イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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【6月11日】キリスト教は罪を憎むもの
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【6月12日】完全なる信仰ー楕円形の信仰
初めに、私(パウロ)は、イエス・キリストを通して、あなたがた一同について私の神に感謝します。
あなたがたの信仰が世界中に語り伝えられているからです。
私が御子(みこ)〔キリスト〕の福音を宣べ伝えながら心から仕えている神が証(あか)ししてくださることですが、私は、あなたがたのことを絶えず思い起こし、祈るときにはいつも、神の御心(みこころ)によって、あなたがたのところに行く道が開かれるようにと願っています。
あなたがたに会いたいと切に望むのは、霊の賜物(たまもの)をあなたがたに幾らかでも分け与えて、力づけたいからです。
というよりも、あなたがたのところで、お互いに持っている信仰によって、共に励まし合いたいのです。
(ローマ 1:8~12 聖書協会共同訳)
■宗教(信仰)を公的(同胞・国家、全人類と宇宙万物の救済)にのみ見る危険があると同時に、またこれを私的(個人の救い)にのみ解する危険がある。
しかしながら、宗教(信仰)は、私的に始まって公的に終わるべきものである。
完全なる信仰は円形ではない〔。その中心は、一点ではない〕。楕円形である。
〔完全なる信仰は、楕円形と同じく〕自と他との二点を中心として描かれたものである。
自己を中心としなければならない。しかし自己のみでは、足りない。他をもまた、中心としなければならない(注1)。
キリストによって救われた自己が同情的に〔他へ〕世界大に拡大して、私は初めてキリストの救いを実〔際に体〕得することができるのである(注2)。
(「ロマ書-人類の救拯(きゅうじょう)-」、『聖書之研究』1913年1月、『内村鑑三聖書注解全集 第11巻』教文館、1961年、147項の抜粋を現代語化( )、〔 〕内、下線は補足)
* * * *
注1 神が選ぶ「断食」とは
「私が選ぶ断食(だんじき)とは、
不正の束縛をほどき、軛(くびき)の横木(よこぎ)の縄(なわ)を解いて
虐(しいた)げられた人を自由の身にし、
軛の横木をことごとく折ることではないのか。
飢(う)えた人にパンを分け与え、
家がなく苦しむ人々を家に招くこと
裸(はだか)の人を見れば服を着せ
自分の肉親を助けることではないのか。
・・・
その時、あなたが呼べば主は応(こた)え、
あなたが助けを求めて叫べば
〔主は、〕「私はここにいる」と言われる」。
(イザヤ 58:6、7、9a 聖書協会共同訳)
イザヤ書のこの箇所でも、《楕円形の信仰》、すなわち信仰の重要な二つの中心ー他(公的)と自(私的)ーについて述べられている。
注2 神の心-全人類の救済(すくい)
「シオンから救う者(=救い主・キリスト)が出て、〔すべての異邦人が救われた後に、〕ヤコブから不敬虔を遠ざける〔。
こうして最終的に、全イスラエルが救われる事になる〕。
これが、彼らの罪を取り除くときに彼らと結ぶ私の契約である」と〔聖書に〕ある。(ローマ 11:26b、27、〔 〕、( )内は補足)
ユダヤ人がその罪を取り除かれて、神と和解する時は必ず来る。このようにして、全人類はその終局の救いに近づくのである。
神はこのようにして、人類を救いつつある。
ひとたび〔選民〕イスラエルを捨てて〔先に〕異邦人を救い、そうして異邦人を救って〔後、〕再びイスラエルを救う。
〔かくして、〕人類の歴史はその救いの過程として見ることができる。
国家の興亡、民族の盛衰、これ〔ら〕はみな人類の救いの過程にほかならないのである。
神は〔気まぐれにまかせて、〕ある者を恵み、他の者を呪(のろ)うのではない。〔その反対に、〕この民もあの民も、〔つまり〕万民(ばんみん)を救済しようとしておられるのである。
それゆえわれら、召されて《神の子》とされた者は、神の心をわれらの心となし、万民救済のためにわれらの身を委(ゆだ)ねるべきである。
世〔の中〕にはもちろん、国家救済、社会改良を叫んで、自己の霊魂の救いを顧(かえり)みない者がいる。
〔しかし、〕信仰はもともと、個人的〔なもの〕である。
〔信仰とは、〕神と我(われ)との〔霊的・全人的な〕関係〔のこと〕である。個人的でない信仰は、根拠なき信仰である。
私は、なんという惨(みじ)めな人間なのだろう。誰が、この死の体から、私を救ってくれるだろうか。(ローマ 7:24、口語訳)
と、パウロと共に〔心の底から〕叫んだことのない人は、神をその最も深い所において知ることのできない者である。
自己の霊魂の深き所に根拠を据(す)えていない信仰は、社会をも国家をも救うことはできない。
しかしながら、わが救いは私一人の救いによって〔達〕成〔され〕るものではない。わが救いの中に、人類全体の救いが含まれているのである。
私が完全に救われる時は、私と共に人類全体が救われる時である。人類は一体である。私はその一部分にすぎない。
神の目的は人類全体を救うことにある。神が私を救ってくださったのは、彼のこの目的(万人の救済)を達成するためである。
・・・・
ここにおいて、〔福音〕伝道の必要が起こるのである。
伝道は〔教勢拡張のための信者の〕義務ではない。わが霊魂の救済上の必要〔事〕である。
〔全〕人類の救いは神の目的である。そして、《神の子》となることを許されたわれらに〔も、〕また、父〔なる神〕のこの目的がなくてはならない。
そうでなければ、われらは〔神の〕子ではないのである。
(前掲「ロマ書-人類の救拯-」、『内村鑑三聖書注解全集 第11巻』146~147項の抜粋を現代語化)
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【6月15日】最大の奉仕ー愛し合うこと
〔私は、〕あなたがたに新しい戒(いまし)めを与える。
互いに愛し合いなさい。
私があなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
互に愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子(でし)であることを、皆(みな)が知るであろう。
(ヨハネ 13:34~35 聖書協会共同訳)
■われら〔、主イエス・キリストを慕う兄弟姉妹〕が一堂に集まり、食事を共にし、また祈りを共にする(注1~3)。
〔そのとき、〕主イエスはわれらと共にいて、昔、ご自分の弟子たちに言われたように、今またわれらに言われる(注4)。
「わたしを愛しているならば、あなた方はわが戒(いまし)めを守れ」(ヨハネ14:15)と。
これは、峻厳(しゅんげん)な律法(戒律)の命令ではない。柔和な福音の諭(さと)しである。実に、〔主イエスの〕愛の懇願(こんがん)である。
われらは今、肉〔体〕にあって主を見ることはできない。また〔直接〕、彼に仕(つか)えることはできない。
しかしながら、ご自身の言葉に従って主が愛してくださるわれらを〔、われらは〕互いに愛することができる。
われらが互いに愛するとき、〔われらは〕主を喜ばせることができる(注5、6)。
主イエスがわれらに要求される奉仕で、これより大きなものはない。
(原著『ヨハネ伝』「愛の表明」1916年12月の抜粋を現代語化)
* * * *
注1 無教会キリスト信徒の聖餐(せいさん)
まことの《命のパン》であり、神からのまことの賜物(たまもの)である主イエス・キリストは、《神の国》における喜びの祝宴にわれらを招く方である。
主イエスは、人々の日常的な営みを大切にされた。
真に聖なるものは、人間の細工(さいく)による複雑で「荘厳な」宗教儀式の中にではなく、日常の中に、また質素・単純さの内に宿る。
それゆえ、主イエスを愛する兄弟姉妹たち(エクレシア)が復活の主の御霊(みたま)をお迎えしつつ持つ共同の食事(日常の食事)は、来たるべき《神の国》の祝宴の先取りとなり、主が備えてくださる《喜びの食卓》、恵みの聖餐(せいさん)となる。
また、共同の食事がなくとも、「共に聖書を学び、共に祈り、共に手を取り肩を組んで、イエスが私におり、私がイエスにおり、またイエスにおることによって我々が一つになるという信仰〔の生〕を新たにすれば、それで立派な聖餐」である(矢内原忠雄「無教会早わかり」『嘉信』第10巻第4号、1947年、〔 〕内は補足)。
注2 聖餐をめぐる聖書学的・キリスト教歴史学的知見
初代教会では、愛餐(アガペー:共同の食事)に続けて、愛餐の中で聖餐が行われた。
すなわち聖餐は、普通の食事すなわち愛餐の枠組みの中で、同時に同じ場所で行われており、本来、両者は切り離すことはできないものだった(コリントⅠ11:17~22参照)。
聖餐が愛餐から分離し、サクラメントの一つ(聖礼典としての聖餐式)に変貌(へんぼう)を遂げたのは、4世紀以後の教父時代のことである。
(荒井献著「洗礼と聖餐-その聖書的根拠をめぐって」『戒規か対話か』新教出版社、2016年、92項。( )内は補足、下線は引用者による)
注3 イエスの《開かれた食卓》
イエスは、《地の民》として軽蔑され差別されていた罪人や徴税人たちをありのまま、無条件でご自身の食卓に招かれた。
今も、イエスは、われらを招いておられる。
「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。
そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。
多くの徴税人や罪人(つみびと)もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。
ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。
イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』」。(マルコ福音書 2:13~17)
神学・論文012タケサト〖恩寵義認と無教会の無条件救済論〗へ
注4 主イエス、新しい戒めを語る
【イエスの最後の晩餐】(You Raise me Up):クリックして、YouTubeへ
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①上記の紫字曲名を右クリックし、
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イエスの言葉(英語字幕の日本語訳)
最後の晩餐:
①You are my friends.
There is no greater love than for a man to lay down his life for his friends.
あなた方はわたしの友である。
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛は無い(ヨハネ福音書 15章参照)。
②I am the good shepherd.
I lay down my life for my sheep. No one takes my life from me ,but I lay it down of my own accord. I have power to lay it down ,and power to take it up again.
This command is from my Father.
わたしは良い羊飼いである。
わたしは羊のために命を捨てる。誰もわたしから命を奪い取ることはできない。
しかし、わたしは自分でそれを捨てる。わたしはそれを捨てる力があり、またそれを再び受ける力もある。
この命令をわたしは父から受けたのである(ヨハネ福音書 10章参照)。
山上の垂訓:
③You have heard it said you shall love your neighbor and hate your enemy.
But I say to you love your enemies and pray for those who persecute you. For if you love only those who love you,what reward is there in that ?
あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。
自分を愛してくれる人だけを愛したところで、何の報いがあろうか(取税人でさえも、それくらいはするではないか。マタイ 5章参照)。
最後の晩餐:
④I cannot be with you much longer, my friends. You cannot go where I am going.
My commandment to you after I am gone is this.
Love one another. As I have loved you,so love one another.
わが友よ、わたしはもう長くはあなた方と共にいることはできない。わたしが行く所にあなたがたは来ることはできない。
わたしが去った後にあなた方に残していくわたしの戒めは、これである。
互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネ福音書 14章参照)。
⑤You believe in me.
You know that I am the Way,the Truth,and the Life.
And no one comes to the Father but by me.
あなたがたはわたしを信じている(信頼している)。
わたしは道であり、真理であり、いのちであることをあなたがたは知っている。
わたしによらないでは、誰も父のもとに行くことはできない(ヨハネ福音書 14章参照)。
注5 他者の重荷を担う
聖書の言う「愛すること」と表裏一体の関係にある「他者の重荷を担(にな)うこと」は、D.ボンヘッファーによれば、自らの信仰の歩みの中で学びゆく(=修練する)ものである。
「他者の重荷を担うということは、他者もまた神によって創造された人間であるという現実を耐え忍ぶことであり、これを肯定し、これを甘んじて受けることによって、その現実を喜ぶところまで高めていくのである。」
(小池創造訳『信じつつ祈りつつ ボンヘッファー短章366日』新教出版社、1997年、59項)
注6 キリストにある生=《他者のための存在》
「イエス・キリストを信じないかぎり、われわれは、われわれ自身の主〔人〕であり、したがっていつまでも〔互いに自己を主張して、〕一致することができません。
おのおのは自分の思いどおりに自分の生を営み、互いに皆、他に対して競争者となります。
しかしイエスが人間を捕らえられるところでは、この自己支配は消え去ります。そこでは、それに代わって〔主イエスへの〕服従と〔主にある兄弟との〕結合が生じます。
それゆえ、信仰と共にただちに交わりが与えられるのです。
孤独なキリスト者というのはありえません。
キリスト者になるということは、まさに、われわれが孤立した、自己のための人間であることをやめることです。
キリストがわれわれの生の中に入ってこられるところでは、自己のための存在は終わります。
今や、自己のための存在の代わりに、兄弟の結合が生じ、その結合の中で、われわれは他者のための存在となります。」
(E.ブルンナー「聖餐の意義」、『ブルンナー著作集 第7巻 フラウミュンスター説教集Ⅰ』教文館、1996年、141~142項、〔 〕内、下線は補足)
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