イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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5
〔5-①〕
今度の戦争(第二次世界大戦)によって、世界の至る所に、谷にも平野にも、海の底にも繁華(はんか)だった町にも、枯れた骨が散乱しました。
これらの枯骨(かれぼね)が生きた人として生き返るということは、驚くほど大きな言葉であります。
科学はもちろん、これを否定するでしょう。しかし、科学の否定によって否定しきれない魅力が、この思想の中にあります。
我々(われわれ)の愛する者の骨が白く戦場に散乱した時に、我々を慰めて、〔生きる〕力を与え、希望を与えてくれるものは、パンか。科学か。
パン〔による満腹〕は、我々をその苦しみから解放してくれません。
科学〔的な説明〕も、同じであります。否(いな)、科学〔のもたらし破壊力〕が彼を白骨と化したではないかとさえ、言えるくらいです。
〔5-②〕
その時に「枯れた骨が生き返る」という復活の信仰は、他の何者をもって〔して〕も癒(いや)すことのできない心の傷を癒してくれる、唯一の〔慰めの〕音づれです。
それを信じるならば、私どもに生命(いのち)があります〔。私どもは希望をもって、再び起ち上がります〕。
〔5-③〕
国民についても同じです。
〔敗戦後の〕日本の国民の状態を見渡して、これを生きた人間の集団と言うべきか、枯れた骨の集団と言うべきか。
その中に希望を見出そうと願っても、希望を見い出しかねることがある。
「飼う者なき羊」という言葉がありますが、本当に我々の〔今の〕状態は飼う者なき羊です。否、もっと悪い。我々の状態は、〔まさに〕枯れた骨である。
生ける屍(しかばね)ではないかと〔さえ〕自ら疑うまで〔に〕、国民の状態を見て感ぜざるを得ない悲しい時があります。
〔5-④〕
そういう時に私どもに希望を与えるものは、自分の力でもなく、他人の援助でもない。
政治でも経済でも、科学でもありません。〔自由主義の〕アメリカでもなく、〔共産主義の〕ソ連でもありません。
イエス・キリストによる復活の信仰、それだけが私どもに根本的な解決を与えてくれるのです。
そんなものは非科学的であるから信じないと言うならば、話はそこまでです。
信じない者に希望はありません。
〔信じない者は、この世の中で〕希望のない状態のままで、動き、ひしめき、騒ぎ、苦しんで、ちょうど電車の中の混雑のような状態で生活し、〔それで人生を終えるのです。〕
それ以外に〔生きる〕道がないというならば、また何をか言わんやです。
〔5-⑤〕
けれども、私どもが人間としてまたは国民としての希望を持つと言うならば、その希望の根拠は、復活という驚くべき事実、驚くべき啓示、驚くべき預言にかかっているのです。
それ以外の〔地上的な〕希望はみな、一時的あるいは相対的な希望にすぎません。
人間を最もみじめな状態のどん底から引き起すもの、枯れた骨に生命(いのち)を吹き込むもの、それは死からの復活の信仰であります。
この信仰こそ〔が〕、私どもに永遠の生命を与えます。それは永遠の生命力の表現であります。
この信仰を持つ者にして、始めて現世(げんせ)における生活態度を主体的〔、積極的〕に持つことができるのです。
なぜ、我々は正義のために戦わねばならないか。なぜ、己(おのれ)の一身を捨てて、社会公共のために働かねばならないか。
世の中の多くの弱者のために、多くの罪に悩む者、病(やまい)に苦しむ者、希望のない者、ニヒリスティック(虚無的)な憐むべき者、〔真実を求めて〕己を疑うという懐疑(かいぎ)の力さえもない者、そういう者に希望を与え、生命を与えるためには、我々自身が絶対的な希望を持つ者でなければならない。
誤解を恐れず、迫害に屈せず、ただ正義のゆえに、ただ愛のゆえに自らの生涯を〔勇ましく〕送る、そのような純粋な生き方、神のために生きる精神と力は、復活の信仰なくしては持つことができないのです。
〔死に勝利する〕復活の信仰は、人を勇気ある人とします。希望ある人とします。愛の人とします。人に〔神の〕平和(シャーローム)を与えます。
〔5-⑥〕
同じことは、国の復活についても言うことができます。
私は従来何度か、国の復興ということをお話を致しました。しかし今日の演題は、「国の復興」ではなく、「国の復活」であります。
京都の太田十三男氏が最近、著述された『預言者としての内村鑑三』という本があります。これは内村鑑三先生の色々な著作の中から〔優れた〕言葉を選び出して編纂(へんさん)された書物であって、私も一読致しましたが大変おもしろかった。
その〔本の〕中に、「日本は〔これから〕何度も滅ぶであろう」という内村先生の著(いちじる)しい言葉を発見しました時、私は非常に驚きました。
〔5-⑦〕
〔御覧のとおり〕この〔たびの〕敗戦で、日本は滅んだも同様であります。
ところが日本の亡国(ぼうこく)はこれでおしまいかというと、そんなことはない。
日本は何度も滅ぶであろうという、内村先生の言葉を読みました時に、私は涙を禁じることができませんでした。
国民がヤハヴェの神を畏(おそ)れ、キリストの福音に従うまでは、〔日本は〕本当に何度も滅ぶでしょう。
しかし何度滅んでも、神の恩恵によって日本の国民は復活するだろう。
〔5-⑧〕
国の復活というのは、滅んだものが生き返ることです。
衰(おとろ)えたものが〔ふたたび〕盛んになることを「復興」と言うならば、一度滅んだもの、死んだものが生き返るのが「復活」です。
この〔国の復活の〕信仰を理想化したものが、黙示録第21章、第22章にある「新しきエルサレム」、「聖なる都(みやこ)」、「神の国」の預言です。
これは、神を信じる国民の復活の姿〔を描いたもの〕であります。
〔5-⑨〕
多くの悲しみに沈んでいる個人、また何度も滅ぶであろう国民の復活を信じる者は、我々キリストを信じる者たちであります。
私どもはアヤの娘リヅパのように麻布を岩の上に敷き、その上に坐りまして、そして我々の愛する者の屍(しかばね)を守って、昼は空の鳥が来〔るのを〕、夜は野の獣(けもの)が近づくのを追い払って、〔食(く)い〕荒らされないように、これを守らなければなりません。
それを守って、その復活を待ち望むのが我々の祈りであります。
〔5-⑩〕
ダビデ王がリヅパの行動を聞いて憐(あわれ)み、彼女が守った骨を集めて墓に葬(ほうむ)ったように、神は私どもの祈りと戦いとをご覧になり、死んだ人を生かし、滅んだ国民を復活させて下さると〔我々は〕信じます。
ダビデがリヅパを憐んで取り計らったのは、散乱した骨を墓に蔵(おさ)めることでした。
〔しかし、〕キリストが我らを憐んで為(な)されることは、〔我々の愛する者の〕枯れた骨を墓から復活させてくださることであります。
〔5-⑪〕
こんな大きな希望を私どもに与えるものが、イエス・キリストの復活であります。
この信仰を観念的であると嘲(あざ)ける者は、恐らく、死んだ屍について涙を流したことのない人ではあるまいか。恐らく、滅びた国民について心を痛めたことのない人ではあるまいか(注1)。
少なくとも私ども〔、キリストを信じる者〕は、この復活の信仰が生命(いのち)であって、これによって人の望みも国の望みも、否(いな)、宇宙全体の望みのあることを、確(かた)く信じている者であります。
この信仰に基(もと)づいて現実の世界に目を放つ時に、私どもは、為(な)すべきこと、戦うべきことが、実に沢山あることを知るのであります。
本日のこの内村鑑三先生記念講演会も、こういう趣旨において我々の祈りであり、戦いであります。
祈りと戦いの再確認であり、再出発である。あるいは、新しい戦いの進軍ラッパでありたいと思うのであります。
完
♢ ♢ ♢ ♢
(『嘉信』第11巻、第4号、第5号、1948〔昭和23〕年4月、5月、( )、〔 〕内は補足。下線は引用者による)
注1 復活の信仰
信仰と人生矢内原忠雄〖南の川のごとくに〗へ
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