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1925年(36歳)頃の三谷

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1889(明治22).2.6~1944(昭和19).2.17

神奈川県に生まれる。

教育者、国家哲学、法哲学を専攻。


明治学院普通部、旧制・第一高等学校を経て、東京帝国大学法学部卒業(1915年)。

一高(いちこう)在学中に新渡戸(にとべ)稲造、また内村鑑三に師事した無教会キリスト者。

 

青年の教師となることに天職を見いだし、旧制・第六高等学校(1915~26年、現・岡山大学)、旧制・静岡高等学校(現・静岡大学)、旧制・第一高等学校(1927~42年、現・東京大学教養学部の前身)などで法制、ドイツ語などを講じた。その他、中央大学、女子学院、東京女子大学でも教える。

  
内村から学んだ無教会的信仰を保ちつつも、自由に教会への協力を惜しまなかった。

岡山では日本基督岡山教会(現在の蕃山町教会)、1926年に東京へ移住後は大学の友人中川景輝の牧する日本基督千駄ヶ谷教会の長老を務(つと)めた(1926~30年)。

 

しかし、教会の内紛や教会的信仰と無教会的信仰の乖離(かいり)を深刻に経験し、退会(注1)その後は、畔上(あぜがみ)賢造の無教会集会を援(たす)けた。


大学在学中より健康に恵まれず、結婚後1年にして与えられた長女、晴子を生後3週間にして失い、その4ヶ月後には、愛する妻菊代にも先立たれて、自身も病床に伏すなど、深い人生の悲嘆を経験した。

これらの経験によって、彼の性格は深く、広く鍛錬(たんれん)された。


神を実践理性の要請として哲学的に基礎づけるカントに学びつつも、それを超え、ついに自己を徹底他者(キリスト教の人格神)に委ねて平安を得るところまで突き詰めた(「徹底他者論」)。

 

彼にとって個人の人生はもちろん、国家生活もこの平安に基礎づけられたものであった。

 

内村同門の藤井武(たけし)とともに、存在それ自身をもって周囲の人々に深い影響を与えた。

 

三谷民子(キリスト教女子教育に貢献)の弟。

 

主著:信仰の論理』(1926年)、『問題の所在』(1929年)、国家哲学』(1929年)、『法律哲学原理』(1935年)、『幸福論』(1944年)、『知識・信仰・道徳』(1946年)、『三谷隆正全集』(5巻、1965~66)

 

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(参考文献:『キリスト教人名辞典』日本基督教団出版局、1986年。『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2002年)

注1 教会的信仰と無教会的信仰

預言の声 三谷隆正現代教会の最大欠陥

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