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聖書に学ぶ 004

2015年11月 8日改訂

タケサトカズオ

 

勝利者イエスを見つめて

-ヨハネ福音書15章18節~16章4a節-

はじめに-戦う教会

地上の信仰共同体(エクレシア ecclesia)は、古来、《戦う教会》( エクレシア ミリタンス e

cclesia militans)と呼ばれている。

 

一方、宗教的な安心立命の中に安住して、自らの内なる罪と戦うことをせず、また、真(まこと)の神に敵対する〈この世の悪〉、サタンと戦わない教会は、《イエス・キリストの教会》とは言えない。

 

《キリストの体》としてのエクレシアとキリスト者は、一体、何に目を注ぎ、何によって、何と戦うのか。聖書と信仰の先達に学びたい。


2 ヨハネ福音書とは

新約聖書・ヨハネ福音書は「戦いの書」であり、エクレシア(信仰共同体)の苦闘と神讃美の書である。


エルサレム神殿崩壊(紀元70年)後、誕生間もない弱小のユダヤ人キリスト者共同体(ヨハネ共同体)は、ユダヤ教指導者たちとの厳しい戦いの中にあった。


ヨハネ福音書は、この信仰共同体に対し、イエスを《神の子》、《キリスト》すなわち「神の決定的な啓示」と信ずる信仰にとどまり、この信仰を公(おおやけ)にして生きるよう励まし、決断を促している。

 

3 ヨハネ福音書成立の時代的背景
聖書学の発達により、ヨハネ福音書を含む新約聖書の成立した歴史的状況が、次第に明らかになっている。

 

ヨハネ福音書の成立時期:紀元90年代(マタイ福音書成立とほぼ同時期

 

福音書成立の社会的・宗教的背景
ⅰ歴史の潮流

ユダヤ戦争によるエルサレム神殿崩壊(紀元70年)、神殿宗教の終焉(しゅうえん) 

↓ 

ユダヤ民族の宗教的・共同体的アイデンティティーの喪失(そうしつ)

↓ 
ユダヤ教の立て直しを巡り、新興ユダヤ教内の混乱および諸潮流の論争


ファリサイ派・ラビたちが主導権を握り、民族宗教としてのユダヤ教を再構築


ユダヤ教は、 ラビ的ユダヤ教(
律法主義)へ


律法主:律法(宗教的な戒律、諸規則)の外形的遵守(じゅんしゅ)により、《救い》を確保しようとするあり方。

 

ⅱユダヤ教の会堂(シナゴク)からのキリスト者追放
ファリサイ派(シナゴクの権力者)は、ユダヤ教団を統合する上で、新興ユダヤ教諸派(異端)やユダヤ人キリスト者(ナザレ派)に手を焼いた(注1参照)。

 

そこで、ユダヤ教の権力者たちがとった異端および《ナザレ派》対策は、会堂からの追放つまり、ユダヤ教団からの破門であった。その経過は、以下のように考えられている。

 

会堂シナゴク)の礼拝で、《十八祈祷(きとう)文》の「背教者への呪い」に「ナザレ派への呪い」を追加(ビルカト・ハッミーニーム。紀元90年頃、ガマリエル2世の時代。注2参照)
       ↓
信徒が間違って祈祷文を唱えると、「異端者の疑い」で召喚
(しょうかん)
       ↓
会堂からの追放
ユダヤ教地域共同体(
ユダヤ人社会)からの追放、ローマ帝国からユダヤ教に与えられていた特権の喪失
       ↓
ユダヤ教《ナザレ派》は
ユダヤ教から分離し、《キリスト者》へ
                  
多くの地域において、キリストを信ずる者たち(
ナザレ派)は、ユダヤ教指導者らにより会堂(シナゴク)から追放された。

彼らは、結果的に、ユダヤ教団から分離・独立して、《キリスト者》として歴史の表舞台に立つこととなった。
                                

戦いの本質
当時のユダヤ教指導者たちは、律法(戒律)の外形的遵守を民族的アイデンティティーの生命線と成し、人々に律法遵守の徹底を要求した。


それに対して、キリスト者たちは、イエスを《神の子》、《救い主》として信ずる信仰、すなわち戒律の実践ではなく、神の無償の恵みの中に生かされていた。


当時のユダヤ教指導者とキリスト者の戦いの本質は、「律法主義」対「イエスを救い主と信じる信仰」、つまり、「宗教的業績主義の驕(おご)り」対「無償で与えられる神の救いへの感謝」の戦いであった。 


両者の対比は、イエスの有名な「神殿に上ったファリサイ派の人と徴税人のたとえ」に鮮やかに描かれている(ルカ18章9節以下)。


祈りの家》である神殿において、ファリサイ派の権力者は他人を見下し、律法を遵守する己(おのれ)の義・己の業績をの前に誇った。

 

一方、《地の民(アムハ・アレツ)》として人々から軽蔑されていた徴税人は、顔を天に向けようともせず、口を塵(ちり)につけ、絞り出すようにして言った、「神様、罪人(つみびと)のわたしを憐れんでください・・」と。

 

この譬(たと)えの終わりでイエスは、「〔神に〕義とされて家に帰ったのは、この〔徴税〕であって、あのファリサイ派の人ではない」と言われた。


三谷隆正は、その著「伝道神髄」において、「己(おのれ)の業績を誇る者」と「砕(くだ)かれた魂〔の者〕」とについて、次のように述べている。


神が求めるのは、おおげさな献げ物ではない。ただ、君たちの砕かれた魂だけである」と、古(いにし)えの預言者は教えた。


キリストが最も憎まれたのは、ファリサイの徒(と)の魂(たましい)を入れ忘れた献げ物であった。「行い、〔たくさんの立派な〕行い」と言って、〔己の〕事功(業績)を誇る、そのような態度であった。


パウロが熱誠をこめて広く異邦人(いほうじん)の間に宣べ伝えたのは、「人が〔神の前に〕義とされるのは、己の行い(宗教的業績)によるのではなく、ただ信仰により、〔キリストの〕贖罪(しょくざい)により、神の愛による」ということであった。

 

その同じ福音(ふくいん)が、聖アウグスティヌスを救い、また〔宗教改革者〕ルターを〔中世カトリック教会に対して〕起たせたのであった。


そのことは、信者の誰もが知っている。それにもかかわらず、〔なお、キリスト〕教界に「行い」によって起とうと焦(あせ)る者がいかに多いことか。


私たちがキリスト者として、まず為さなければならないことは何か。

幾人を〔キリスト教に〕改宗させ〔て洗礼を受けさせ〕、何円を〔教会に〕献金したというような事功(業績)をあげることなのか。

 

キリスト在世の時、ファリサイの徒はこのように考えて、熱心にその事功(宗教的な業績)に腐心(ふしん)した宗教家であった。

しかも、このファリサイの徒以上にキリストの真精神(みこころ)に反する者は、他になかったではないか。


事功をあげて、どうしようとするのか。それによって、人の前に誇り、またより多く神の前に誇ろうとするのか。

しかし、神は事功に誇る者を良しとされず、ただ、砕かれた魂のみを喜ばれる(三谷隆正著『伝道神髄』より、現代語による引用。( )、〔 〕内は補足)。

 

4 ヨハネ福音書が現代に語りかけるもの
神は、紀元90年代に書かれたヨハネ福音書を通して、現代の私たちに何を語っているのか。


ヨハネ福音書、特にその15章18節以下は、現代のキリスト者に対して、戦いの本質について教え、かつ励ましている。


まず、「この世」は真(まこと)の神とイエス・キリストを憎む、と福音書は告げる。


「〔世はあなた方(弟子たち)を憎む前にわたし〔イエス〕を憎んでいた」(ヨハネ15章18節)、「わたし〔イエス〕を憎む者は、わたしの父〔である神〕をも憎んでいる」(15章23節)とイエスは言う。


なぜ「この世」は、イエスを憎むのか。それは、イエスの言葉と業(わざ)が、またイエスの存在そのものが、「世が行っている業は悪いと証(あかし)している」からである(7章7節)。


聖書がいう「この世」とは、真の神から離反し、己の腹(欲望、願望)を神とする生来の人間(サルクス)の在り方の集積である。


問題の本質は、「何を自分の神として拝するのか」という神観(しんかん)の問題である。


己れの欲望、願望を最高の「神」とするこの世の生き方は、真の神と神の子キリストを憎む。「人は、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を愛し、他方を憎む」と聖書に書かれているとおりである。


なぜなら、「この世」にとって、真の神とキリストは、己の欲望、願望や理想の達成を妨げるものとして映るからである。

そのため、本来であれば、自らの生命の根源である愛の神とキリストの前にひれ伏し、感謝すべきであるのに、逆にこれを憎むという価値判断の逆転(倒錯)が起こるのである。


だが、誰も「自分は、神など知らない」と強弁することはできない。なぜなら、「この世」に対して、神の存在と栄光は明らかに示されているからである。

 

大自然の中に、夜空を巡る星々に、また野末の一輪の花に、神の存在と偉大さは示されている。また、この世にあって、神の恵みを反射して生きる小さき者たちがいる。


一方、信仰共同体(エクレシア)も、キリストの招きに応じて、「この世」に対して常に開かれている。エクレシアは、原理的に「この世」を敵視し、自らを社会から分離して生きる《セクト(結社)》ではない。

 

5 福音の証人として
この世におけるキリスト者の証し、すなわち地上(同時代)を歩む《神の民》に与えられる具体的な戦いは、何か。


私たちは、プロテスタント(抵抗する者)として、おもに二つのものと戦う。


第一に、神ならざるものを神とする《偶像崇拝》、および偶像崇拝を強制するものと戦う。つまり、第一戒の問題である。


人間や民族、国家、また特定のイデオロギーを神のごとく絶対化する偶像崇拝は、倒錯と狂気、そして、いのちの破壊と戦争に行き着かざるを得ないからである。


第二に、神の愛と平和を破壊するものと戦う。

 

この破壊は、具体的には、いと小さき者たちへの神の愛を踏みにじるものとして立ち現れる。いと小さき者たちを踏みにじるものは、イエスを踏みにじるものである。なぜなら、いと小さき者たちは、イエスの《代理》だから。


飢えている者、渇いている者、旅人、裸でいる者、病気の者、無実の罪で投獄されている者、その他のいと小さき者たち。

わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしてくれたのは、わたしにしてくれたことなのである」とイエスは言われる(マタイ25章40節)。


しかし、私たちは、戦いを人間的な基準で一律に決めることはできない。戦いは、神が一人ひとりのキリスト者に具体的に示されることである。

 

だから、私たちは、自分の戦いのみを善しとせず、他のキリスト者の戦いにも温かい眼差(まなざ)しを注ぐべきである。兄弟は、自分にはできない働きを担(にな)ってくれているからである。

 

6 派遣者キリスト

わたし〔イエス〕は、あなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10章16節)。


派遣者は、イエスである。イエスがわたしを選び、そして、遣(つか)わす。私たちは、あくまでもイエスから遣わされた者、イエスの委託(いたく)を受けた者として、世に向う。


つまり、自分の人間的な計画や理想が先にあって、その実現のために、大義名分としてイエスを担(かつ)ぎ上げるのではない。

まず、イエスの委託があり、その委託を受けめ、それを果たすために私たちは計画し、周到に事を進めるのである。


私たちは、イエスの委託を受けた者として、冷徹に、この世の厳しい現実を見通す。

人々がわたし〔イエス〕を迫害したのであれば、あなた方をも迫害するだろう」(ヨハネ15章20節)。

 

イエスが遣わすゆえに、イエスの弟子には迫害が生じるだろうとイエスは言われる。

 

イエスの言葉は、甘い幻想や期待、無鉄砲に冷や水を浴びせる。

イエスの弟子が世から憎まれることは当然であるとともに、世から憎まれるだけの力を持たぬ者は、その中に生きた真理がないのである」(矢内原忠雄著『ヨハネ伝』)


イエスから遣わされた者としての自覚は、キリスト者に静かな確信と謙虚さを与える。

神の子イエスが遣わすゆえに、キリスト者は人間への恐れから解放される。また、戦いを導くのはイエスの力であるゆえに、自分の力に対する過信と傲慢からも解放される。


それと同時に、この世との戦いにおいて私たちは、キリスト者としてのアイデンティティーを失ってはいけない。


確かに、困難な状況にあって、あらゆる機会を積極的にとらえて生き抜き、慎重に、それを活用していく蛇の賢さが必要である。


しかし、私たちの存在は、イエスの真実を反映するもの(=イエスの羊)でなければならない。「賢さ」を「真実な知恵」にする必要があるのである。世の人々から、「あんなあくどいことして、あれでもキリスト者か」と言われてはならない。

 

7 真理の霊が、言うべきことを教える
わたしが父のもとからあなた方に遣わそうとしている弁護者、すなわち父のもとから出る真理の霊(聖霊)が来るとき、その方がわたしについて証しをなさる」(ヨハネ15章26節)


イエスの弟子は、聖霊(せいれい)とともに、イエスの真理を体を張って公的に証しする。これは、福音の真理について、権力者、異邦人を真理に従うかどうか、《あれか・これか》(S.キルケゴール)の決断の前に立たせるためである。


しかし、権力の迫害というギリギリの状況においては、生来の人間の情熱や決意は何の役にも立たない。

それは、イエスの愛弟子ペテロが、師のために命をも捨てる覚悟であると強く誓ったにもかかわらず、イエス捕縛の現実を前にしてイエスを三度も否認したできごとからも、明らかである。


しかし、心配は無用である。キリスト者には、聖霊の護(まも)りと支え、また励ましがある。


イエスは、真理の霊が・・わたしについて証しをなさる」(15章26節)、「そのときには、言うべきことは〔あなたがたに〕教えられる」(マタイ10章19節)と言われる。

 

私たちに遣わされる真理の霊(聖霊)が、私たちを弁護してくださる。この約束こそが、私たちの究極的な支えである。神の子たちを究極的に守ってくれるのは、神のみ言葉である。


狼の中にいる」という「厳しい現実」は、実は、「神の御手(みて)の中にある」という「より大きな現実」に包含されているのである。


取るに足りない私たちが、聖霊と共同してイエスの福音を証(あか)しすることを許される。

このようにして、私たちが神の国の礎石(そせき)として用いられることは、私たちにとり、過分の恵みであり、喜びであり、感謝である。

 

8 勝利の確信
いったい、勝利の確信は、どこから来るのか。


勝利に対する天来の確信は、《勝利者イエス》を見つめることから来る。

自己を眺め回すことは、私たちを恐れと傲慢に導く。イエスに繋(つな)がり、イエスを仰ぐことが勝利の道である。


世界の窮状(きゅうじょう)に目を向けるとき、確かに、この世は《罪》と《死》に支配され、深く蝕(むしば)まれている。何者も、罪と死の力から免(まぬが)れることはできない。


しかし、イエスは《十字架》によって罪を無力化し、《復活》によって死に打ち勝たれた。

人類、そして私の罪と死は、勝利者イエスによって、すでに征服されたのである。


そして、終わりの日の《キリストの再臨》により、歴史は完成し、《神の国》は成就(じょうじゅ)する。

その時、全宇宙、万物(全被造物)は「滅びの呻(うめ)き」から解放されて、救いの喜びへと入れられる(ローマ8章18節以下参照)。この終末的希望が、私たちの最終的希望である。

 

イエスは、トータルな勝利者、究極の勝利者である。

それゆえ、イエスに従う者の戦いは、すでに勝利に定められている。この《勝利者イエス》を仰ぐ者に、勝利の確信は与えられる。


神の国の証人》ブルームハルト父子は、勝利者イエスを仰ぎ、次の「戦いと勝利の歌」を歌いつつ、前進したと言われている。

 

イエスこそ、すべての敵に打ち勝つ勝利の君

 

やがて世界は御足(みあし)のもとに伏す

 

イエスは輝きをもって来たり

 

〔世界を〕闇より光に導きたもう

 

内村鑑三も、同様の消息を次のように述べている。

 

最も困難なことは、神が、キリストにあって、すでに成し遂げてくださったのである。

人類〔そして、わたし〕の罪は〔キリストによって〕すでに除かれたのである。神との平和はすでに成ったのである。

 

・・・そうして、残余(ざんよ)の、この小事業が私たちに委ねられたのである。

 

私たちは、今から進んで苦戦悪闘して、敵を倒そうとするのではない。

敵の大将(サタン)は、すでに、私たちの手を借りることなく〔、神によって〕倒されたのだから、私たちは楽戦しつつ、逃げる残余の敵を追討(ついとう)しようとするのである。

(『歓喜と希望』より現代語による引用。( )、〔 〕内は補足)。

 

 

♢ ♢ ♢ ♢

      
注1
ナザレ派

聖書学者たちによると、ユダヤ教から独立する前のキリスト教徒たちは、「ナザレ派」と呼ばれていた(岩波『新約聖書Ⅲ ヨハネ文書』p147、補注p3参照)。本論考でも、同様の意味で「ナザレ派」という語を使用している。


使徒言行録によると、ユダヤ教の大祭司アナニアがパウロをローマ総督に訴えた際、ユダヤ教側の弁護士テルティロは、キリスト者たちを「ナザレ人の分派」と呼んだ(24章5節。新共同訳)。


この「ナザレ人の分派」という語は、「ナザレ派」と同義語である。
当時、「ナザレ人イエス」を信ずる者たちは、ユダヤ教徒から侮蔑の意味を込めて「ナザレ人」と呼ばれていた。

 

また、当時の「分派」という語は、ファリサイ派などと並ぶ「ユダヤ教の一派」を意味する言葉であった(新教出版社『聖書大辞典』、キリスト新聞社『新聖書大辞典』、『NTD新約聖書注解5 使徒行伝』p599参照)。 


以上より、ユダヤ教側が当初、キリスト者たちを「ユダヤ教の分派(一派)」と捉え、「ナザレ人の分派(=ナザレ派)」と呼んでいたことが分かる。


一方、「イエスの死後、弟子たちは、当初自分たちの群をユダヤ教の一派と理解していたようである」 (創文社『キリスト教概論』p84。使徒2章46、15章19節参照)。

 

注2 背教者への呪い(ビルカト・ハッミーニーム
ナザレ派の人々と異端者たちは一瞬にして滅び、命の書から抹消されて、義人たちと共に記されることがないように」(新約聖書Ⅲ『ヨハネ文書』補注p3、NIB新約聖書注解5『ヨハネによる福音書』p15参照)。 


なお、岩波『ヨハネ文書』の補注が「ナザレ派の人々と異端者たち」と訳出している部分は、『塚本虎二訳 新約聖書』の略注では「ナザレ人と異端者」となっている(p912)。

 

 参考文献
・矢内原忠雄『聖書講義Ⅳ ヨハネ伝』(岩波書店)
・塚本虎二『塚本虎二訳新約聖書』(新教出版社)
・新約聖書Ⅲ『ヨハネ文書』(岩波書店)

・三谷隆正『信仰の論理』(新教出版社)
・宮田光雄集〈聖書の信仰〉Ⅱ『蛇のように賢く鳩のように素直に』(岩波書店)
・ 『新版・総説新約聖書』(日本キリスト教団出版局)
・ 『聖書大辞典』(新教出版社)
・ 『新聖書大辞典』(キリスト新聞社)
・ 『NTD新約聖書注解5 使徒行伝』(ATD・NTD聖書注解刊行会)

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