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信仰と人生

信仰に生きる 015

2023年9月15日改訂

矢内原忠雄

預言者的実存

 ​ 哀 〗

prophetic existence

Great Sorrow

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評伝010預言者的実存・矢内原忠雄 ⑵

* * * *

 

一人はさみしい。
しかし、それは自分が他人に認められないからというような、利己的な、さもしい理由からではない。〔そうではなく、〕人〔々〕の認めない真理を、自分一人だけが見抜いているからである。

 

真理を認め〔ず、また真理に従わ〕ないのを見て、私は怒り、憤いきどお)る。しかし人に向っての憤りは空しく、その反響は己(おのに返る。

 

そして、〕己に〔立ち〕帰って、真理の傍(かたわ)らに立つ者がただ、微(かす)かに自分一人であるのを見るとき、そこに無限の悲哀(ひあい)を禁じ得(え)ないのである。

真理は〔本来、〕万人(ばんにん)に〔尊ばれ、〕仰がれるべきものであるにもかかわらず、しかも〔真理は〕常に少数者にしか認められない。

真理そのものに、この悲哀性がある。現世(げんせ)に於ける限り、悲哀は真理の属性である(注1)。したがって真理を知る少数者も、自ら悲哀をその性格とする人たらざるを得ない。

預言者エレミヤは、春浅き野に出て巴旦杏(はたんきょう、アーモンド)の花がすでに咲いているのを見た(注2)。

 

世の〕万人が日常、「目覚(めざ)めの木」と呼ばれるこの花を見ているけれども、彼らは見て〔いて、しか〕も見えないのである。

しかし、ただエレミヤ一人だけが、見るべきものを見た。神が目を開けて〔見張って〕おられることを、彼一人が気づいた

こうして〕彼は、聖召(めし)の出発点より、《悲哀の人》たるべく定められたのである。

ある日、〕彼は台所に立った。〔時に、〕北からこちらに向いて、鍋(なべ)が煮え立っている。

鍋の煮え立つのは、日常、誰でも見ている。しかし見るべきものを見たのは、エレミヤ〔ただ〕一人であった。

国民は、いたずらに自国〔、ユダ王国〕の天佑(てんゆう、注3)を誇っていた。〔そのような中、〕彼一人が、戦禍(せんか)が北から及んで、アッシリア〔帝国〕軍のために国土が蹂躪(じゅうりん)されることを見抜いた〔のである〕。

 

それは、国民として最も望ましくないもの、最も信じ得ないことであった。

しかし彼が神の正義と国民の罪とを並べて見たとき、彼が国民の行いつつある事件の真相を見抜いたとき、亡国の運命は不可避(ふかひ)の道として備えられていることを知ったのである。

民衆は(から)騒ぎをしている。偽(いつわり)の〔政治〕宣伝(プロパガンダ)の上に乱舞(らんぶしている。

そのような中、エレミヤ〔ただ〕一人が事実の真相と国難の原因とを見抜いている。彼の悲哀は、この認識から生じた〔のである〕。

この真相、この真理を公(おおやけ)に人〔々〕に語ろうか。〔だが、〕人〔々〕は自分〔の言うこと〕に聞くまい。

 

そればかりか、人〔々〕が自分をどのように取り扱うだろうかということも〔十分〕、分かっている。

今は(あ)き時代である。非常時である。自分一人が語っても、何になる。それは〔まさに〕犬死でないか。

そう思う。

そう思うけれども、神の言葉は〔わが〕骨の中に籠(こも)って火が燃えるかのよう〔であって〕、忍(しの)ぶに余り、耐えきれない。

それゆえ、〕エレミヤは語った。彼一人、真実に従って語った。彼のこの行動は、実に、悲哀そのものであつた。

 

結果は、彼の予期したとおりであった。

彼は​、〕恐喝と嘲弄(ちょうろう)、殴られ唾(つばき)され、拘留され投獄され、また自称、愛国者輩の私刑(リンチ)にあって井戸に投げ込まれた。


このようなことは、もちろん苦痛であつた。しかし肉体の苦痛は、エレミヤにとって最大の悲哀ではない。それは彼の悲哀の結果であつて、原因ではなかった。

 

むしろ、神の真理、事件の真相、国難の根本原因を彼一人が〔神から〕示され、彼一人〔が〕語って、〔一方、〕民衆はこれを知らず、これを語らず、ガダラの山坂を駈け下(くだ)る豚の群れのごとく、神の怒りへと、滅亡の湖水へと、盲進しつつあること

これこそ彼の悲哀であった。

真理は孤独に呻(うめ)いている。〔そして〕エレミヤもまた、孤独に呻いたのであった(注4)。

 

誰か一人〔が〕、神の真理を担(にな)わねばならない。

誰か一人〔が〕、神の真理のために《悲哀の人》とならねばならない。

誰か一人〔が〕、神の真理のために殺されねばならぬのだ。

思えば、真理は厳粛であり、悲哀である。

 

そしてイエスは、最大の《悲哀の人》であった

人類を見渡して義人(ぎじん)が〔一人も〕いないことを〔驚き〕怪(あや)しみ、誰か、人々のために己れを捨てて贖(あがな)いを為(な)す者はいないかと〔探し〕求めつつあったときに、進み出て十字架に上(のぼ)られたのがイエスであった。

 

彼一人が真理と共にあり、彼一人が真理に従って行動した。十字架のイエスは、徹底した悲哀〔そのもの〕である。

イエスを信ずる者は、イエスのこの生命(いのち)を賜(たま)わる。彼らは真理を知る眼と、真理を聞く耳と、真理を語る舌とを与えられる

 

それは、彼らの生涯が〔イエスに倣(なら)って〕悲哀の生涯であることを約束するものにほかならない

 

民衆が巻物(教育勅語)を拝んだときに、ただ一人、内村鑑三は巻物を拝まなかった(注5)。

民衆が〔日露〕戦争に熱狂するとき、ただ一人、彼は非戦を唱(とな)えた。

民衆が〔これで世界平和が来ると〕国際連盟を謳歌(おうか)するとき、彼ただ一人、平和がそこから生まれないことを見抜いた。

 

民衆が結婚の自由と便宜(べんぎ)とを思うとき、藤井武(たけし)はただ一人、結婚の神聖を唱えた。

民衆が〔関東大震災後の〕帝都復興と国運隆盛を祝ったとき、彼ただ一人、〔愛する祖国に向い、熱涙をもって〕「亡(ほろ)びよ」と叫んだ。


内村(ゆ)き、藤井逝き、日本は今や、非常時に遭遇(そうぐう)している。怖るべき事が起りつつある(注6)。

 

彼らに続いて《悲哀の人》となるべく定められている者は、誰であろうか。ああ

♢ ♢ ♢ ♢

(初出:『通信』5号、1933〔昭和8〕年3。矢内原忠雄『キリスト者の信仰Ⅶ 信仰と人生』岩波書店、1982年、233~235項を現代語化。〔 〕、( )内は補足)

 

注1 悲哀は真理の属性

属性(ぞくせい)とは、そのものにもともと備わっている性質のこと。また、あるものに固有な性質。その性質を欠けば、そのものでなくなるような性質のこと。

 

したがって、「悲哀は、真理の属性である」とは、「悲哀は、真理にもともと備わっているものである」こと、また、「悲哀は真理に固有な性質で、悲哀を欠けば、真理は真理でなくなる」ことを意味する。

 

注2 預言者エレミヤ

ユダ王国末期、ヨシヤ、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤの諸王の時代(前627~586年頃)にエルサレムで活動した預言者。


エレミヤの歴史的背景:

エレミヤはヨシヤ王の第13年(前627年)に預言者として活動を始めた。

そのころ近東の歴史は激変しつつあり、強国アッシリアが滅び、新バビロニアが台頭した。ユダ王国は、この新バビロニアによって政治的独立を奪われ、その一州となった。

エレミヤは国家存亡の危機において、人々がいかに新事態に対処すべきかを教示した旧約史上の偉大な預言者のひとりである。


彼の故郷はアナトテ(エルサレムの北東約6km、レビ人の町)で、祭司の家系であった(エレミヤ書1:1)。エレミヤは、ヤハヴェ宗教の厳格な祭司的伝統のもとに、教育を受けたと思われる。


エレミヤは20歳頃に預言者として召命(しょうめい)を受けた。

彼はまず、人々の不信仰を非難し、ヤハヴェに立ち帰ることを主張した(3:12、14、22)。そして北からスクテヤびとが攻撃することを預言した(1:13~)。

 

紀元前622年のヨシヤ王の宗教改革に、エレミヤは当初、賛成した。

改革では、礼拝所をエルサレムに集中することが要求されたが、エレミヤの家系は地方聖所の家系であったので、彼は親族に憎まれた(11:21~23)。

 

また、人々のエルサレム神殿に対する迷信を攻撃して神殿の滅亡を預言し、また非戦を唱えたことから、売国奴(ばいこくど)視され、民衆にも憎まれた(26章)。

 

弟子のバルクに今までの預言を巻物に書かせ、エホヤキム王の前で読ませたとき、王は怒ってその巻物を小刀で切り裂いた。

 

ゼデキヤ王のとき、彼はバビロニア王ネブカドネザルに服従することを主張したが、聞き入れられず、エルサレムはついに滅ぼされた。

 

その後、ユダの総督に任じられたゲダリヤが暗殺されたとき、バビロニアの報復を恐れたユダの人々は、反対するエレミヤを道連れにエジプトへ逃亡した。

 

エレミヤの最期(さいご)は不明であるが、エジプトで殉教(じゅんきょう)したと言われている。

(注2の参考文献:『旧約聖書Ⅷ エレミヤ書』岩波書店、2002年。『聖書 スタディ版 新共同訳』日本聖書協会、2014年、人名索引。『キリスト教人名辞典』日本基督教団出版局、1986年。『新聖書大辞典』キリスト新聞社、1979年)

 

注3 天佑(てんゆう)
天の助け、神の助けのこと。

 

注4 矢内原忠雄著「エレミヤ記の研究」より

「エレミヤよ、あなたを思うことは、私にとって霊感(インスピレーション)である。


あなたの悲哀は、万人の悲哀に勝(まさ)る。それは、あなたの真実が万人の真実にまさったからである。
あなたは秋天の星のように澄む。あなたを仰(あお)いで、我らは世と我らの虚偽を知る。


エレミヤよ、あなたのような生涯が世にあったとは!

あなたの労苦に比べれば、我らの労苦は児戯(じぎ)であり、あなたの信仰に比べれば、我らの信仰は妥協である。

 

あなたは、秋の野のりんどうのように澄む。エレミヤよ、〔主にあって〕、我らを深くし、また強くしてくれるように。」

 (『通信』36号より抜粋し、現代語化。( )、〔 〕内は補足)

 

注5

1891年の内村鑑三不敬事件のこと。

当時、第一高等学校の教師であった内村は、同校の教育勅語奉読式で、勅語の天皇の署名に対し宗教的礼拝を拒み、いわゆる〈不敬事件〉を起こして退職した。

 

彼は、その後の流浪と困窮の中から『キリスト信徒の慰め』、『余は如何にしてキリスト信徒となりしか』などの名著を著(あらわ)した。

注6 矢内原と当時の歴史的状況
以下、矢内原の略年譜とともに当時の歴史的状況を示す。( )内は矢内原の年齢。

 
1925(大正14)(矢内原32歳、以下同様):治安維持法成立。

これにより、国体の変革(天皇制の打倒)や私有財産制度を否定する結社やその加入者を取り締まる。後に、これが拡大解釈され、さまざまな反政府的言動の弾圧に用いら​れる。


1927(昭和2)(34歳):蒋介石、南京に国民政府樹立。田中義一内閣、蒋介石の北伐を妨害するため、日本人保護を名目に第一次山東出兵。


1928(昭和3)(35歳):関東軍(満州駐屯の日本軍)による張作霖(満州の実権者、軍閥)爆殺事件。第二次山東出兵。

治安維持法が強化され(最高刑死刑へ)、共産党系活動家を弾圧、大規模検挙。内務省に特別高等警察(特高)、憲兵隊に思想係設置。


1929(昭和4)(36歳):世界恐慌が日本に波及し、昭和恐慌へ。10月、矢内原、『帝国主義下の台湾』出版。


1930(昭和5)(37歳):3月、内村鑑三世を去る。7月、藤井武世を去る。


1931(昭和6)(38歳):2月、矢内原、『藤井武全集』刊行開始。編集、校正、発送に心血を注ぐ。


3月、10月、軍部のクーデター未遂。9月、関東軍が満鉄線路を爆破し、満州事変勃発。以後、国内に国家主義の機運が急速に高まる。年内に失業者約200万人へ。失業者が街頭に溢れる。


1932(昭和7)(39歳):3月、関東軍が満州国建国。5月、軍部、右翼による犬養毅首相暗殺。政党政治終わる。

3月、矢内原、『マルクス主義とキリスト教』出版。9月、満州旅行中に、匪賊(ひぞく)の列車襲撃に遭う。11月、『通信』創刊。


1933(昭和8)(40歳):3月、内村記念講演会にて「悲哀の人」を語る。家庭聖書集会(自由が丘集会)開始。


1934(昭和9)(41歳):ヒトラー、ドイツ総統兼首相に就任し、ナチス一党独裁を実現。


1936(昭和11)(43歳):2月、2・26事件。陸軍皇道派青年将校が将兵を率いて、岡田首相や重鎮を襲い、陸軍省や警視庁など占拠。以後、日本の軍国主義体制が急速に進む。

2・26事件に際し、矢内原、口髭(くちひげ)を落とす。「朝日講堂以後」、「民族と平和のために」の二つの講演により、日本の対中国政策を批判。


1937(昭和12)(44歳):7月、盧溝橋事件発生、日中全面戦争始まる。12月、日本軍は南京占領後の大虐殺により(南京事件)、国際的に激しい非難を受ける。


9月、矢内原、『中央公論』9月号に「国家の理想」を発表するも、全文削除。10月1日、藤井武7周年記念講演会にて「神の国」と題して講演。


講演の中で、矢内原は次のように語った。

今日は虚偽(いつわり)の世に於いて、我々のかくも愛したる日本の国の理想、あるいは理想を失ったる日本の葬(ほうむ)りの席であります。・・・

 

どうぞ皆さん、もし私の申したことがお解りになったならば、日本の理想を生かすために、一先(ま)ずこの国を葬(ほうむ)って下さい」と。

(『通信』47号、1937年10月)

(おのれ)社会的地位、職ばかりか、命さえも賭(と)した発言であった。


右翼・軍国主義者らはこれをとらえて、矢内原を攻撃。12月1日、矢内原、東京帝国大学に辞表提出(矢内原事件)。


翌年3月、「神の国」講演を回顧し、矢内原は個人雑誌「嘉信」に次のように書いた。


ある日、私は〔神の〕聖声(みこえ)を聞いた。


(ゆ)きて、〔わが言葉を〕語れ。しかし、これが最後である。この民に再び平和を語るな。私は、彼らの心を頑(かたく)なにして、わが審判を成し遂げるであろう』。
 

これを聴いて私はひどく恐れ、五体、震(ふる)えに震えて止まらなかった。


 今日はしも 我(われ)は世界に世は我に
  
(そむ)立つ日ぞ 五体ひた震う 

(『矢内原忠雄全集』第17巻、82項。現代語による引用)


1938(昭和13)(45歳):1月、『嘉信』創刊。2月、帝大聖書研究会を解散。


1940(昭和15)(47歳):6月、『イエス伝講話』出版。8~9月、朝鮮講演旅行。平壌での講演の責任者、警察の取り調べを受ける。9月、日独伊三国軍事同盟発足。


1941(昭和16)(48歳):12月8日、日本海軍が真珠湾を奇襲、陸軍はマレー半島に上陸し、太平洋戦争勃発。


1942(昭和17)(49歳):6月のミッドウェー海戦敗退を機に、各地で敗退を重ねる。


1943(昭和18)(50歳):9月、イタリア無条件降伏。12月、学徒出陣。


1944(昭和19)(51歳):7月、サイパン島陥落。12月、B29東京初空襲。


1945(昭和20)(52歳):3月、沖縄戦。8月、広島・長崎に原爆投下。8月14日、日本、ポツダム宣言を受諾。無条件降伏し、日本国敗戦。

本土空襲により東京・大阪を始め、日本各地の都市、焼け野原となる。

11月、矢内原、請われ、東京帝国大学教授(経済学部)に復す。
(注7の参考文献:矢内原伊作『矢内原忠雄伝』みすず書房、1998年、西村秀夫『矢内原忠雄』日本基督教団出版局、1975年、佐藤信ら篇『詳説 日本史研究』山川出版社、2017年ほか)

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