イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
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最終更新日:2024年12月7日
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福音伝道のために協力しようとする有志の共同体であるヨシュア会が、昨年〔1997年〕の8月に八王子の大学セミナーハウスで懇談協議の一泊研修会を開いたとき、さまざまな意見が開陳(かいちん)された中にあって、次のような疑問を提起した方があった。
無教会は福音の原点復帰の貫徹を目指しており、ここに統合の原点を見出すと言われるのだが、教会もその点では同じである。どこに両者の相違があるのか、という問いである。
この問題に対して明確な解答を示しておく必要があると思うので、以下洗礼と聖餐(せいさん)の二点を手掛かりとして、私の見解を公にしておきたい。
1
〔1-①〕
教会では洗礼(注1)が行われているが、それがどこから始まったのか、その歴史的起源は今でもはっきりしない。
ヨハネ福音書4章2節に「洗礼(バプテスマ)を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちであった」という但し書きがついており、これは〔歴〕史的信憑(しんぴょう)性の高い証言だと思われる(注2)。
そうだとすれば、イエスの弟子たちが、新しく入信した人々に対して洗礼を授けるようになったのは、いかなる経過を経た結果であろうか。
これについてもまだ定説がないようだが、その背後には二つの可能性が想定されている。
その一つは、異教徒がユダヤ教に改宗した場合、今までの汚(けが)れを潔(きよ)めるために洗礼が行われていたという慣習(注3)がキリスト教会にも受容されたのではないか、という可能性である。
これによれば、洗礼を境として、汚れた者と潔い者とが截然(せつぜん)と二分されることになり、教会においても救われる者と救われない者とが、洗礼を境として二分されることになる。
そして教会史上の発展過程において、この種の二元論が受容されたことは、まぎれもない事実である。
〔1-②〕
次に第二の可能性として、洗礼者ヨハネがヨルダン川で授けていた洗礼が、イエスの弟子たちの間にも受け継がれたのではないか、という想定も成り立つ(注4)。
ヨハネが授けたのは「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼(バプテスマ)」(マルコ1:4)であったと伝えられており、彼のもとに洗礼を受けにきたファリサイ派やサドカイ派の人々に対して、「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(マタイ3:7)ときびしく悔い改めを求めたとしるされている。
彼においても、洗礼という行為は、救われる者と救われない者とを峻別(しゅんべつ)する営みであった、と見るべきであろう。
洗礼者ヨハネの弟子の中からイエスの弟子になった人々が存在したのだから、彼の行った洗礼運動が、その後のキリスト教会にも受容された可能性が大きい。
この場合にも、洗礼を境として、救われる者と救われない者とが明確に二分されるという点では、上に述べた第一の場合と同じである。
しかしこれがイエスご自身の宣教活動と一致する思想であるかどうか、大いに疑問と言わねばならない。
〔1-③〕
そもそも洗礼者ヨハネは、その幼少年時代を、死海のほとりに隠棲(いんせい)していたクムラン教団で過ごしたのではないかという推定が可能であり、この教団において日毎に行われていた潔めの水浴が、のちヨハネが行うようになった洗礼の中にその余波をとどめているのではないか、という推定も成り立つ。
そしてクムラン教団と言えば、これは黙示(もくし)思想の拠点であって、救いにあずかる者と滅びに定められた罪人とをきびしく分離する二元論が、そこを支配していた。この思想は、洗礼者ヨハネ自身の中にも見られるものである。
〔1-④〕
ところでこのヨハネは、イエスの先駆者として登場し、彼を世に紹介するという重大な役割を果たした人物だが、イエスのその後の活動を見ていると、期待していたような火の審判は到来する気配が見えず、イエスの活動に対して疑惑を覚えざるを得なくなり、「来(きた)るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(ルカ7:19)と問いかけざるを得なくなった。
両者の救済観の間には、大きな相違が見られたのである。
しかるに現在教会で行われている洗礼の中に、今まで見てきたような救われる者と救われない者という二元論的人間観が流入しているとすれば(注5)、この教会の慣行は、福音の原点復帰を目指すという表向きの旗印とは違って、結局のところ、〔イエスの復活・昇天後の〕原始教会における慣行への復帰に終わっているのではあるまいか。
少なくとも私自身は、キリストの福音そのものへの復帰を目指すものとして、これを受けとめることはできないのである。
〔1-⑤〕
もちろん教会で行われている洗礼に対して、これがイエスの恵みにあずかった者の信仰告白の一形式である点については、心からの敬意を表す者であって、これを頭ごなしに否定する考えはない。
そしてパウロ自身もロマ書6章において、洗礼は〔古き自分が〕キリスト共に葬(ほうむ)られ、その死にあずかる者となったことの象徴として、積極的にその意味を評価している。
しかし第一コリント書1章17節では、自分が召されたのは洗礼(バプテスマ)を授けるためではないと明言しており、同じく第一コリント書10章では、先祖なるユダヤ人たちは、雲の中で、モーセに属する者となる洗礼(バプテスマ)を授けられたけれども、彼らの大部分は神の御心(みこころ)に適(かな)わず、荒野で滅ぼされてしまった(1-6節)と述べており、儀式としての洗礼が救いを保障するものではないことを、示唆している。
無教会において洗礼が行われる例が少ないのは、このパウロの見解と一致しているのではあるまいか。
〔1-⑥〕
すでに述べたように、キリストの福音を証(あか)しすべく召されているという点において、教会も無教会も同じであり、私は教会の中に敬愛する多くの友人を与えられていることを心から感謝しているけれども、その存在形態においてやはり異なる点があり、その一つが洗礼の有無であると考えている。
そして教会史の発展過程において、洗礼が救いの必要条件だと強く主張された時期が長く続き、再洗礼派のように、幼児洗礼を無効とする思想のゆえに、過酷な弾圧を受けた例もあった(注6)。
救いの必要条件としての洗礼という思想は、聖書的〔、つまりキリストの精神に合致するもの〕でないのみならず、実に恐るべき害悪を生み出してきたのである。
この事実を見るだけでも、この種の礼典(れいてん)に対して控えめな態度をとる無教会の方針は、イエスの福音の本義に即すると言うべきであろう(注7)。
2
〔2-①〕
次に第二の問題点として、教会で行われている聖餐式(注8)にも、言及することにしよう。
この問題については、すでに拙著『新約聖書の世界』の第一章で、かなり詳しく論じておいたので、ここでは事柄の大筋だけを述べるにとどめることにしたいと思うが、イエスが十字架の死をとげた後、その復活顕現に接した弟子たちが、エルサレムにおいて再結集をなしとげたとき、彼らの行った最初の営みは、み霊(たま)において復活の主をお迎えしつつ、最後の晩餐を記念する会食をしたことであった。
それは霊における愛の交わりの場であると同時に、イエスの生前を追慕し、その再臨(さいりん)を待ち望む機会でもあったに違いない。
〔2-②〕
ところがこの会食の意味を解釈するための手掛かりとして、思いもかけぬ異質的思想が、持ち込まれることになったのである(注9)。
当時地中海世界に広まっていた密儀(みつぎ)宗教において、神の化身(けしん)とみられていた動物を殺してその肉を食い血を飲むことによって、その神との合一をなしとげ、不死の生命にあずかることができると信じられていたが、この考え方が、初代のキリスト信徒の間にも持ち込まれ、あの会食の時に食べるパンはイエスの肉であり、飲むブドウ酒はイエスの血であるとする説が、定着するに至ったのである。
あの密儀教の場合と同じように、このパンを食べブドウ酒を飲むことによって永遠の生命にあずかることができる、という思想がそれである。
われわれはその痕跡(こんせき)の一つを、ヨハネ福音書6章の次の記事の中に見ることができる。
「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)。
「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」(53-55節)。
〔2-③〕
これが、当時行われていた聖餐式に対する説明の言葉であることは、否定しがたいであろう。
しかしヨハネ福音書は複数の記者によって書きしるされたものであることが、今では定説になっており、別の記者による訂正の言葉がこの後に続いている。
「命を与えるのは〝霊〟である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(63節)。
というみ言葉がそれである。
それだけではなく、ヨハネ福音書は最後の晩餐の記事を13章から17章に至るまで書きしるしているけれども、共観福音書の場合とは違って、パンを裂きブドウ酒を飲んだという事実には一切言及せず、それに代わって、イエスが弟子たちの足を洗われたという故事を語ったほかは、別れに際して弟子たちに与えた訣別の言葉が、大がかりに展開されている。
この福音書において、聖餐式に対する密儀教的理解が否定されていることは、疑問の余地がないのである。
〔2-④〕
しかしながら、その後の教会史の発展過程において、密儀教的理解が本流となり、そこで食べるパンはイエスの肉であり、飲むブドウ酒はイエスの血であるという解釈が連綿として続くことになった。
その結果、聖餐式におけるパンは、祭儀の場において本当にイエスの肉に変わるのか、それともパンであることには変わりがなくイエスの肉がそこに共存するのか、といったような奇怪きわまりなき議論が戦わされたばかりでなく、これは単なる論争の域を越えて、分裂抗争の火種とさえなったのであった。
これとは別に、聖餐式のパンがそのままイエスの肉に化するわけではなく、ただこれを意味するだけだという象徴的理解も提示されたが、この説は強く退けられたのである。
冒頭で述べたように、本来霊において復活の主をお迎えし、祈りと讃美を共にする喜びの会食であったものが、このような分裂抗争の拠点と化したことは、実に嘆かわしい福音の歪曲(わいきょく)と言わざるを得ない。
〔2-⑤〕
教会では今でも聖餐式が行われているが、その解釈や執行の仕方は大きく変化してきており、聖餐式への参加を許されるのは受洗者に限ることを原則としながらも、教会によっては、洗礼の有無にかかわらず、希望者にはすべてこれへの参与を認めるという例も見られるようになった。
しかしそれにしても、洗礼や聖餐式などの礼典(れいてん)が教会の営みの中枢に位置しているという事実には変わりがない(注10)。
しかもそれだけではなく、イエスの最後の晩餐の記念として開始された初代の信徒の会食が、密儀教の異教的思想の影響を受けて、いわゆる聖餐式へと変貌(へんぼう)をとげたという重大な事実を自覚している人は、ほとんどないように見える。
〔20世紀の代表的神学者である〕エーミル・ブルンナーの力作『教会の誤解』(酒枝義旗〔よしたか〕訳)は、まさにこの点を追及した重大な著作であるが、惜しいことには、異教的観念が新約聖書の記事にまで持ち込まれているという点にまでは、彼の洞察は及ばなかった。
無教会はまさにこの点を問題にするのであって、上に述べたような教会的礼典〔サクラメント〕と、これを執行するため必要な聖職者を中核とする制度的組織体の壁を越えて、イエスその人のもたらされた福音の原点への復帰を貫徹しようとするのである。
ここから見るならば、教会においても福音の原点復帰を目指しているとは言うものの、実際には、誤解と変質をすでに内にかかえていた原始教会への復帰にとどまっているのではないかと私は思う。
♢ ♢ ♢ ♢
(高橋三郎「教会と無教会」『十字架の言』1998年6月号、『教会と無教会』証言社、1999年所収。〔 〕、( )内は、サイト主催者による補足)
以下は、サイト主催者による注。
注1 洗礼(バプテスマ)
洗礼(バプテスマ)は、ギリシャ語で「水に浸され切る」という意味の動詞から来た名詞。字義を汲んで訳せば「浸礼(しんれい)」。
バプテスマは、原始キリスト教会において、キリスト信徒になるための入信儀礼(儀式)として行われた。
(参考文献:『新約聖書』岩波書店、2004年、「補注 用語解説」p26。『新聖書大辞典』キリスト新聞社、1971年、p1097)
注2 イエス洗礼を授けず
「イエス自身はバプテスマを自ら施したことはない(ヨハネ4:2は、3:22を訂正している)。
キリスト教会のバプテスマは、イエスの十字架と復活を経た後に、教会の中に定着した。その現れとしての復活のイエスの命令(マルコ16:16、マタイ28:19以下)が語られている。もっとも、これらの語自身は後の教会の立場から書かれたものである」。
(『新聖書大辞典』、( )内を含めてp1097からの引用。下線は引用者による)
注3 ユダヤ教における改宗者のバプテスマ
異教からユダヤ教への改宗者に施したバプテスマを「改宗者のバプテスマ」という。
バプテスマが教団入門の儀式として確立されるのは、ユダヤ教における「改宗者のバプテスマ」〔が初めて〕であろう。〔このバプテスマは〕レビ的な〔、汚れからの〕潔めの意味を持っていた」(前掲書p1097)。
注4 キリスト教の洗礼の起源
「〔洗礼者〕ヨハネのバプテスマがキリスト教のバプテスマの直接の起源であることは、確かである」(前掲書p1097)。
「〔イエスの復活・昇天後に〕成立しつつある〔原始〕キリスト教は洗礼を、洗礼者ヨハネの教団から「入信儀礼」として受容した。その時期については・・、少なくともパウロは信徒を受洗者と見なしているので、〔紀元〕50年代以前であり・・」
(荒井献『初期キリスト教の霊性』岩波書店、2009年、p70)
注5 洗礼者ヨハネの役割
「〔洗礼者〕ヨハネは、・・クムラン教団にきわめて近い傾向を持った一つのセクトを形作っていたことは、ほぼ間違いないなかろう。
〔新約聖書学者・初代キリスト教史学者の〕クルマンは、ヨハネがエッセネ派(あるいはクムラン)と原始キリスト教との橋渡しをしたと見ているが、これはほぼ認めてもよいであろう」(前掲『新聖書大辞典』、p1097)。
注6 再洗礼派
再洗礼派とは、宗教改革の時代に、幼児洗礼を無効とし、成人後、自覚的な信仰告白の後受洗すべきことを説いたプロテスタント急進派の総称。
反対派が用いた蔑称で、一度しか行ってはならない洗礼を二度行った者という意味で、アナバプティストAnabaptistと呼ばれた。
「彼ら〔再洗礼派〕に対しては、幾十年にもわたって容赦ない迫害が、しかもカトリック〔教会〕側からも〔プロテスタント〕福音主義〔教会〕の側からもひとしく加えられた。
無数の人々が火刑、四つ裂き、水死、絞首等の刑に処せられた」。
(カール・ホイシ『教会史概説』荒井献・加賀美久夫共訳、新教出版社、1966年、p106)
注7 サクラメントと教会、無教会
「教会と無教会を線引きする最大の問題は、サクラメント〔、すなわち聖礼典・秘跡としての洗礼、聖餐等〕です。
教会が「(サクラメントという)条件付き救済論」を主張しているのに対し、無教会は「(付帯条件なしの)無条件救済論」を唱道(しょうどう)しています。
無教会の信仰の根幹は、内村鑑三の「人は〔神に〕救われることによって〔はじめて、信仰を与えられ〕信じる者になる」という命題の提示にあります。
キリスト信者は〔、人間の功徳・業績や聖職者の執行するサクラメントの効力によってではなく、〕神〔の絶対的・圧倒的な恩恵〕に〔よって〕信ぜしめられて信者になったのであり、その〔信じる〕信仰そのものが神の特別なる恩賜(おんし)であると述べています。
高橋〔三郎〕先生は、〔次のように述べています。〕
「もし人は〔神に〕救われることによって〔はじめて、信仰を与えられ〕信じる者になるという命題が確立されるならば、〔人が「自らの信仰」を誇る余地はなくなるのだから、「自らの信仰」の正しさを誇りつつ争われる〕血なまぐさいキリスト教史上の悲劇は〔それによって〕一挙に解決されることになる〔ところの〕実に重大な宗教改革的真理を、内村は発見したのである。
無教会は、これを証(あか)しすべく召(め)されているのである」さらに「〔人を救うという〕神の救済意思の発現から、信仰へ」という恩恵の順序の再発見こそ、無教会に課せられた使命であると私は信じています、と
〔以上のように、先生は〕『十字架の言(ことば)』で述べおられます。・・」
(松阪著「高橋三郎先生の次世代への伝言」『今井館ニュース 第32号』2015年7月31日より。下線は引用者による)。
注8 聖餐(せいさん)
聖餐は、パンとブドウ酒を受けることにより、キリストの死と復活を記念するもの。
「聖餐」という語は、ギリシャ語ユーカリスティアευχαριστια(eucharistia)の日本語訳。カトリックでは「聖体」という。ευχαριστιαは「感謝」の意で、2世紀頃から、儀礼としての聖餐を指す用語となった。
愛餐と聖餐
〔イエスの復活、顕現後のエルサレム原始教会成立ののち、〕「信徒たちは『家々で』『使徒たち』の教えを聞き、食事を共にして(この段階では『聖餐』と『愛餐』の区別はない)、熱心に祈りを捧げた」。
(「 」内は( )内も含め、荒井献、出村みや子、出村彰『総説 キリスト教史 1原始・古代・中世篇』日本キリスト教団出版局、2007年、p30、31からの引用)
「原始教会では、〔キリスト者の共同の食事である〕愛餐の中で、聖餐(パン裂き→食事→杯)が行われた〔Ⅰコリント11:24~30参照〕。
入信儀礼(儀式)としての洗礼〔式〕と統合儀礼としての聖餐〔式〕が執行され〔るようになっ〕たのは、キリスト教の社会的コンテクスト(背景)がユダヤからヘレニズム〔ギリシャ~ローマ〕世界に移行した後においてである。
なお、イエスが最後にもった食事〔つまり、最後の晩餐〕は、〔儀式のための特別の食事ではなく〕元来、ユダヤ社会における普通の食事であった可能性が十分ある」 (荒井献「新約聖書における『聖餐』再考」、前掲『初期キリスト教の霊性』、p70、73)。
愛餐と聖餐の分離、愛餐の消滅
「〔原始教会では〕愛餐のために持参した食物は、執事たちによって分配され、その際、特に、欠席している貧者への〔配食の〕配慮がなされた。
しかし、この愛餐はしばしば一種の酒宴に堕することがあった〔Ⅰコリント11:17以下参照〕。・・
これを避けるために愛餐と晩餐が次第に分離していった。〔2世紀の使徒教父文書である〕ディダケー〔『十二使徒の教訓』〕9:1以下によれば、愛餐が晩餐に先行している。
4世紀になると、晩餐から全く区別された愛餐は教会の中で禁止され、7世紀になると、より効果的な貧困者対策にとって代わられて消滅した」(『聖書大事典』教文館、1989年)。
注9 集会の祭儀化
「・・〔紀元〕2世紀以降、キリスト教徒の集会が次第に祭儀の性格を帯びてきた、・・すでに〔紀元〕250年頃、・・祭儀の中に神的なるものとの現実的結合(神化)が求められ、したがって魔術的・サクラメント的・密議的特徴がますます強調されるに至った」(前掲カール・ホイシ『教会史概説』p30)
注10 ディダケーの新律法主義
「〔2世紀の使徒教父文書である〕『十二使徒の教訓〔ディダケー〕』は、聖餐には洗礼を受けた者しかあずかってはならないという規定(9:5)をキリスト教文書で初めて記した」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2002年、p763)。
「ディダケーでは、非洗礼者を「犬」、「豚」呼ばわりをしている。これ(非洗礼者に対する差別)は、2世紀以後に成立する初期カトリシズムの、とりわけキリスト教「新律法主義」を反映した洗礼観である。・・
『十二使徒の教訓』には、聖餐の陪餐(ばいさん)者を洗礼者に限定する初めての言及がなされている。
・・それ(ディダケーの言及)は、初期カトリシズムの形成期において、〔共同の食事である〕愛餐と〔イエスの死と復活を記念する〕聖餐が連続していた時代からの〔、愛餐から分離した〕儀式的な聖餐への移行期の一つの現象であるが、〔儀式的な聖餐における非洗礼者の排除は、多くの人に開かれていた〕イエスの教えと振る舞いとは異なる道で〔あって〕、クムラン教団やファリサイ派のように聖なる者と汚れた者を遮断する道でもあった」(前掲荒井献『初期キリスト教の霊性』、p73。下線は引用者による)。
日本のあるキリスト教団では、ある教会の「牧師に対し、聖餐を未受洗者に開いた廉(かど)で教団の常議員会により牧師退職勧告が出されるなど、深刻な問題が起こった」(前掲書p62)。
その後、2010年、「未受洗者への配餐は教憲教規違反である」との理由で、この牧師は教団により免職された。
この問題は、多くの人に開かれていたキリストの教えと振る舞い(マルコ2:13~17参照)に反して、洗礼、聖餐における律法主義的差別が現代にまで続いていることを示しているのではないだろうか。
なお、この問題を巡って、今も教団を二分する論争が続いている。
注1~10の( )、〔 〕内は補足。