イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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「私は父に向かって私の両膝を折り、・・・[以下のものを恵みとして]あなたがたに与えて下さるようにと祈る。・・・
それは[キリストの奥義の]幅、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを・・・把捉し、人智を超えたキリストの愛を知って、神の全き充満へと満たされるためにである。」
(エフェソ 3:14-19、岩波版)
この17節の[キリストの奥義(おくぎ、注1)の]という部分は、原文には無く、〔岩波訳の〕訳者が補足した言葉なので、〔ギリシャ語の〕原文を忠実に再現しようとすれば、「その広さ、長さ、高さ、深さ」という訳語となる(聖書協会口語訳・前田護郎訳)。
しかしその場合、「その」とは何の事なのかが判明しない。
そこで何らかの補足をせざるを得なくなるので、新共同訳では「キリストの愛の」と補っているのだが、これは原文の趣旨に添っているとは見られない。キリストの愛については、
「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(17節)
という言葉が別に存在するからである。
そこで結論としては、岩波版のように[キリストの奥義の]とするのが最善だと思うのだが、私としては「キリストの福音の」と補ってみたい。
つまりキリストの福音には、人智をもって測り知る事のできぬ「広さ、長さ、高さ、深さ」が存在するのであって、その全貌は深い秘義(注2)だという事実に基づき、どうか神によって、その「広さ、長さ、高さ、深さ」が啓示されるようにと祈り求めよ、と筆者は奨めていると見るのである。
これは実に重大な真理の証言だと私は思うのだが、二千年の教会史を通して、この訓告を真正面から取り上げた形跡が全然見られない。
福音の真理を、ある一つの定式(テーゼ)あるいは成文化された教義体系(注3)によって表示する事はできぬという重大な証言を汲み取る事なく、自分たちの信仰告白こそ福音の全体を誤りなく把握しているとの前提に立って、これに同意せぬ人々に異端(いたん)の烙印(らくいん)を押し、これを断罪〔し、しばしば迫害〕するという高ぶりが、〔歴史上、〕一貫して繰り返されて来たではないか。
聖書自体は、福音の教義的定式化を避け、神(及びキリスト)がいかに人と共に歩まれたかという足跡を、物語として語って来た。
つまり人智を超えた神の救済意思を、その発現についての歴史的展開を通して表現してきたのである。
福音の本質をドグマ(注4)によって表示する企(くわだ)てを放棄し、歴史的展開を通して福音の「広さ、長さ、高さ、深さ」を証言する事に徹したならば、〔信仰告白(ドグマ)の違いによって無数の教派に分裂し、自分たちのドグマのみが正しい、として互いに争う〕教会問題は面目を一新して、制度教会克服への端緒が、あらわになるであろう。
ここにおいてこそ、無教会的福音理解の真理性が、根源的に明らかになる、と私は考えている。
♢ ♢ ♢ ♢
(『高橋聖書集会 週報』2008年11月30日、高橋三郎、島崎輝久『万人に迫る主の恵み』証言社、2009年。( )、〔 〕内は補足。以下の注は引用者による)
注1 奥義(おくぎ)
一般的に、学問、技能などで、最も大事で難解なことがら、極意をいう。
聖書では、この世の支配者たちには隠されているが信仰者には啓示されている神の知恵を指し示す。
注2 秘儀(ひぎ)
信仰の本質を究めるのに必要とされる、秘められた事柄や教え。
注3 「定式あるいは成文化された教義体系」
決まった形式の文章として条文化された、教義(教理)の全体のこと。
ここでは、福音の全体を正しく把握し、言い表していると考える自分たちの教義を条文化したもの(ドグマ)のこと、具体的には、正しい信仰の基準としての信仰告白の条文(信条)を指すと考えられる。
無教会は、無教会としての信仰告白(信条)制定の企て(つまり、教派の形成)を拒否している。
注4 ドグマ
宗教上の教義。また教義としての条文。