イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
■上の「ネットエクレシア信州」タッチでホーム画面へ移動
Move to home screen by touching “NET EKKLESIA” above.
最終更新日:2024年12月7日
■サイト利用法はホーム下部に記載
4
〔4-①〕
「〔再臨(さいりん)の〕キリストはいつ来られるか、またどこに来られるか」ということを弟子たちが尋ねた時、それに対してイエスの答えられた言葉が福音書に記されています。
キリストが〔審判主として〕来られる時は、いつか〔は、人間には〕分からない。
昔、ノアの時代に洪水が来た。その時人々は、何の予感もなく、飲み食い、めとり、嫁(とつ)ぎなどしていたが、思わぬ時に洪水が〔襲って〕来た。
〔同様に、〕後〔の〕口卜の時代には、人々が飲み食い、めとり嫁ぎ、売り買いをし、土を耕し、家を建てていた時に、突然、天から火と硫黄(いおう)が降ってソドムの町を滅ぼした。
そういうぐあいに、人の子〔キリスト〕も思いがけない時に来る。
その時、二人の男が一つの寝台に寝ていると、一人は取〔り去〕られて祝福の天に連れて行かれ、一人は残されて滅びに向かう。
二人の女が石臼(いしうす)をひいていると、一人は取〔り去〕られて天国に連れて行かれるが、一人は地に残されて滅ぶ。
〔イエスが〕そういう話をされたところ、弟子たちが「それでは、どこに人の子〔キリスト〕は来られるのですか」とお聞きした。
それに対して〔、イエスは〕「死体のある所には、はげ鷹(たか)も集まるものだ」という諺(ことわざ)で答えられたということが、ルカ福音書17章に記(しる)されている。
〔4-②〕
〔つまり、再臨の〕キリストが〔世界の〕審判主として来られるのは、どこにという地理的場所が問題なのではなく、人間の生活の状態についての信仰的、道徳的〔な〕問題なのだ。
神を畏(おそ)れず、神の道を尊ばず、物欲的な生活に耽(ふけ)っている者は身体は、生きていても人間として死に体(たい)である。いわゆる「生ける屍(しかばね)」である。生ける屍のあるところに、〔必然的に〕滅亡が〔やって〕来る。
これに反し神を畏(おそ)れ、真理を愛し、神の御言葉によって生きている者、キリストによって罪を贖(あがな)われた者、その人のいるところには、救いが来る。
キリストはどこに来るかということ〔の核心〕は、〔実は〕地理的場所が問題ではないのである。その時、人々がいかなる心の状態で生活を送っているか。それが問題なのである。
こう言って〔、イエスは弟子たちを〕教えられたのである。
〔4-③〕
この「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」という諺について、私が思い出す一つの哀話があります。それは、旧約聖書サムエル記下第21章にある話です。
ダビデ王の時代に、3年続いた飢饉(ききん)があって、皆非常に困った。今日〔の言い方〕で言えば、政治問題化した。
そこでダビデ王がヤハヴェの神にその原因を尋ねたところ、それに対する答えは、ダビデの前のサウルという王がギベオン人との契約を破って、これを虐殺した。
そのことがヤハヴェの御意(みこころ)に適(かな)わないために、それが原因となってこの3年の飢饉があるということが、預言者の口を通してダビデに告げられたのでしょう。
そこでダビデはギベオン人を呼んで、お前たちの望むところは何かということを聞いた。
ギベオン人が言うには、私どもはイスラエルの人に対して報復するとか、損害賠償をもらうとか、そのようなことは考えていません。
ただ、私どもを皆殺しにしようと企(たく)らんだ責任者、すなわちサウル王の親族の中から7人を引き渡してもらいたい。そうすれば、これをヤハヴェの前に、木に懸(か)けて処刑するということを申し〔出〕た。
今日の言葉で言うと、戦犯(せんぱん)の引き渡しを要求したわけであります。
〔4-④〕
そこでダビデは、サウルの一家親族の中から7人〔の息子〕を取って引き渡しました。ギベオン人は、彼らを木に懸け〔て、処刑し〕ました。
その引き渡された7人の中の二人は、アヤの娘リヅパという女がサウル王に生んだ子供〔、アルモニとメミボセテ〕であった。
この7人の死骸の前で、アヤの娘リヅパは岩の上に麻布を拡げて日夜、坐っていた。
そして昼は空の鳥を追い払い、夜は野の獣(けもの)を近よらせず、死体が食い荒されないように守った。
処刑のあったのは麦刈りの時で、それはユダヤ(暦)では4月です。その時から始まって、雨の降る時までこれを続けた。
「始めの雨」の降るのが10月ですから、もしも普通に雨の降るシーズンまで〔続けた〕ならば、6ヶ月の間、リヅパは岩の上に坐って、昼は空の鳥を、夜は野の獣を追い払って、自分の生んだ二人の息子と、親類の五人の子供の遺骸(いがい)を守ったのです。
〔4-⑤〕
このリヅパの行動を聞いて、ダビデは〔彼女を〕憐(あわ)れみました。
そしてサウル王の骨と、その長男でありダビデの親友であったヨナタンの骨を集めて、これを丁重(ていちょう)に墓に葬(ほうむ)り、またダビデの部下がリヅパの息子やなど7人の骨を集めて墓に葬った。
そのことがヤハヴェの御意(みこころ)に適(かな)って雨が降り、3年の飢饉が終った、という実に哀(あわ)れな話があります。
〔4-⑥〕
「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ」というイエスの言葉からもう一つ連想される旧約聖書の記事がある。
それはエゼキエル書の第37章です。そこには、「枯骨(かれぼね)の復活」の預言が記されています。
預言者エゼキエルがある谷に連れていかれた。見渡すと、沢山の人の骨が白く枯れて、散乱している。
ヤハヴェがエゼキエルに向かって、「これらの骨に預言して、言え。
枯れた骨よ、ヤハヴェの言葉を聞け。
主ヤハヴェはこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに霊風(いき)を入れて、あなたがたを生かす。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたの内に霊風を与えて生かす。
そこであなたがたは、わたしが主ヤハヴェであることを悟(さと)る」と言われた。
そういうヤハヴェの声を聞いて、エゼキエルが預言したところ、骨と骨とが連なり合い、その上に筋肉を生じ、霊風がその中に入って皆、生きた人になって立ち上り、非常に大きな群衆になったという預言〔の記事〕があります。
〔4-⑦〕
これは紀元前586年にユダの都エルサレムがバビロンによって攻め滅されて、大なる掠奪(りゃくだつ)と殺戮(さつりく)を受け、国民の大多数が捕虜になって、バビロンに連れてゆかれ、亡国の悲運に陥った時の預言です。
エゼキエルが見渡したところ、ユダの国には枯れた骨が一杯に散乱している。国民は滅んでしまっている。
しかし、ヤハヴェを信じる信仰に依(よ)るならば、ヤハヴェはこの枯れた骨をも起ち上がらせて一つの大きな国民とされる、ということを〔エゼキエルは〕預言したのです。
つづく
♢ ♢ ♢ ♢
(『嘉信』第11巻、第4号、第5号、1948〔昭和23〕年4月、5月、( )、〔 〕内は補足。下線は引用者による)