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番紅花(サフラン)

* * * *

詩編84篇は、遠い異邦(いほう)の地からエルサレムへ宮詣(みやもうで)する巡礼(じゅんれい)の歌である。


神殿を(した)う旧約詩人の詩(1~8節)に、《神の国》を目指して地上を旅するキリスト者のこころを学びたい。

 

詩篇84篇 1~8節

1節

聖歌隊の指揮者に、ギッティト式に、コラハの子の歌。

2節

あなたのみ住居(すまい)は如何(いか)に愛すべきかな、
 万軍
〔神〕ヤハヴェよ、

 

3節

わが魂はヤハヴェの前庭(まえにわ)を慕
 
(た)え入るばかり、

 わが心と身とは
   生ける神に向かって喜び呼ばう。

 

4節

あなたの祭壇のそばに雀(すずめ)も住処(すみか)を見つけ、
 つばめもそのひなを入れる巣を見出した、
万軍のヤハヴェよ、わが王わが神よ。

 

5節

あなたの家に住む人に幸(さち)あれ、

 彼らはいつもあなたをほめ讃える。

 

6節

その避け所(どころ)があなたのもとにある人に幸あれ、
その心には信頼がみちる。

 

7節

彼らはバカの谷を通っても
そこを泉ある所とし、

 前の雨は祝福をもってそこをおおう。


8節

彼らは力より力へと進み、
シオンにおいて神にまみえる。

(関根正雄訳)

藤井(注1)は、主著『詩篇研究』において、詩篇84篇を「来世(らいせ)憧憬(しょうけい)」と題して講じ、エルサレム神殿を慕うこの詩から「来世(神の国)を慕う心」を聴き取っている。

 

(1)あなたの家に住む人に幸あれ(2~5節)
  

2節

あなたのみ住居は如何に愛すべきかな、
万軍の
〔神〕ヤハヴェよ、


3節

わが魂はヤハヴェの前庭(まえにわ)を慕い、
   絶
(た)え入るばかり、

 わが心と身とは
生ける神に向かって喜び呼ばう。

 

あなたのみ住居(すまい)」とはエルサレム神殿(壮麗なソロモン神殿)、「前庭」とは神殿の中の一般信徒の礼拝の場所を指す。


神を慕う心は同時に、神殿を、そして神殿の前庭を慕う心である。巡礼の詩人は、そこに住む神に向かって喜び叫ぶ。

あなたのみ住居は如何に愛すべきかな!」と。


そして、「わが心と身とは」、「絶え入るばかり」に、つまり、青ざめてやつれるばかりに前庭を慕い、「生ける神に向かって喜び呼ばう」と彼は歌う。

 

4節

なたの祭壇のそばに雀(すずめ)も住処(すみか)を見つけ、
     つばめもそのひなを入れる巣を見出した、
  万軍のヤハヴェよ、わが王わが神よ。

 

〕ヤハヴェのみ住居を慕う詩人は、神殿に巣を作る小鳥さえも、羨(うらや)ましく思う。

小鳥たちは、わが王わが神である、万軍のヤハヴェの祭壇のそばに巣をかまえ、雛(ひな)を育て、神の家を自分の家として住まうからである。

 

詩人にとり、神殿は心の故郷である。

 

5節

あなたの家に住む人に幸あれ、
  彼らはいつもあなたをほめ讃える。

 

詩人は、「あなたの家に住む人」つまり、神殿に住む祭司(さいし)たちへの憧(あこが)れを述べる。


(さいわ)なのは、常に神の家に住む人たち(祭司ら)である。彼らはそこで、たえず神を讃美することを許されているからである。


旧約の詩人は、エルサレムの神殿を憧(あこが)れ、慕う。しかし、新約の時代に生きるわれらキリスト者は、来世(神の国)を憧れ、慕う

 

キリスト者が来世を憧れ慕うのは、決して、もの暗(ぐら)い厭世(えんせい)的な思いからではない。

 

実に、神の国を慕う心は、生ける神、キリストへの愛によるのである。


藤井は言う。

(まこと)に、来世の希望は愛に始まる。愛は神秘である、永遠である。

・・もし我々が、真実にキリストを愛するならば、われらは一日〔たりと〕も天の国を思わずには生きることが出来ないはずである。・・」と。


キリストは、わが愛する贖(あがな)い主、わが喜び、わが希望、わが生命(いのち)。そして、キリストは今、天の国におられる。

それゆえにこそ、われらは、キリストのおられる天の国を慕う。


使徒パウロは、言った。

私の願いは、世を去ってキリストと共にいることである。この方が遙(はる)かに望ましい」(フィリピ書1章23節)

私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを私たちは待っています」(フィリピ書3章20節)と。

 

まことに、パウロの魂は絶え入(い)るばかりに天の国を慕い、彼の心と身とは、生けるキリストに向かって、喜び呼ばわった。

彼が天の国(神の国)を慕ったのは、新婦が新郎を思うように、キリストを愛したからである。

 

(2)巡礼の途上(とじょう)にある者の幸い(6~8節)
6節

その避け所があなたのもとにある人に幸あれ、
その心には信頼がみちる。

 

確かに、ヤハヴェの家(神殿)に住み、讃美に生きる者は幸いである。


しかし、(さいわ)いなのは彼らだけではない。

いまだ巡礼の旅路(たびじ)(なか)ばにあっても、神を「避け所」とし、神の家を望み、その心が神の都(みやこ)シオンにある者、すなわち神への信頼と希望に生きる者も同様に、幸いである。



7節

らはバカの谷を通っても
そこを泉ある所とし、
  前の雨は祝福をもってそこをおおう。

 

乾燥の谷に茂るバカの木と、干(ひ)からびた砂漠のような谷。エルサレムへの旅路にも、このような谷があった。

 

バカの谷」は、涙の谷であり、苦難と歎(なげ)きの谷である。そこは、普通の旅人(たびびと)には耐えがたく、悩ましく、危険な場所であった。


しかし、神の住居を目指す巡礼者は、このようなところを「泉ある所」に変えつつ、前進する。

あたかも、夏の日照(ひで)りの後の《前の雨》(10~11月)が、荒れ地を一面の緑野(りょくや)に変えるように。

 

8節

彼らは力より力へと進み、
  シオンにおいて神にまみえる。

 

多くの旅人が疲労から疲労へと落ち込んでいく中で、希望の巡礼者は、「力から力へと進む」。

なぜなら、彼らの心に神の霊(聖霊)が宿(やど)り、彼らは、神の御翼(みつばさ)によって守られ、支えられるからである。


彼らは、旅路が終わりに近づけば近づくほど、新しい力が増し加えられる。

まことに、「神を待ち望む者は新たな力を得、(ワシ)のように翼(つばさ)を張って昇る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書40章31節)と書かれているとおりである。

 

そして巡礼者は、ついに、目指す神の都シオンにたどり着き、神にまみえて、彼らの歓喜は頂点に達する(注2)
 

神殿を目指す巡礼者の心は、まさに、《神の国》を目指して地上を旅するキリスト者の心そのものである。



(3)その心、シオンの大路にある者は幸いなり


藤井は、6~9節を「その心、シオンの大路(おおじ)にある者は幸いなり」と題して、感銘深く語っている。

藤井の言葉に少しく耳を傾けて、詩篇84篇の学びを終えたい。


*     *       *


この一段〔詩篇84篇6~9節〕は、来世(らいせ)の希望に生きるキリスト者の経験を表して、いかに切実かつ美(うる)わしいことか。

おそらく、聖書中、もっとも美わしい本文の一つであろう。


彼らはバカの谷を通っても、そこを多くの泉ある所とする」という。

希望の子〔とされた者〕で、この奇蹟(きせき)を経験しない者が誰かいるだろうか。


かつて私も、一つの大(おお)いなるバカの谷に臨(のぞ)んだ。

そこは(まこと)に焼けた砂の地、火と硫黄(いおう)の坑(あな)を思わせる禍(わざわい)の谷であった。

私は愕然(がくぜん)として恐れ戦(おのの)き、立ちすくんだ。

(しば)し、荒野のペリカン、廃墟(はいきょ)のフクロウのように惨(いた)ましく悲哀(ひあい)の声を挙(あ)げた。


しかし、まもなく目を挙げて私は見た。シオンの大路(おおじ)を私は想(おも)い起こした。天の国をひたすら〔仰ぎ〕望み続けた

 

その時、見よ、奇(く)しくも焼けた砂は池となり、潤(うるお)いなき地は水の源(みなもと)と変わったのである。

荒野はたのしみ、砂漠はよろこんで番紅花(サフランのごとくに咲き出(い)でたのである(注3)

 

真実の意味における私の生活は、実に、このバカの谷から始まったのであった。


この大いなるバカの谷は、今もなお私に続いている。

おそらく、それは私の〔この世の〕巡礼が終わるまで尽き〔ることは〕ないであろう。

 

しかしながら私は恐れない。

なぜなら、〔神の恵みによって〕新たに湧(わ)き出る泉もまた無限であるばかりでなく、ついにシオンにいたって彼〔、主〕にまみえる日のますます近いことを思えば、私は「力より力へ進む」からである。


今や往年(おうねん)の学友たちが漸(ようや)く人生に倦(う)み疲れつつあるのを見る。

これに反して私自身は、年とともに高き希望を加えられつつある。いよいよ大(おお)いなる夢を私は見つつある。

 

今よりのち、私は鷲(ワシ)のように翼(つばさ)を張って昇(のぼ)るであろう。

 

私が〕世を去る日が来たら、おそらく雀躍(こおど)りしながら去るであろう。

 

それゆえ、わが〕友よ、私が〔天に〕召(め)されたと聞くとき、どうか、私のために悲しまないでほしい。

歌いつつシオンの城門の中に姿を没(ぼっ)しゆく巡礼者を見送るような、晴れやかな歓呼(かんこ)もって私を送ってほしい。

(『旧約と新約』第75号、1926年9月。一部表現を現代語に変更し、引用。( )、〔 〕内、下線は補足)

 

♢ ♢ ♢ ♢

 

注1 藤井武(ふじい たけし)

評伝001【藤井武】

 

注2 神の国

聖書に学ぶ002

矢内原忠雄【ヨハネ黙示録研究の一節】

 

注3 紅花(サフラン:英 saffron crocus)

口絵写真参照。

サフランは地中海東部・西アジアに自生するアヤメ科サフラン属の耐寒性球根多年草で、別名「薬用サフラン」、「番紅花(ばんこうか)」と呼ばれる。

 

(10月から11月)に、美しい薄紫色の花を咲かせる。

草丈は15~20cmで、1つの株に最大で4つの花(花茎5~6cm)を付ける。

 

サフラン」という名前は、アラビア語の「ザアファラーン」に由来するともいわれる。

 

開花後の赤い雌しべを摘み取って乾燥させ、水に溶かすと鮮やかな黄色に発色するため、様々な料理の色付けに重宝される。また乾燥させた雌しべは、高価なスパイスとしても利用される。
 

参考文献:

藤井武全集 第4巻』「詩篇研究」岩波書店、1971年

『ATD旧約聖書注解13 詩篇 42-89篇』(A.ヴァイザー著、塩谷 饒訳)ATD・NTD聖書注解刊行会、1985年

『旧約聖書』(関根正雄訳)教文館、1997年

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