イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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書評②
内坂晃著『闇の勢力に抗して』
青山章行
「出版さるべき時機が熟して遂に出版された」というのが正直な実感である。
2月末に発刊され、私は座右(ざゆう)において味読を重ねた。読回を重ねる毎に、現代の預言者から、この時代や日本社会全般への厳しい警鐘が打ち鳴らされている感をひしと抱いた。
それはキリスト者に限らず、国民一般への良心の覚醒を問う時評であり、単なる考証ではない。
右傾化状況の著しい現在に必読の書であろう。
著者は7年前に大阪の聖天伝道所の牧師として復帰されたが、その前は、16年間、東京の砧教会、稲城教会で牧会をされ、共助会員にも友人は多く、親しい交わりの内におられる。
また、清教学園、恵泉女学園での教職経験が長く、その他、「教会と国家学会」の理事等の責任を担われ、更に無教会関連主催の講演活動にも積極的に協力しておられる。
本書は著者の第6冊目の著作であり、幅広い活動の中での説教や講話、論評等、約10年分を収録した大変な力作である。
とりわけ本書では、最近憲法改悪の動きが露骨に強化される中で、平和主義国家日本の基礎を脅かす、闇の勢力の実在を指摘される。
ルターが「サタンよ、退(しりぞ)け」とインク壺(つぼ)を投げつけた姿が思い起こされる。と同時に戦前戦中の殉教(じゅんきょう)者の姿を紹介する記事の中に、内坂牧師の苦悩を感じとる。
Ⅰ・Ⅱ部では、「教会と国家学会」の会報を中心として、各集会での政治的、社会的発言や論評が多く集められている。
社会への警告を多く発せられることから、「社会派」と決めつけられそうであるが、決してそのように単純に位置づけられるものではない。
内坂牧師は、専攻された政治学や教育及び牧会の経験の中で蓄積された姿勢を基に、十戒の唯一神信仰に堅く立ち、一切の偶像礼拝や教条主義を排して、神に対する個人格の応答の姿勢を重視される。
Ⅰ部でのテーマは、教育基本法改正、南京(なんきん)大虐殺事件、東日本大震災、原発問題、自民党改憲案、天皇制と偶像崇拝、3・1独立運動事件等を中心として展開される。
Ⅱ部では靖国問題、狂信的宗教集団、広島長崎平和式典問題等を取り上げ、更に歴史的視点としては日露戦争、従軍慰安婦(性奴隷)問題、竹島尖閣問題、また他に労働者派遣法改正案等々を扱う。
安倍内閣の右傾化姿勢と平和憲法の危機的状況を鋭く指摘する。
Ⅲ部では、伝道、復活と贖罪(しょくざい)の関係、十字架死の問題を中心として諸説教や聖書講解、伝道通信等が収録されている。
日本社会における、自然と〔個人〕の一体化という日本的自然主義の精神風土は、〔人間の生死や社会の出来事、さらには戦争までも、自然現象の一部であるかのように受け止めることにより、一人の人間として責任を担うべき〕個人〔として〕の自覚のない無責任〔なあり方〕に繋(つな)が〔るものであ〕り、
〔この精神風土は、一人ひとりに対し神への責任ある応答を求める〕創造主(しゅ)たる神の御意志とは異なる〔あり方である〕。
そこ(日本的自然主義)には〔、応答責任のある〕個〔人として〕の人格は介在しないと〔、内坂氏は〕強調される(注1)。
イエスは、その生前に神の心を「わが心」として生き、十字架の死につかれた。そのように生きられた主イエスこそを神は死から甦(よみがえ)らせて下さった。
私たちはこの復活の意義を自分の信仰の中心に据(す)えるべきであるとされる。
聖書には来世について多く語られてはいないが、イエスの復活の事実は、この世の敗北や死の絶対は最後のものではなく、神の御支配の下にあって、希望を持って生きることができると解き明かされる。
闇の勢力が横行する世にあって、その力に抗し、私たち自身も各々に与えられた十字架を担(にな)って生きる指針が示されている。
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(HP『キリスト教共助会-読書-』より。( )、〔 〕内は補足。下線は引用者による)
注1 日本的自然主義と無責任体質、キリスト教界の戦争責任
①ドイツと日本の戦後処理の違い
ドイツは、キリスト教(特にヒトラーと戦った《告白教会》)の精神に立って 国家的に自国の戦争責任問題と取り組み、責任の追求と処罰を行った。
第二次世界大戦後の日本とドイツの戦争責任問題に対する取り組みの差は、キリスト教信仰の土台の有無によるところが大きい思われる。
聖書によれば、神はご自身の息(霊)を注いで創造した人間に対し、神の呼びかけ(戒め)に責任をもって応答すること(応答的責任)を求めている。つまり聖書によれば、人間は、神から応答責任を求められている存在である。
この聖書的な人間理解がドイツの戦争責任への真摯な取り組みに繋がっている、と思われる。
一方、日本的自然主義(つまり多くの日本人の思考、行動様式)には、人間に呼びかけて正しく生きることを求め、責任を問う超越的な神が不在であり、その結果、多くの日本人には、自分たちの(戦争中の)行為が神から問われているとの自覚がない。
これが日本人の(戦争)責任意識の乏しさに繋がっている、と考えられる。
そして、歴史(根源的には、神)に対する責任を自覚できない人々(国民と為政者)は、戦争犯罪の事実を正視できず(歴史修正主義:歴史の事実を無いものとしてごまかし、改ざんする)、したがって歴史の教訓を学ぶこともできず、その結果、同様の歴史的誤りを繰り返す恐れが大である。
② キリスト教界の戦争責任
日本のキリスト教界にも、戦争責任・戦後処理の問題が存在している。
ドイツでは、ナチスに協力した旧約聖書学者J・ヘンペルなどは、戦後、それまでの言動や論文などが問題視され、ベルリン大学の教授職を剥奪されている。しかも今も、その検証が続けられている。
しかし、軍国主義下の日本のキリスト教〔界〕とキリスト教神学については、戦後70年の間、その批判的〔神学的〕検証が全くと言ってよいほどなされていない(月本昭男・講演「戦後70年」『日本の神学 55』日本基督教学会編、2016年。13、14項参照)。
そして、戦争に協力した(結果的に、信徒を戦争に動員した)神学者等の日本キリスト教界の代表的人物は、その多くが戦後も、何ら責任を問われることなく、罪を告白し謝罪することもなく、指導的な地位にとどまり続けた。→〖無教会早わかり④〗の注2「日本基督教団成立と制度教会」へ
日本のキリスト教界は今も、神から戦争責任を問われており、《悔い改め》を求められている。
キリスト教界の戦争責任を検証し、誤りを率直に認め罪を告白(謝罪)して将来への教訓を得ることは、《平和を作る者》としての現代日本キリスト者に引き継がれた根本的課題であると思われる。
私たちは、この課題にどう向き合うか。無教会もまた、神の前に問われている。
〔 〕内は補足。
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