イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2024年12月7日
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第3節 無教会主義の原理と実際
1
だから無教会の原理というものは、人が〔神の前に〕義とされる(=救われる)のは、〔外形的な〕律法の行為によるのではない。〔教会〕制度〔の規則、礼典儀式〕を守ることによるのではない。〔神・キリストに対する〕信仰によるのである〔ということである〕(注1、2)。
〔また、〕真の礼拝は霊と真実(まこと)によるのであって(注3)、〔特定の〕礼拝の場所と方式にあるのではない〔ということである〕。
この原理を主張することにおいて、無教会主義の本質は《純福音主義》であると言われます。
〔建前では、〕「人が〔神に〕義と認められる(=救われる)のは、信仰による」(信仰義認)と言いながら(注4)、〔実際には、洗礼を受けて制度〕教会に属することが必要だ、礼典(聖餐式等)を守ることが必要だと言うのは(注5)、純な福音ではない〔。
「看板に偽(いつわ)りあり」。信仰のほかにプラスα(アルファ)を要求する、不純なものだ〕。
一切、そのような〔プラスαとしての〕制度〔的行為〕は救いには必要ではないというのが、純福音です。
〔その意味で、〕無教会の原理は純福音であります。〔そして、〕その原理から起った、無教会の実際のやり方がある。
無教会の非常に大きな歴史的功績は、〔救いの〕福音を〔制度〕教会という〔人為的宗教性の〕枠の外に解放したということです。
パウロが〔割礼無用を唱えて、〕キリストの福音をユダヤ主義の制限から解放して広く異邦人(いほうじん)に及ぼしたように、無教会主義は福音を教会という制度から解放して、教会員にならなくてもキリスト者であることができるということを明かにした。
これは実に大きな解放です。
それまでは、救いは〔制度〕教会の中に閉じこめられており、洗礼を受けて教会員にならなければエクレシア(神の教会)の一員でないように言われた。
ところが、神のエクレシアに連なるためには、制度的な教会〔の会〕員になる必要がないというのですから、これはパウロがユダヤ主義者と戦って、キリストのエクレシアに連なるためには割礼(かつれい)を受けてユダヤ人にならなくてもよい、と主張したことに匹敵する大改革であって、福音の及ぶ範囲を実に広い世界に向かって解放したのであります。
2
こうしてキリストを信じて救われる者の範囲が教会外に拡大されたと共に、神の言葉を宣べ伝える伝道の仕事も、教会の決めた資格(教団認定の教職、聖職者)の制限を離れて、すべての信者に対して拡張されました。
我々は《万人祭司》(ばんにんさいし、祭司=坊主)という言葉を好みませんが、無教会では万人が福音の伝道者である。万人伝道者である。
すなわち徹底した《平信徒伝道》であります。
無教会〔の信徒〕も実際問題としては、日曜日毎に一緒に集って神を礼拝し〔、復活の主を聖霊としてお迎えしつつ〕、祈り、み言葉を学ぶのですが、その《集会》には決まった制度や、永続的な〔固定した〕組織があるのではなく、集会としてはいつでも解散できる態勢にあります〔。
無教会の集会は1回1回が神の賜物(たまもの)として与えられ、生起するのであり、そのたび、力の限りになされます。
それを神の意図とは無関係に、人間的に持続させ、固定化することは、かえって集会(エクレシア)の真の生命を害し、神の聖会を人間の集会とするからです。
そして、このような伝道法は、ただ自らを投げ出すことによって神に一切を任せて伝道したイエスの伝道法にのっとるものです(注6)〕。
伝道の場所や時間にも制約がなく、各自の家庭において、職場において、各人の周囲において福音を語る機会があれば、福音を語る。家庭伝道、職場伝道は、無教会における最も貴重な伝道です(注7)。
無教会は、いわゆる《大衆伝道》的な方法をとりません。
かえって3人あるいは5人、家庭において、あるいは職場において共に聖書を学ぶ仲間ができ、それが細胞のように社会に行きわたり、こういう方法によって福音が社会の中に浸透してゆく。
それが無教会による福音伝播(でんぱ)の方法であります。
無教会には〔僧職としての〕監督や牧師はいませんが、「先生」がいます。
無教会は先生中心であるという批評があります。すなわち先生の位置が重すぎる、というのであります。
この批評は確かに考えなければならない問題を含みますが(注8)、ともかく「先生」というものが集会の中心に立っていることが、無教会の一つの特色であります。
〔そして、〕無教会の実践では、先生に対する人格的真実を重んじる。
これは、教会における牧師の地位と比較して見ればよく分かるでしょう。教会の牧師は、月給で雇われているのです。教会の都合〔たとえば役員会等の決定〕で、牧師の免職もあり、転任もあり、牧師の能力や勤惰に対する評価と監督が教会の中にある。
牧師もそのことを心得て、教会員の喜ぶようにいろいろ気を配る。そこには、神の言葉を語る者の権威に対する人格的尊敬と真実を欠くことが少なくないのです。
ところで、人格的真実、すなわち人間対人間の真実な関係は、キリストの教えを学ぶ者として根本的に必要な態度です〔。
生ける神の人格的真理、福音は人格的な伝達によって、つまり具体的な人格を介し、人格から人格へと伝達されるからです〕。
「霊と真実(まこと)をもって〔神を〕拝しなさい」、とイエスは教えられた。霊だけでなく真実を特に加えられたのは、人格的な真実の態度を重要とされたからです。
神は活(い)きた人格ですから、神に近づき神を〔礼〕拝する者は、神に対して人格的に真実な態度をとらなければなりません。神に対し真実な態度をとる者は、他の人間、ことに神の言葉を伝える先生に対して、人格的に真実な態度をとらなければなりません。
神の言葉を伝えてくれる先生に対して人格的に真実な態度をとらない者が、どうして活ける神に対して人格的に真実な態度をとることができる〔だろう〕か。
神の言葉を伝える先生を腹の中では軽蔑し、あるいは批判しながら集会に来るということでは、無教会の集会は成り立たない。
もちろん先生は神でないから、先生の考えが絶対に正しいということはなく、また先生の人物が完全であるということもありません。先生が自分に適しなければ、他の先生に変ってもよい。
しかし神に対して真実である者は、人に対する真実を重んじます。
無教会で先生に対する真実を強調するのは、み言葉を説く人を重んじるからであります。み言葉を重んじることと、み言葉を説く人に対して真実であることとは、人格的には区別できません。
先生が〔神から遣(つか)わされた者として、〕キリスト〔の光と導き〕によって神の言葉を伝えてくれる限り、その先生に対し心の真実をもって向き合うことが必要であるのです。
無教会主義のやり方が先生中心であることは、教会が制度中心であるのと著しい対照をなします。
しかし先生は一代限りであって、後継者を作りません。無教会の集りは〔この地上に固定的に持続する宗教〕団体でありませんから、先生の後を継いで団体を維持する問題も起りません。
先生が天に召されるならば、それと共に先生の集会は解散され、雑誌は廃刊される〔。一旦、すべてを神にお返しする〕。
〔そして、〕先生の教えを受けた者の中で、神の選び〔、つまり召命(しょうめい)〕を受けた者がまた、自分の集りを起こす〔。
こうして、福音宣教と目に見えるエクレシア(集会)は、非連続の連続(注9)として継承されるのです〕。
内村鑑三先生の存命中から、宣教師や教会側の人々は、後継者をどうされるかということを、何度も先生に質問した。
先生が言われるのに、「無教会主義が〔神の〕真理であるならば、神は必ず後継者を起してくださるであろう。〔だから、〕自分は〔神にすべてを委ね、〕後継者を作らない」と言われて〔実際〕、目に見える先生の事業は、聖書研究会も『聖書之研究』誌も、すべて先生一代限りで打ち切られた。
これが内村鑑三先生の実に優れた点であります。
先生の弟子たちも、この点においては絶対に間違いをしてはならない。
自分の集会のあとをこの弟子にとらせるとか、自分の雑誌は誰にあとをやらせるとか、そういうことは絶対すべきでない。
それをはっきりしないと〔宗教〕団体ができてくる。〔固定化した宗教〕団体ができれば、もはや無教会主義ではありません。無教会主義の堕落はそこから起ってくるのです。
3
無教会主義は、宗教的勢力ではありません。〔宗教〕団体でもなければ、〔党派でも、〕勢力でもない。したがって、人数でもありません。
よく人から聞かれるのですが、無教会の人数は何千人だか何万人だか、分かる方法もないし、知る必要もありません。無教会の財産もありません。建物もなく、基金もありません。〔"無教会派”〕所属の会員というものもない。
あるものは、ただ信仰による〔自由な〕友人関係だけであります。したがって、経済的な問題について、無教会の信徒に金銭的負担をかけることもない。
教会が堕落したのは、それが〔この世の〕財産を持ち、勢力を持つ〔宗教〕団体であったからです。
どうやって教会の財産を維持するか、勢力(教勢)を拡大するか、〔受洗者、教〕会員の人数を増加するか、そういうこの世的な、事業家的〔、宗教商売的〕な考慮が入ってくるから、福音の純粋さを失ってくる。
預言者的な精神を失って、この世の勢力者である支配階級〔、有力者、金持ち階級〕に迎合することになる。
ですから宗教的団体を作らないということが、無教会主義の実際のやり方、すなわちプラクティスとして重要なことです。
ですから、無教会の伝道者はたいてい、自分の生計を立てるために仕事をしております。
〔たとえば、〕書物を書き、雑誌を発行し、定価をつけて売ります。すなわち著述業によって生計を立てております。会員の寄附金とか、会費とか、そういうものに依頼しておりません。
先生の生計の維持を会員の負担に依存すれば、その間〔に〕経済的関係ができ〔、損得勘定を優先し〕まして、無教会の生命が失われる恐れがあるのです。
4
それから無教会主義には、社会の実際問題に対する敏感な〔、信仰に基づく〕批判があります。
〔預言者〕エレミヤ、イザヤ、またイエスなどがしたような預言者的な社会批判の精神が、無教会にあっては常に新鮮であります。
もっとも、この事については異なる考え方がありまして、無教会は純粋に福音だけを説くべきであって、この世の問題については超然的立場をとる〔べきである〕という考えの人もあります。
それも非常に大切なポイントです。
無教会の純福音はこの世的な宗教でない、社会的宗教ではない、それは霊的宗教であるということは、本当の事ですが、しかし霊的な信仰を持てばこそ、神の言葉に照して社会の現実を見ることができるのです。
預言者的精神、すなわち信仰に基(もと)づいた社会批判の目がありませんと、信仰の生命そのものが稀薄になって、改革者でなくなり、保守的な現状是認論者になってしまう。
無教会主義は《神の国》を霊的に待ち望むものであるから、〔かえって《神の国》の視点に立ち、〕社会の問題について常に革新的・改革的の側に立つのであります。
そうでなければ、信仰のゆえにこの世から迫害を受けるということもない。迫害のないところに、真の信仰は育たない。逆に言うと、真の信仰であれば必ず迫害がある。
社会の現実の状態に対して〔、「信仰」の世界に閉じこもり、われ関せずという〕超越的態度を取っていれば、知らず知らずの間に保守的な思想傾向を持ちまして、社会から迫害を受けることもない。
無教会主義が生命〔力〕を持つことは、戦時中、戦争政策と〔現人神〕天皇崇拝の国家主義に対して最大の抵抗を示し、そのため迫害を受けた者が、無教会の中から何人も出たことで分かります。
それは当然のことであって、無教会の信仰態度がそこに現われた。
それ(、つまり預言者的精神、すなわち信仰に基づいた社会批判の目)がなければ、無教会も塩気を失った塩のように生命を失ってしまうのであります。
5
最後に申しておきたいと思うことは、〔20世紀の代表的な神学者の一人である、スイスの〕エーミル・ブルンナー博士が日本に来て(注10)、無教会のことをよく観察されまして、世界のキリスト教の将来は無教会の行き方にかかっているということを強く言われた。
日本からアメリカに講演に行かれた時も、日本の無教会主義を紹介され、ヨーロッパに帰られて後も、専門〔の神学〕雑誌に日本の無教会を紹介されました(注11)。
ブルンナー博士の紹介によって無教会が世界的な興味と注意を惹(ひ)くようになりましたので、無教会の世界的使命という問題を考えなければなりません。
ブルンナー博士の注意を惹(ひ)いた点の一つは、無教会の伝道の仕方にありました。
すなわち教会的方法によらないで、平信徒が三々五々、小さいグループを作って職場伝道をするという行き方であります。
教会の壁に閉じ込められた中では、もはやキリスト教の伝道は行き詰りである〔。教会の教職・聖職者の数は限られているからです〕。
〔キリスト教は社会に対して一切の障壁を設けることなく、〕平信徒によって実際社会の生活〔、世俗〕の〔ただ〕中に人って行くという方法によらなければ、その行き詰りを打開することはできない、というのがブルンナー博士の見解であります(注12)。
私どもとしては、伝道の方法ということよりももっと大切な点がある。
無教会主義の特色として今まで述べたことを結論的に列挙して言うならば、
第一に、「人が〔神の前に〕義とされるのは信仰によるのであって、律法の行為〔、すなわち外形的行為の業績〕や制度〔、儀式、組織〕によるのではない」という、純福音の立場であります。
〔しかし、〕人は無教会主義という主義によって救われるのでは、決してない。〔もし、〕無教会主義という主義で救われるというのであるならば、教会主義によって救われるというのと五十歩百歩の議論です。
そうでなくて、霊と真実をもって〔神、キリストを〕信じる信仰だけによって救われる。
その原理が、福音伝道のために特別の聖職〔者〕を必要とせず、平信徒の活動(平信徒伝道)で十分であるという実践的行動に現われる。
第二に、良い意味の民族主義〔、信仰による祖国愛〕、すなわちナショナリズムが、無教会主義の中にある。それがあらゆる民族の〔自主・〕独立の精神となって現われ、民族勃興(ぼっこう)の力となるのです。
第三に、しかしながら無教会主義は、ある〔特定の〕国民だけの宗教ではない。
内村先生は「〔無教会主義は〕日本的キリスト教〔である〕」と言われましたが、〔真に個性的・日本的なるものは、それが福音の純粋な把握である限り、同時に普遍的・世界的であります。〕
それ(内村先生の日本的キリスト教)は決して日本だけに通用するキリスト教の意味ではなく、世界のどの民族にも自主独立性を与える福音であり、民族の如何(いかん)を問わずに神の救いを知らせる〔生命〕力ですから、その意味においては〔、無教会のキリスト教は〕普遍的・人類的・世界的な教えです。
第四に、無教会主義には預言者的精神がある。
神の審きを通して見た世界人類の運命と国民の将来についての預言と警告が、霊的信仰と不可分のものとして、無教会の中にあります。
〔無教会が〕社会の実際問題に対して〔遊離して〕宙に浮いてしまうことなく、《地の塩》、《世の光》として輝くならば、無教会の宗教改革的意義は実に大きなものでありましょう。
〔無教会は、〕ただ日本の無教会であるだけにとどまらず、世界の平和のため、世界に神の正義と公道を行わせるため、また世界のすべての国民、すべての民族に救いの希望を与えるものとして、世界〔史〕的使命を持つのであります。
〔制度〕教会という〔既成宗教の〕組織によって限定される狭い考えにならないで、清新活溌なイエスの生命そのものの発露する福音が、無教会によって世界的に広まってゆくだろう。無教会の歴史的意義はそこにあると思うのです。また是非とも、そうでなければならない。
無教会の将来が一種の教会主義として形式的に固定してしまうか、あるいは無教会は永遠に若き生命を持つ信仰の力であるか。現在我々は、その〔岐路、〕危機に立っていると考えてよい。
われわれ無教会が保守的に小さく固まってしまわないで、大きく伸び伸びと、世界的に、世界の救いのために、活動する霊的な力でありたいと思う。
このことを諸君の中の、特に若い人たちによく考えてもらいたい。
(付記)
米国の有力な週刊雑誌『タイム』の記者が私を訪問して、無教会のことを聞いた後、今井館でしている私の日曜集会に来てもよいかということであった。
私は時間に遅れずに来て終始、敬意をもって傾聴するなら、出席してもよいという許可を与えた。
彼は3月25日の日曜集会に今井館に来た。
その日、私は彼を啓蒙(けいもう)し、かつ彼を通して世界に無教会を宣べ伝えるつもりで、特にここに掲げた「無教会主義とは何か」という講演をしたのである。
その時の記者の筆になる「無教会」という記事が、『タイム』誌4月23日号に掲載され、外国からも相当の反響があった。
〔おわり〕
♢ ♢ ♢ ♢
(1956〔昭和31〕年3月25日内村鑑三26周年記念講演会(於:今井館)「無教会主義とは何か」『嘉信』第19巻・第6号、第7号、第8号、1956年6月、7月、8月を現代語化。( )、〔 〕内は補足、下線は引用者による)
注1 恩寵(おんちょう)義認
人はキリストの恩寵-十字架の愛という圧倒的、絶対的恵み-によって、神に義とされる。
「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストのピスティス(πιστεως)によって義とされる」(ガラテヤ書 2:16)
下線部分は、従来、「イエス・キリストへの信仰」と訳されてきたが、今日、聖書学者の多くは「イエス・キリストのピスティス(誠実=真実)」とするのが文法的に正しい、としている(聖書協会共同訳 2018年、前田護郞訳等)。
翻訳例:「人が義とされるの(=救われる)は律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスのまこと〔真実〕によると知って、われらもキリスト・イエスを信じました。」(ガラテア書 2:16 前田護郞訳『新約聖書』教文館、2009年、( )内は補足)
人はキリストの恩寵(贖(あがな)いの真実=絶対他力(たりき))によって神に義とされる、つまり神の絶対的恩寵が人を救うのであって、その恩寵を信じ、受け容(い)れる信仰さえも、神の恵みとして人に与えられるものである(恩寵による、無条件の絶対救済(きゅうさい)論)。
☆神学・論文012タケサト〖恩寵義認と無教会の無条件救済論〗へ
注2 信仰=キリストの恩寵を受容(信頼)すること
①「信仰による」義認
「わたしたちは、こう思う。人が義とされる(救われる)のは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(ローマ書 3:28 口語訳、( )内は補足)
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ書 10:9)
「『主の名を呼び求める者は誰でも救われる』のです」(ローマ書 10:13 〔 〕内は補足)
②宗教改革者M.ルターの信仰義認論(信仰のみ)
■「彼(宗教改革者M.ルター)の思想の中心は、救いは人間の行いによらず信仰のみによるという信仰義認(ぎにん)論である。」(『岩波 キリスト教辞典』岩波書店、2002年、「ルター」1202項より引用、( )内は補足)
■ドイツ宗教改革の指導者M.ルター(1483~1564年)は、エルフルト大学で法学を学んだが、22歳の時、旅の途中で突然、雷雨に襲われた。
ルターは、落雷による死の恐怖の経験をきっかけに、誓願を立てて修道院に入った。
「〔若き〕ルターは〔必死に修道に励んだが、〕善をなせという神の律法(りっぽう)に完全に従うことができない自分の罪深さに苦しんだ。
彼は『キリスト者の自由』の中で、人間は自分の義(ただ)しさを主張するのではなく、自分の罪を認め、その罪をもつ人間にも与えられる神の愛(義)を信じることによってのみ救われる(神に義と認められる)と説いた(信仰義認論)。
また、〔カトリック〕教会の儀式や制度を批判し、〔十字架上で〕みずからを犠牲にして人間を救ったイエス=キリストの〔贖罪の〕愛を信じる心、すなわち「信仰のみ」が救いの道であると主張した。
神の前では、すべてのキリスト者は平等であり聖職者の身分は必要ないとした(万人祭司)。
ルターは、一人ひとりが聖書に書かれた神の言葉(福音)を直接読み、心の中に純粋な信仰を持つことが大切である(聖書中心主義)と考え、聖書のドイツ語訳に打ち込んだ。
このような「信仰のみ」というルターの教えは、人々の精神を教会の制度や掟、聖職者の権威から解放し、信仰の上で個人の心を尊重する個人主義の精神的な支柱となった。」(『山川 倫理』山川出版社、2011年「ルター:信仰のみ」88、89項より引用。( )、〔 〕内の補足、下線は引用者による)
注3 霊と真実(まこと)による礼拝
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真実をもって礼拝しなければならない」(ヨハネ福音書 4:24、聖書協会共同訳)。
注4 制度教会の建前「人は、ただ信仰によってのみ救われる」
「救いの確かさは、神の確かさです。ただ信仰によってのみ義とされる(救われる)との福音の教え〔=信仰義認〕は、まさにこの神の真実の確かさによってのみ生きることであると信じます。・・」
(加藤常昭『改訂新版 雪ノ下カテキズム 鎌倉雪ノ下教会教理・信仰問答』教文館、2010年、「第2章信仰 第3節 確かな信仰 問31答」61項より抜粋。引用( )内の補足と下線は引用者による)
注5 制度教会の本意「救われるためには、信仰だけではダメ。聖礼典(洗礼、聖餐式等)にあずかることが必要」
制度教会の救済論は、信仰のほかに洗礼式、聖餐式にあずかることを救済の条件とする《条件付き救済論》である。
以下のカテキズムは、現代プロテスタント教会の典型的な洗礼、聖餐観を表わしていると考えられる。
「問19 洗礼とは何ですか。」
答 〔洗礼は、マタイ福音書28章19節b*にあるように〕主イエスの救いが私自身の現実となるために主ご自身が定めてくださった救いの道です。
これ(洗礼)によって初めて、私は真実に主の救いにあずかることができるのです。」
(同上『改訂新版 雪ノ下カテキズム』、「第2章信仰 第1節 洗礼 問19」46項より抜粋。引用( )、〔 〕内の補足と下線は引用者による)
*《宣教命令》の中の「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・なさい。」(マタイ福音書28章19節b)は、聖書学の知見によると、後世の教会による付記であって復活のイエスの言葉ではない。
無教会論入門〖無教会早わかり②〗注4へ
『改訂新版 雪ノ下カテキズム』・「聖礼典の意味を問う 問222の答え」
「〔洗礼と聖餐の聖礼典において〕水を注ぎ(洗礼)、パンを食べ、ぶどうの汁を飲む(聖餐)聖徒の交わりである教会の行為が重要な意味を持ちます。
そこ(洗礼と聖餐)で主の約束の言葉に従い、罪の赦しと聖化のみわざが起こります。」
(同上『改訂新版 雪ノ下カテキズム』、「第6部 聖餐に生きる恵みへ 第1章 喜びの食卓・聖餐 第2節 聖礼典の意味を問う 問222 答」270項より抜粋。引用( )、〔 〕内の補足と下線は引用者による)
注6 無教会史研究会編、関根正雄「無教会主義の弁証論」『無教会史Ⅲ別冊 対論-教会と無教会』新教出版社、1995年、p38。
注7 E.ブルンナー「エクレシアと福音伝道」
「福音伝道と結びつけてエクレシアを定義するとすれば、真の伝道がなされている所には―教会によってでも、無教会の伝道者によってでも、どのような方法であっても―エクレシアがあります。
また、真のエクレシアのある所、そこに福音伝道があります。これが、教会やその他の集団がエクレシアか否かを判断する一つの、しかも主要な基準です。
なぜ、福音伝道がこの基準であるかといえば、分け与えること(シェアリング)が根本的に重要だからです。
神ご自身がイエス・キリストの十字架において、ご自身の生命をわれわれに分け与えられました。分け与えることが福音のまさに中核であり、キリスト教の本質です。
もしわれわれがキリストの身体に連なるのであれば、われわれもまた仲間とわれわれの生命を分かち合わねばなりません。
〔そして、〕教会(集会)が外に出て行って〔、まだキリストを知らない人びとに〕自らの所有物を分け与えているかどうか、これが生ける教会、エクレシアの基準です。〔
エクレシアは、分かち合いの生活です。ですから、〕分かち合いがなければ、キリストの身体に連なるものとは言えません。・・
教会(集会)はそれがエクレシア、キリストの身体である度合いに応じて、つまり聖霊がその中に働くその度合いに応じて、伝道ができます。・・
その生き生きした福音伝道の事実そのものが、エクレシア、生きたキリストの身体であることを証明している教会(集会)もあることは確かです。・・」
(E.ブルンナー「エクレシアと福音伝道」『日本におけるブルンナー』新教出版社、1974年、p110~111より抜粋。( )、〔 〕内は補足、下線は引用者による)
注8 エクレシアの危機
エクレシアの各構成員が神の前に独り立ちつつ福音によって生かされることを忘れるとき、また生けるキリストを中心として交わるべきことを忘れて、直接、人間的に癒着するとき、エクレシアはキリストの体としての信仰共同体から、この世的な団体に変質する危機に直面する。
また、キリストにある愛と寛容の精神を失うとき、エクレシアはパリサイ的な独善集団また評論家集団に転落する。
注9 非連続の連続
無教会論研究会編『無教会論の軌跡』キリスト教図書出版社、1989年、p383参照。
注10 日本を愛したE.ブルンナー
1889年12月23日、スイスのチューリヒ近郊、ヴィンタートゥールにて出生。1966年4月6日、チューリヒにて死去。
エーミル・ブルンナーは、スイス出身のプロテスタント(改革派)神学者であり、カール・バルト、ルドルフ・ブルトマンと並び評される、20世紀の代表的神学者の一人。
ブルンナーの神学は、《宣教の神学》、《出会いの神学》と呼ばれる。
彼は、物の知(我(われ)-それ)と人の知(我-汝(なんじ))の間の根本的差が聖書での啓示概念の鍵をなすとした。また、彼は聖書の真理理解を「我と汝の出会い」として捉えた(《出会いとしての真理》)。
ブルンナーは二度、来日している。一回目は1949(昭和24)年9月29日~同年12月12日までで、アジア・太平洋戦争敗戦(1945年)後の荒廃した日本を訪れた。
二回目は1953(昭和28)年10月1日~1955(昭和30)年7月11日までで、ブルンナーは創立されたばかりの小さな無名の大学であるICU(国際基督(キリスト)教大学)の招聘(しょうへい)に応じ、訪日した。
彼はキリスト教の布教の不徹底が日本におけるファシズムの勃興(ぼっこう)の一因だったと考え、チューリヒ大学教授職を辞して、敗戦後の日本に赴任(ふにん)した。
ブルンナーはICUの招聘を単なる人の招きではなく、神の招きとして受けとめ、また《宣教の神学者》、《出会いの神学者》として、自らその真理を実践したのである。
伝道者・教育者・神学者、そして何よりも友としてのブルンナーは、1953年10月から2年にわたり、心血を注いで学生たちに語りかけ、戦後日本の精神的再生に尽くした。
ブルンナーは、長年追求していた新約聖書的なエクレシア(教会)が、日本において無教会運動として実在することに驚き、これを高く評価するとともに、多くの無教会人と交わり、米国での講演や著名な神学雑誌(『Evangelische Theologie(福音主義神学)』)への論文寄稿等により、無教会運動を世界に紹介した。
またブルンナーは、教会と無教会のかけ橋となることを願い、教会・無教会合同礼拝(1955年1月、5月)を催(もよお)すなどした。
『ブルンナー著作集・全8巻』(教義学Ⅰ~Ⅲを含む、教文館、1998年)、森本あんりら訳『出会いとしての真理』(教文館、2006年)、熊沢義宣訳『信仰・希望・愛』(新教出版社、1957年)等がある。
(参考文献:中沢洽樹、川田殖編『日本におけるブルンナー』新教出版社、1974年)
注11 E.ブルンナーによる無教会の評価:「日本における無教会運動」
「無教会運動が将来を持つかという問題に、われわれは心を用いる必要はない。
私自身はすでにこれが唯一の純真に日本的なものであり、輸入されたものでないキリスト教的共同体形成の形であるという理由から、その前途について疑いを抱かない。
最も少なく見つもっても、この運動は将来のプロテスタント教会の進まねばならぬ方向をはっきりと指示しているという意味において、無教会は将来性をもっているのである。
聖礼典(サクラメント)的制度としてのプロテスタント教会は、-そういうものが聖書の中にどのように根拠づけられるかという主要問題を別として-もともとカトリック教会と競争する能力を持っていない。
しかし、われわれプロテスタントが宗教改革者たちに負うところの認識、すなわち何が真の信仰であり、したがって何が真のエクレシア、〔つまり〕真の信仰共同体であるかという認識は、この聖礼典(サクラメント)的僧職制度を克服するであろう。
プロテスタント教会は、ただ信仰による真の兄弟姉妹の交わりという意味に教会制度を変革することによってのみ、さらに存続を続けることができるであろう。
この点で日本の無教会運動以上に良い例は、〔キリスト教史上〕今までひとつも示されなかった。
そのゆえに無教会運動は、日本に対してばかりでなく、全キリスト教界に対して意味を持つのである。」
( Emil Brunner 「日本における無教会運動」『Evangelische Theologie』1959年度・第4冊、矢内原忠雄・高橋三郎訳p16より抜粋。〔 〕内、および下線は引用者による)
注12 平信徒伝道
「〔ICU学生の聖書研究会主催の夏期修養会で、E.ブルンナー〕先生は、特に『平信徒伝道』ということを強調された。・・
『これからの日本の伝道で本当に必要なのは平信徒伝道者だ。伝道を牧師まかせにしないで、信徒が自分の使命として考え、自分の職場や生活の場で実行しなければならない。
牧師が〔教〕会堂で説教をし人びとをそこに連れてくるという伝道のやり方は、あまりにも限界がありすぎ、もはや昨日のものになってしまった』と言われた。」
(松永希久夫「伝道者としてのブルンナー先生」『日本におけるブルンナー』新教出版社、1974年)