イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2024年12月7日
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<信仰と人生
信仰に生きる 017
2018年8月31日改訂
矢内原忠雄
〖失敗の幸福〗
われわれの失敗には、二つの種類がある。
一つはわれわれが世〔の悪〕と戦い、われわれが正しいがゆえに世から受ける打撃〔による「失敗」〕である。それは、藤井武(たけし)が《敗北の勝利》と言った意味での失敗である。
これは〔、われわれにとって〕名誉の敗北である。それは藤井の言うとおり、その人の真実性の証明にほかならないのである。
しかしこの外(ほか)に、われわれが自己の不真実から招く失敗がある。
それは、われらが〔神と人間の間の離間者(りかんしゃ)・〕悪魔(サタン)の誘惑に敗れた結果の失敗であって、少しもわれわれの名誉にならない事柄である。
いかに度々(たびたび)われわれは、この種の敗北を悪魔から喫(きっ)する〔こと〕だろうか。
この意味においても、われわれの生涯は失敗の連続であると言えるのである。
ときに悪魔は正面から、われらを脅(おびや)かす。〔また〕ときには、密(ひそ)かにわれらの心を油断させて、その〔心の〕隙間(すきま)から忍び入り、大事(だいじ)を引き起す。
わずかな心の隙から悪魔が侵入して、〔魔が差すように〕思わぬ罪をわれらに犯させ、思わぬ失敗をわれらに経験させる。
その苦汁(くじゅう)をなめたことのない人は、ほとんど〔い〕ないだろう。
これは、われらにとって恥ずかしい経験であって、神の前にも人の前にも〔決して〕顔向けできない事柄である。
しかしこの失敗によって、われらは自分がいつの間にか神から離れていた距離を自覚し、自己の罪を神の前に悔い改める。
いつのまにか〔神を忘れ、この世に心を奪われて〕世を愛しかけていた精神、いつのまにか〔この世の〕安逸(あんいつ)を求めていた心に〔神の厳しい〕鉄槌(てっつい)が加えられ〔、打ち砕かれ〕て、〔われらは慄然(りつぜん)として目覚(めざ)める。
そして〕、われらは神の前に謙遜(けんそん)となり、ふたたび神に結びつけられる。
われわれが罪による失敗の後(のち)、こうして神の前に謙遜になり、罪の赦しを神に求めるとき、神はイエス・キリストの十字架によって直(ただち)にわれらの罪を赦し、ふたたび聖霊(せいれい、注1)を注いでくださり、救いの道を示してくださる。
われらの失敗によって招いた事態を、神自らの手によって収拾(しゅうしゅう)してくださり(注2)、以前に勝(まさ)る善(よ)き状況にわれらを置いてくださるのである。
〔こうして〕神は、われらの失敗を幸福に転じてくださるのである。
そのことを〔旧約の〕詩篇作者は歌って、「あなた(神ヤハヴェ)には赦しがあるので、人に畏(おそ)れかしこまれるでしょう」と言い〔詩編 130:4 口語訳〕、使徒パウロは、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召(め)された者たちには、万事(ばんじ)が益(えき)となるように共に働く」と説(と)いたのである〔ローマ書 8:28 新共同訳〕。
〔自己の〕罪による失敗は、決して、ほめたことではない。しかしそれさえ〔も〕神は、祝福に転化してくださるのである。
罪を犯して恥を招いた人は〔罪を悔い改め、〕キリストの十字架を仰(あお)いで罪を赦され、それによって聖霊を注がれて、傷を癒(い)やされ、恩恵を加えられる。
この意味において失敗は〔、実は〕幸福である。われらに失敗がなければ、罪の赦しの幸福を味わい知ることはないだろう。
〔もちろん、自ら〕進んで罪を犯すべきではない〔。神を侮(あなど)り、試(ため)してはならない〕。
しかし悪魔に足をさらわれて罪を犯した者は、決して絶望してはならない。
〔かつて出エジプトのとき、荒野の〕マラ〔の地〕の苦(にが)い水が、モーセの投げ入れた木によって甘くな〔り、イスラエルの民の喉(のど)が潤(うるお)〕ったように〔出エジプト 15:22~25〕、人間の失敗はキリストの十字架を仰ぐことによって幸福に転換されるのである。
〔それゆえ来(き)たれ、失敗に悲しむ友よ。キリストの十字架の下(もと)に!〕
♢ ♢ ♢ ♢
(『嘉信』第13巻・第10号、1950〔昭和25〕年10月を現代語化。( )、〔 〕内は補足、下線は引用者による)
注1 聖霊(せいれい)
「しかし「わが足すべりぬ」と言ったとき、
〔神〕ヤハヴェよ、あなたの愛はわたしを支えた。」(詩篇 94:18 関根正雄訳)
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