イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
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最終更新日:2024年12月7日
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§ § § §
書評④
内坂晃著『闇の勢力に抗して』
秋永好晴(編集同人)
1
〔1-①〕
第二次世界大戦後、71年を経た現在、日本の政治、及び社会の右傾化は加速度的に深刻さを増している。
特に2012年12月に第二次安倍内閣が発足して以来、特定秘密保護法、集団的自衛権を認めた安保関連法案(戦争法案)等が可決されるなど、憲法の柱である基本的人権や平和主義、国民主権、さらには憲法の基盤である立憲(りっけん)主義(注1)を崩していく動きが加速しており、〔2016年〕6月の参院選挙後は改憲勢力が衆参共に3分の2を占めることとなり、憲法改悪の動きも現実のものとなって来た。
そのような民主主義の危機的状況にある今、キリスト者として、また、教会〔エクレシア〕として、何を問題とするのか、また、どこが問題なのか、また、なぜ、信仰の課題とするのか、など、聖書と信仰に基づいて公に発言する責任が神とこの世に〔対して〕問われている。
〔1-②〕
今年〔2016年〕の2月に発行された『闇の勢力に抗して』は、そのような問いに対して全身全霊で応えたものである。
「時の徴(しるし)」の同人でもある著者は、これまでもこの世の問題の一つ一つを、牧師として、また、キリスト者として、信仰の問題として深刻に受け止め、また、深く考察し、公表・発言して来られた。
この書に収められているのは、2006年から2015年までに公にされた「教会と国家学会」での発題や同会の会報に記(しる)された論考、また、教会・伝道所や無教会の集会で語られた説教や聖書講話など32の文章である。
〔1-③〕
この書を読んでまず驚かされるのは、取り上げられている領域の広さである。
政治はもちろん、憲法、外交、歴史、教育、経済、原発、環境問題、靖国問題、天皇制など多岐にわたる問題が取り上げられている。
しかも、その論考は、通り一遍の広く浅くというものではなく、実に執拗(しつよう)なまで深く掘り下げられ、実に真摯に問題の所在を解明しようとされていることが強く感じ取れる。
例えば、「南京(なんきん)虐殺70周年」という主日(しゅじつ)礼拝で語られた説教では、南京事件の経過や何故、事件が起きたのかなどが克明に書かれ、最終的には残虐行為を行った日本軍兵士の心底に「中国人への蔑視(べっし)感情」があったこと、そして、それと表裏一体となっていたのが天皇神格化・天皇制であったことが解明されていく。
さらに、〔現人神(あらひとがみ)天皇にひれ伏すことを要求する〕天皇制は偶像崇拝であり、その宗教的熱狂の前に思考が停止し、人間的な感情は麻痺し、差別や残虐非道な行為が生み出されていったことを指摘しておられる。
〔1-④〕
また、「9月30日の説教から」では、尖閣(せんかく)諸島の領有権をめぐる日中の争いが取り上げられているが、そこではまず、外務省のホームページに掲載されている文章が取り上げられ、なぜ1895年1月に閣議決定で日本の領土にしたのかが問われる。
そして、それが日清戦争で日本の勝利が確実となった時であることが指摘され、中国が「日本が日清(にっしん)戦争にからめて盗み取った」と主張するのに根拠のないことではないこと、また、「『尖閣諸島は日本古来の領土である』という前提には根拠がない」(孫崎亨)ことを明らかにされる。
そして、専門家を含む発言に共通して、決定的に欠落しているものとして、「かつての日本の侵略に対する日本人の側のあまりの無知と罪責感のなさ」が指摘される。
〔1-⑤〕
また、自民党憲法改正案に関しての二つの発題が掲載されているが、そこに明記されている天皇の元首化、国旗・国歌の尊重、「日本国は、国民統合の象徴である天皇を戴(いただ)く国家」であるとする前文、国防軍の保持(「あとがき」においては「緊急事態条項」も)などが取り上げられ、それらに伴う問題、人権と自由が天皇制の枠内でのものとなること、権力による教育・学問への一層の介入、特に歴史の改ざんの問題、軍需産業の拡大などの問題を指摘しておられる。
特に天皇制の強化を「事実上の天皇の偶像(ぐうぞう)化(批判を許さない存在)」として警鐘を鳴らし、キリスト者・教会の戦いは「偽(いつわ)りの霊との戦い」であると明示しておられる。
2
〔2-①〕
しかし、それらの論考の基礎・土台・根拠となっているのは、言うまでもなく神信仰・キリスト信仰である。では、著者の聖書の神への理解と信仰はいかなるものか。
それは、第一に、歴史の中に働かれる神、出(しゅつ)エジプトという歴史的事件を引き起こされる神であり、また、大国エジプトをも御手(みて)の内に支配していたもう神であり、抑圧された奴隷の民にも目を留め、解放される神である。
〔2-②〕
第二に、そのような神は正義と公正を望まれる神でもある。
それは、元々奴隷の民であったイスラエルの民をただ神の憐(あわ)れみによって救い出されたことの自覚が生み出したものであるだけに、抑圧された者を配慮し、抑圧された者が少ない社会を作りだそうとする根拠となる。
〔2-③〕
第三に、聖なる神・超越した神であり、人が〔ご自身を〕私有化することを厳然と拒否したもう神である。
そこから、神は神であり、人間はどこまでも人間であり神にはなれないという自覚が生まれ、それが、人間の本質的な平等性と尊厳性の根拠となり、また、神への畏(おそ)れを生み出していく。
そして、その神への畏れが、神ならぬものを偶像化する偽りと、自己を絶対化する傲慢(ごうまん)に陥る誘惑と危険を遠ざけるのである。
〔2-④〕
第四は、創造の神である。
創造の神は、人間が作った秩序を打ち破って神の秩序を創造される。
従って人間が造りだした宗教的秩序や掟(おきて)を神の名のもとに絶対化することは許されない。
他方、創造の神は人間を自然の一部として創造しながら、ご自分の息(霊)を吹き入れ、霊において神と交わる人格的存在として〔人間を〕造られた。
従って、神は私たち一人一人に〔人間として守るべき〕戒(いまし)めと良心を与え、〔一方、私たちは一個の人間(個人)として、〕神〔の戒め〕に対してどのように〔応えて〕生きるかという応答的責任を負わされている。
このような神理解と信仰によって、人間には、歴史的責任、特に、神ならぬものを神とする偶像崇拝や自己絶対化に陥(おちい)ることなく、常に神を畏れつつ、この地上において抑圧された者をなくし、正義と公平、人間の平等と尊厳、神の憐れみを実現する責任、神への応答的責任が負わされていると書かれるのである。
3
〔3-①〕
しかし、著者の場合、ここに記されている論考の根拠となっているのは、以上のような神信仰に加えて、キリスト信仰である。
そのキリスト信仰がこの書の随所に展開されている。私自身、その著者の信仰理解から学ぶ所は大変、多かったが、それがこの書の大きな魅力となっていると言っていいだろう。
〔3-②〕
それは贖罪(しょくざい)信仰を巡って明らかにされる。
著者は、かつて〔意外にも、〕「すでにイエス様の十字架により罪を赦されているのに、何を今さら〔過去の太平洋戦争についての〕戦責告白などを出さねばならないのか」と発言された熱心な信徒がおられたことを紹介されて、〔改めて、〕贖罪信仰とは一体、何かを問うていかれる。
そして、「贖罪信仰は魔術的にではなく人格的に、教理的にではなく歴史的にとらえる必要がある」と書かれる。
「贖罪信仰の人格的理解」とは、罪を犯した相手の痛みと苦しみへの認識と理解、二度と同じ罪を犯すまじという決意、できる限り償(つぐな)いをしていこうとする姿勢を生み、罪を赦された者として自らも十字架を負う者へ、この世の様々な罪を担(にな)う者と変えられていく、そのように贖罪を受け止めていく理解である。
〔3-③〕
また、「贖罪信仰の歴史的理解」とは、主イエスの十字架を歴史的に受け止めることである。
つまり、〔歴史的に見れば、〕十字架の主イエスに罪を犯し、また、罪赦されたのは、〔あくまでも〕当時のユダヤ人であり、ローマの総督と兵士達であったと。
では、その歴史的〔な〕贖罪から「私の罪の赦しのため」という〔現在化された贖罪〕信仰が生まれるためには、何か必要であったのか。
それは、「〔イエスの〕『復活』という出来事と信仰が必要であった」、「復活という出来事に直面した弟子達の、イエスの死の意味の探求が贖罪信仰の成立へとつながった」ことによって、「〔イエスの十字架は、今を生きる〕私たちの罪の贖(あがな)いのため」という〔十字架と同時性の〕贖罪信仰が生まれたと著者は言う。
しかも、「生前のイエスの〔真実な〕生き方があり、その帰結として十字架上での刑死があり、復活という出来事があり、信仰が生まれた」。
つまり、復活とは、そのようなイエス〔の真実な生と死〕に対する神の応答であり、神いまし給(たも)うという何よりの証拠であり、罪と死、絶望に対する神の勝利〔の現れ〕である。
だから、私たちは〔己の罪を〕悔い改めて、贖罪的な生き方、〔すなわち〕自分の十字架を負い、主イエスの御跡(みあと)に従い、相手の罪をわが身に担いながら、愛をもって罪と戦う生き方へと歩み出すように招かれている。
「〔こうして、〕贖罪信仰は私たちを贖罪的生き方へと招く」。そのように著者は言うのである。
〔3-④〕
その贖罪的生き方は、〔同時に、〕神の業(わざ)としての神の国建設に参加する道でもある。神は私共を用いて神の御業(みわざ)をなさる。
そのように「贖罪信仰は、私たちを、自己や国家や社会の罪との戦いへと押し出す」。
ここにおいて贖罪信仰は戦責告白と結びつくのである。
そのように著者は、贖罪信仰から〔神の義と愛、平和(シャーローム)の充溢(じゅういつ)した〕神の国建設の道へとつながる道を示されるのである。
ここには信仰と社会的政治的行為の〔二元的な〕分離はない。
ここにおいて信仰と行為、信仰と〔神への〕服従の一致、〔神への服従抜きの〕「安価な恵み」としての信仰から〔、神を信じ神に従う〕「高価な恵み」としての信仰への道が開かれるのである。
〔3-⑤〕
そして、そのようにして「神の御心が〔地上に〕行われるように努めること」が伝道であると著者は言う。
いわゆる「信者」を作ることが伝道ではない。「神の御国(みくに)、神の御心が成るように努める」こと、「悪霊の支配と戦う」こと、自分と世の罪と戦う」こと、「悔い改め」へと導くこと、これが伝道であるというのである。
ここにおいて、現在、日本基督(キリスト)教団が推し進めようとしている〔教勢拡大のための〕「伝道」との違いが明確に示されていると言えるだろう。
4
〔4-①〕
むろん、「悔い改め」は人間の業(わざ)ではなく、神の御業(みわざ)である。
このことは、いわゆる「信仰による義(ぎ)」という「信仰義認(ぎにん)論」においても言える。
著者は、ロマ書3章22節の「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」を「神に対するイエス・キリストの真実によって、全ての人に神の義が与えられる。そこに何らの差別もありません」と訳す。
著者は「『律法の行いによって義とされ』ようとするのは律法主義と呼ぶべきものであり、それに代わって『自分の信仰によって義とされ』ようとするのは信仰主義と呼ぶべきもので、双方とも『律法の行い』や『信仰』なるものを自分の内に私有化し、それをもって神の御前(みまえ)に自己の義を主張する姿です」と書いておられる。
律法主義の持つ律法の偶像化と自己義認が信仰主義の中にもあることを指摘されるのである。
そのように著者は「偶像化」が教会の中でも起こることを指摘される。それは、特に教義主義において現れる。
〔4-②〕
かつて著者は、『時の徴(しるし)』(139号)の巻頭言において「教条主義との訣別(けつべつ)」という文章を書かれたが、そこでは「キリスト教会は教義化〔つまり信条の制定〕という仕方で(ヤハウェやイエスを)自らの内に取り込み、教義〔つまり自派の信条〕を手がかりに〔、自分たちこそが、神、キリスト、信仰そして救いを正しく把握しているとして〕自己絶対化をはかり、〔歴史上、〕教義の相違の故に、〔教派間で〕時に血を流す争いをしてきた」と書き、
「使徒信条の承認をもって〔それを〕信仰告白とする教会のあり方は問題なのではないか。教会はヤハウェもイエスも教義化という仕方で、偶像化してきたのではないか」と問題提起されている。
「偶像化」とは、「神を自分の思う形に固定化し、神を自分のものとして所有すること」であり、「『自分のために』神を利用する精神であり、自分が神に対して支配権をふるうことであり、自己を神の座に押し上げ〔て自己を絶対化す〕ること」である。
〔教会は〕そのような神の所有化、自己絶対化に陥ってはいないかと著者は問いかけるのである。
〔4-③〕
そのように著者は、この世・政治の世界における偶像化と共に、キリストと教会の偶像化に対して警鐘(けいしょう)を鳴らしつつ、「それと対決する私たちの武器は、イエスの偶像化ではなく、主による自由に支えられた真理探究の姿勢でなければならない」と書いておられる。
今、この世・この国において、「〔おのれの民族・国家を絶対化しつつ、勢力拡大を企図する〕肉のナショナリズム(国家主義、注1)」とグローバリゼーション(地球規模の市場自由主義)の波が押し寄せ、いまや自由と平等、正義と公正、平和と愛、民主主義が危機に瀕している。
そのように「闇の勢力」が支配しようとしている今、キリスト者として、また、教会〔エクレシア〕として、どのようにそれに抗し、また、戦うのか。
この書は、私たちを覆(おお)わんとしている闇の勢力を明らかにしながら、「闇の勢力に抗する」道筋を示していると言っていいだろう。
(注およびルビと〔 〕内は、補足)
♢ ♢ ♢ ♢
注1 立憲主義(りっけんしゅぎ)
憲法に基づいて政治を行うという原理。つまり、憲法に則(のっと)って政治権力が行使されるべきであるとする考え方、あるいはそうした考え方に従った政治制度のことを指す。
つまり立憲主義とは、憲法によって支配者の恣意的な権力を制限しようとする制度のことである。
立憲主義の破壊は、独裁政治につながる。
注2 ナショナリズム(国家主義)
民族・国家に対する個人の忠誠心を内容とする感情やイデオロギー、もしくは民族・国家の独立・発展を志向する思想および運動の総称。