぼ)り、之(これ)を新たに始めんとする大なる試みは、我等日本人の間に試みらるべきにあらずと誰が言ひ得る乎。

 

神よ我等に聖霊を注ぎ、我等の衷(うち)に大望を起し、我等をして此大事に当らしめ給へ。

(『聖書之研究』333号「NEED OF RE-REFORMATION」より引用。英文は省略)

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