イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2024年12月7日
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* * * *
〔 4 〕
〔4-①〕
無教会主義というものは、エクレシア(神の教会)を兄弟姉妹の愛の共同体であると考え、そしてこの〔霊的・人格的〕共同体〔つまり、キリストの体〕に連なるためには、洗礼という形式(儀礼)も必要でなく、また、その交りを養っていくために聖餐という形式も必要ない。
天の神様を父と仰ぎ、キリストを長子と仰(あお)ぎ、キリストに結ばれた者が兄弟姉妹として〔愛において〕一つに結ばれる。これがすなわち〔兄弟姉妹の交わり(コイノニア)としての〕神の国〔であり、エクレシア〕である〔。
それ以外のものは、すべて、第二義的なものである。あってもよし、無くても全く差しつかえない〕。
そう信ずるもの〔が、無教会主義〕であるのです。
〔4-②〕
なぜこれを〔あえて〕無教会主義と呼ぶかというと、今日の教会は制度化して〔制度的組織体となっており、エクレシア本来の姿と大きく異なって〕いる〔からです〕。
〔制度教会の主張は、次の通りである。つまり、
1.人が〕一定の制度を持つ教会(制度教会)に連ならなければ、〔その人を〕キリスト者と〔は〕認めない。
2.そして、その制度教会に連なるためには〔、つまり教会員となるためには〕、〔教団が認定した〕特定の資格のある人、すなわち按手礼(注1)を受けた教会の牧師(僧職)から、洗礼という儀式を授けられなければならない。
3.そして教会に入会した後は、〔教会員は〕聖餐という儀式を守らなければ信仰を養っていけない。
―このように主張するのが〔制度〕教会なのです。
〔4-③〕
これに対して、〔無教会は次のように主張します。つまり、〕
1.人がキリスト者となるのは〔、形式的な〕制度〔や儀式上の手続き〕のことではなく、〔あくまでも、神・キリストとわたしとの間の〕信仰のこと〔がら〕である。
2.〔洗礼の有無に関係なく、〕キリストを信ずれば〔つまり、信仰によってキリストと連なるならば〕、それによって人は〔現に、〕キリスト者である。
3.そして互いに信仰を表白して、兄弟姉妹として〔愛の〕生活〔を〕するもの(信仰共同体)がエクレシアである、と主張するのが無教会なのです。
無教会にも、集まりはある。
すなわち〔信仰の〕兄弟姉妹が集りまして、〔キリストを聖霊としてお迎えしつつ、聖書のみ言葉に聴き、〕共に〔神を〕讃美し、共に祈る。
無教会の中にも、〔信仰の〕先生もあり生徒もいる。兄もあれば弟もいる〔。姉もあれば妹もいる〕。無教会は、決して孤立主義者ではありません。
ただ、無教会は固定〔化〕した制度〔つまり、特定の儀礼や信条(信仰告白)、規則、組織、教派本部〕を持ちませんから、「無教会という〔党派や〕教会」を建てているのではありません。
無教会にも、慣習的に決まった集会の方式があります。
しかしそれは、人がキリスト者としてエクレシアに連なる〔ための必要〕条件としての制度ではありません〔。必要に応じて、神の導きにより集会の方式を変えても、一向に差しつかえないのです〕。
〔既成宗教としての〕制度教会では、伝統的に決まった制度〔・信条・儀式・組織にこだわり、これら〕を維持することが〔死活的な〕大問題なのですが、無教会にはその〔ような〕苦労も拘束(こうそく)もありません。
無教会を支配する生活原理は、霊による信仰の自由であります。
〔4-④〕
無教会は、制度教会そのものを否定するものではありません〔。また、教会否定を事(こと)とするチッポケなものでもありません〕。
善き良心をもって洗礼を受け、教会員となる者はそれでよい。善き良心をもって教会にとどまる者は、それでよろしい。強いて教会を出る必要はありません。
ただ、人は制度教会に連ならなくても、〔神・キリストと直接、連なることにより〕キリスト者であり得る。そのことだけは、ハッキリさせておかなくてはなりません。
そして論より証拠、無教会〔の信徒〕でもキリスト者であり得ることは、我が国では、すでに確かな事実によって認められつつあるのであります。
〔4-⑤〕
最後に一つだけ申しておきますが、〔太平洋戦争〕終戦後、多くのアメリカ人が来まして、日本の宗教のことも色々調べている。
それで、私などの書いたものも目に触れると見えまして、いろんな意味で無教会というものが彼らの注意を惹いている様子でありますが、彼らが一様に疑問とするところは、なぜ無教会は組織を作らないかということであります。
〔先の〕戦争中に〔非戦・〕平和の立場をはっきり取〔り、信仰の戦いを戦〕った者は、無教会の人々の中に一番多かったようであります(注2、注3)。
そういう点で彼らは無教会に興味を感じているのでありますが、なぜ無教会は組織をもたないか。組織を持てばもっと有効に活動できるのに、と彼らは言うのであります。
これは中々、大きな問題でありますが、私の意見と致しましては、無教会は組織化されたならば、それで終る。
無教会〔のキリスト教は、組織でもなければ、儀式でもない。むしろ、無教会〕は〔生けるキリストと共にある〕生命〔の発露〕であるから、制度的に組織〔化し、化石化〕されるべきではない。
色々のことが今後あろうかと思いますけれども、私自身はその点をはっきりと守っていきたい。そうしなければ内村鑑三先生に対して合わせる顔がないと、ひそかに自分で決心致しました。
〔おわり〕
♢ ♢ ♢ ♢
(矢内原忠雄 1947〔昭和22〕年3月30日内村鑑三記念講演(今井館)「無教会早わかり」、『嘉信』第10巻第4号1947年4月収載、矢内原忠雄著『内村鑑三とともに』矢内原勝編集、東京大学出版会、1962年収載。一部表現を現代語化。( )、〔 〕内は補足。下線は引用者による)
注1 按手礼(あんしゅれい)
按手とは、人または物の上に手を置くか差し伸べるかして、聖霊の働きや祝福を伝達、授与するとされる行為。
按手は、特に聖霊の働きを求める象徴的行為として初代教会に受け継がれ、特に職位の授与の際に用いられる。
プロテスタント教会では、教団が教師(正教師)の資格を与える儀式を、とくに按手礼と呼ぶ。按手礼を受けた教師だけが、牧師(聖職者)になれる。〔そして按手礼を受けた正教師だけが、洗礼を授ける資格を持つ。〕聖公会では、〔按手礼を〕聖職按手式と呼ぶ。
(参考文献:『岩波 キリスト教辞典』岩波書店、2002年。『世界大百科事典 第2版』平凡社、2006年)
注2 非戦・平和とキリスト教:太平洋戦争と無教会、日本基督教団
①キリスト教平和思想、無教会の平和主義について
神学・論文004 カルロ・カルダローラ〖無教会の平和主義〗へ
神学・論文003 芦名定道〖キリスト教平和思想と矢内原忠雄〗へ
②日本基督(キリスト)教団の成立と制度教会
太平洋戦争遂行の必要から、大日本帝国政府は宗教団体の統合と戦争への協力をキリスト教界に求めた。
その結果、1941(昭和16)年末に成立したのが、プロテスタント33派の教派的合同としての「日本基督教団」であった。
日本基督教団は、その「教団規則」に「皇国(こうこく)の道に従いて信仰に徹し、各その分を尽くして、皇運を扶翼(ふよく)し奉(たてまつ)るべし」という規定(第7条)を定めた。
これは、真っ先に来るべき「唯一、真(まこと)の神に従う」ことの上位に、「現人神(あらひとがみ)天皇の統治する国家の道に従う」ことを置き、教団自ら、天皇制国家の一機関となることを定めたものである。
教団の富田満統理は、太平洋戦争を「聖戦」と呼び、教団がその勝利のために邁進(まいしん)することを宣言した。このように教団は、自らが「高度防衛国家建設のための」「新体制の一翼」を担うものであることを表明したのである。
その具体的な表れとして、1942(昭和17)年、富田は、日本基督教団を代表して「皇国の道に従い」伊勢神宮に参拝し、天照大御神(アマテラスオオミカミ)に教団の発展を「祈願」した(十戒の第一戒への背反!)。
また教団は、富田満統理の名をもって、「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰(しょかん)」(1944年・復活節)を中国、朝鮮、台湾などのアジアの諸教会へ向けて送った。
この書翰の中で、教団は太平洋戦争を「聖戦」と規定して、日本占領下にある各国のキリスト者たちを、神の名によって、対英米戦争に協力させようとした。
また、書翰は、占領下のキリスト者たちに対し、「全世界をまことに指導し救済しうるものは、世界に冠絶(かんぜつ)せる万邦(ばんぽう)無比なるわが日本の国体である・・」として、世界に冠たる国体(こくたい、現人神天皇が統治する体制)に信頼し、大東亜共栄圏的キリスト教の盟主である日本基督教団に統合されよ、と勧告している。
この『書翰』は、日本基督教団の対外戦争責任を明白に示すものである。
なお、この書翰は、日本基督教団の全教会に向けて懸賞募集した書翰文の中から、審査委員会が厳選した入選原稿をもとに作られた。
そして、この書翰は、審査報告を行った神学者熊野義孝氏(在京教学委員、特別委員)によって資格づけられ、権威づけられていたのである(武田武長『世のために存在する教会』、20~21項)。
教団の各教会には神棚が設けられ、宮城(皇居)遙拝によって礼拝が始められた。また礼拝中に天皇を讃美する讃美歌(興亜讃美歌)が歌われた。
さらに教団は、信徒の総力を結集して、軍用機を軍に奉納(ほうのう)した。
戦時中の日本基督教団の誤った歩みは、制度教会の限界を如実に物語っているのではないだろうか。→書評〖闇の勢力に抗して〗書評②の注1へ
制度教会は、他の諸宗教と同様の社会経済的な基盤(下部構造=土台)の上に建てられた法制度的組織体として存在している。
それゆえ、制度教会は直接、国家的統制下に立たざるを得ないのであって、神に信従することよりも自らの組織を温存することを優先して、神のために捨て身になれないという本質的限界を抱(かか)えている。
制度教会では、個人の意見としてはいかに戦争に反対であっても、これを公(おおやけ)に明言すれば、教会組織全体の存立が危うくされる。教会組織の存立が危うくなることは即、キリスト教そのものの存続が危機に立たされることであると考え、国家的統制に屈服してしまうのである。
実際、欧米の教会的キリスト教は、20世紀の2度の世界大戦を阻止する力すら持たず、むしろ各国の戦争遂行に協力せざるを得なかった。あるいは、積極的に戦争を主導しさえした。
従来の制度教会(のキリスト教)は大体において、すでに試験済みである。
しかし、キリスト教が真に神によって立てられた真理であるならば、組織としての教会はつぶされても、真のキリスト教は大丈夫である。何らかの形で、力強く存続するに違いない。
真のキリスト教は神の力であり、人の組織や人の力に依(よ)るものではない。無教会は、神の真理にふさわしいキリスト教の形を追求する。
(注2の参考文献:新教コイノニア32 『キリストが主だから』新教出版社、2016年。宮田光雄『権威と服従』新教出版社、2003年。武田武長『世のために存在する教会』新教出版社、1995年。関根正雄「無教会キリスト教」『関根正雄著作集』第2巻、新地書房、1981年)
注3 宗教界の歴史認識~戦争責任表明とその後(年表付き)
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