イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
■上の「ネットエクレシア信州」タッチでホーム画面へ移動
Move to home screen by touching “NET EKKLESIA” above.
最終更新日:2024年12月7日
■サイト利用法はホーム下部に記載
12月<内村鑑三「一日一生」現代語訳
12月21日~12月25日
(2023年11月16日更新)
このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『続 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。
【12月21日】
♢ ♢ ♢ ♢
【12月22日】
♢ ♢ ♢ ♢
【12月23日】
♢ ♢ ♢ ♢
【12月24日】
♢ ♢ ♢ ♢
【12月25日】新しきクリスマス
まことに、一人の嬰児(みどりご)がわれらのために生まれ、一人の男の子がわれらに与えられた。
主権はその肩にあり、その名を「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いてその王国を治め、公正と正義をもってこれを強固にし、またこれを発展させ、今より永久(とこしえ)に至るであろう。
万軍(ばんぐん)のヤハヴェの熱心が、これを成し遂げる。
(イザヤ 9章 5~6節 岩波訳,、聖書協会共同訳参照)
■キリストは〔二千年前、〕すでに〔この地上に〕来られた。
〔そして、〕彼は〔、約束どおりに〕再(ふたた)び来られるであろう。
キリストは〔人類の罪と死を一身に担(にな)うため、〕マリヤの子として〔、われらと同じ〕人間〔-極度に貧しく無力な、危うい存在-〕に生まれてくださった(注1、2)。
〔その〕彼は〔今度は、栄光の〕神の子として〔、愛と義をもって〕人類を治めるであろう。
キリストは、今は〔天に挙げられて、〕地上におられない。
しかし、それは〔もう〕暫(しばら)くのことである。彼はじきに〔地上に〕帰り来て、われらの王となられるであろう。
「見よ、闇が地を覆(おお)い、暗黒(やみ)が諸々(もろもろ)の民をおおう。
しかしあなたの上には〔、神〕ヤハヴェが輝き出(い)で、ヤハヴェの栄光があなたの上に現れる」(イザヤ 60章 2節)と〔聖書に〕ある。
キリストは、この地をその暗黒〔の支配〕に委(ゆだ)ねることはされず、彼は〔暗黒を打ち破って、〕その上に輝き、われらに〔平和の〕光を与えてくださるであろう。
今や、新しきクリスマスは来たりつつある。
〔これは、二千年前、〕新しき星がベツレヘムの上空に輝いた時に遙(はる)かに勝(まさ)る、栄光のクリスマスである。
神の子〔キリスト〕は、その正当な持ち主として地を受け継ぐために、来たりつつある。
今度は、罪を贖(あがな)うためにではなく、これを滅ぼ〔し、神の国の完成をもたら〕すためである。
〔かつて救い主の降誕(こうたん)を告げた〕ベツレヘムの星は、〔今や〕義の太陽として〔全地の上に〕昇ろうとしている。
何と楽しいことか、新しきクリスマス!
(信12・239)
§ § § §
注1 ルカ福音書 2:8~20 参照
注2 初めてのクリスマス-貧しく、無力なキリスト
「あなた方は、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています
すなわち、主は〔神の子として〕富んでいたのに、あなた方のために〔人間となって〕貧しくなられました。
それは、主の貧しさによって、あなたがたが富かになるためでした」(コリントⅡ 8:9 聖書協会共同訳)。
「キリストは神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わ、かえって自分を無にして僕(しもべ)の形をとり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ 2章 6~8節)
* * * *
キリストはかつて富んだ方であった。ピリピ書 2章6節が語っているように、神と等しくあるという豊かさの中におられた方であった。
しかし彼は、そのような豊かさや富を固執すべきこととはされなかった。
彼の目には、私たち人間の極度の貧しさ、極度の無力さ、極度の危(あや)うさが映った。
そのような私たちのために、キリストは貧しくなって下さった。
私たちが立っているまさにそのところに、彼は立って下さった。私たちの置かれている状況を、彼は自らの状況として下さった。ご自身の身に引き受けて下さった。
飼い葉桶の中で布に包まれた嬰児(みどりご)の誕生-初めてのクリスマス-は、そのことを語っている(ルカ 2:7)。
そしてまた、布に包まれた嬰児キリストが示しておられる極度の貧しさ、極度の無力さ、極度の危うさは、まさに私たちのそれである。
だが同時に、御言葉は次のように語る。
「それは、主〔キリスト〕の貧しさによって、あなたがたが〔真に〕富かになるためでした」(コリント第Ⅱ 8:9 )。
つまり、キリストが私たちのところに立って下さる-彼が私たちの状態をご自身の状態としてくださる-のは、そのことを通して、彼の立つところに私たちを迎えるためである。私たちが彼の富に、彼の豊かさに与(あずか)るためである、と。
神は、私たちが、この嬰児キリストの姿を通路として、神の豊かさに与る者となることを望んでおられる。
(注2の出典:井上良雄著「今日汝らのために救い主生まれ給えり」『キリスト教講話集Ⅱ エデンからゴルゴタまで』新教出版社、2012年。引用聖句を聖書協会共同訳に変更)
♢ ♢ ♢ ♢