イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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* * * *
現代教会の最大欠陥
〔 1 〕
〔1-①〕
〔新約聖書の〕使徒行伝(ぎょうでん)第3章に、ペテロとヨハネの二人がエルサレム神殿に上(のぼ)った時、神殿の「美しの門」のほとりに座って物乞(ものご)いをしていた生まれつき足の不自由な人を、ペテロが癒(いや)したという記事がある(使徒 3:1~10)。
そして、この奇跡のため「民衆は皆、非常に驚いて、『ソロモンの回廊』と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に駆け寄って来た」とある(使徒 3:11)。
これを見たペテロは、群(むら)がった群衆に告げて、こう言った。
「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、私たちがまるで自分の力や敬虔さによって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか」と〔12節〕。
〔1-②〕
ここに記(しる)された奇跡は、どういう種類のものであったのか。〔そもそも、〕奇跡とは、どのようなものか。
そうした問題は極(きわ)めて重大ではあるが、今は、その問題には触れずにおこう。
しかしただひと言、つけ加えておきたい。
われらの信仰生活において、われらの魂(たましい)の内に驚くべき大変革が行われるのを実験(現実経験)する時、〔そして、〕その大変革が人間の力をいかに超絶(ちょうぜつ)し、また人間の想(おも)いを超絶していかに不思議であり、しかもこの上なく現実〔そのもの〕であることを実感する時、いわゆる奇跡〔問題〕など問題にもならない〔程〕小さな不思議であって、どうしてこればかりの不思議に躓(つまづ)いて疑惑の谷深く迷い込んだのかと、われながら自らの浅はかさに驚き、不思議に思うようになるだろう。
そして結局、それ以外に奇跡問題を解決する鍵はない。
人知(じんち)がいかに浅はかであり、しかも神の知恵がいかに深いかを切実に知り、身にしみて実感した人のみが、奇跡問題を解決する資格のある人である。
〔1-③〕
この資格なしにこの〔奇跡〕問題を解決しようとする者は、要するに、人知によって万事(ばんじ)を解明できるとの自信を持つ自惚(うぬぼ)れ屋である。
そのような自惚れに囚(とら)われている限り、人は日常茶飯(さはん)の世相さえ把握することはできない。
あらゆる不思議を合理化〔すなわち、もっともらしく理由づけ〕して、すべてを説明し去ろうする合理主義の自惚れ屋には、人情の機微さえ掴(つか)めない。
ましてや、宇宙の秘義(ひぎ)と神の大いなる力について〔、掴めないの〕は当然である。
真(まこと)の知恵に至る第一歩は、すでに〔哲人〕ソクラテスも教えたように、人知〔の限界〕についての謙遜〔な姿勢〕である。奇跡問題といえども、この真理の例外ではない。
〔 2 〕
〔2-①〕
しかし、私が今ここで問題にしたいと思うのは、奇跡それ自体〔という〕よりは、〔むしろ〕為(な)された奇跡についての群衆の感銘(かんめい)である。いや、むしろ、人々の感銘の〔向かった〕方向である。
という意味は、〔群衆に対する〕ペテロの叱責(しっせき)の言葉で分かる。
彼は言う。
「私たちがまるで自分の力や敬虔さによって、この人を歩かせたかのように、なぜ、私たちを見つめるのですか」と。
つまり、ペテロの行った奇跡において人々は、ペテロ自身の力や敬虔さ(今日(こんにち)の、我々の言葉で言えば「信仰」)を見つめ、〔また、〕このような力と信仰の所有者である人間ペテロを讃嘆(さんたん)するにとどまって、すべての背後にいて真に力の源(みなもと)である神を見ようとしないのである。
〔2-②〕
仮(かり)に、1928(昭和3)年の今日、この場所で、ペテロが為(な)したのと同じような驚くべき出来事が、ある篤信(とくしん)の人の信仰の業(わざ)として成し遂(と)げられたとしよう。
その場合、われらも昔のエルサレムの民たちと同様に、もっぱらその人を見つめ、その人の「力と敬虔」がその大業(たいぎょう)を成し遂げたかのように考えて、嘆賞(たんしょう)するのではあるまいか。
キリスト者を自任する人々の内の〔、一体、〕何人が、この場合に、この人を超えて、その背後にいる神を確実に認識し、真摯(しんし)に讃美することができるだろうか。
しかし、あえて奇跡を想定するまでもない。〔実際、キリスト者の間で〕いかにすべてにおいて、神よりも人の力と敬虔(信仰力)が崇拝されていることか。
その最も顕著な歴史的実例は、古くからキリスト教会内で発達した〈聖徒礼賛(らいさん)〉である。
聖徒を尊敬することが悪いというのではない。〔私は、〕聖徒にだけ見とれて、神を遠ざけるのを責めたいのである。
見よ〔。実際に〕、われらが常日頃、見聞する〔教会の〕礼拝において、祈祷(きとう)会において、また修養会、その他多くの「有益な集会」において、いかに〈信仰の人〉の「力と敬虔(信仰力)」〔の偉大さ〕が説(と)き聞かされていることか。
また〔いかに〕その「力と敬虔」が様々な善事を成し遂げる原動力であるかとばかりに説かれていることか。
彼らにとって、〈信仰の人〉とは、このような力と敬虔を持つ人のことである。したがって、〔彼らにとって、〕信仰とは、このような能力、または特技の一種である。
信仰において成長するとは、このような特技に熟達することである。〔つまり、〕自分自身が偉くなることである。〔自分の〕技量が上がることである。自分もまた、〔信仰的な〕英雄の一人になることである。
それゆえ彼〔ら〕は、いじらしいまでに刻苦勉励(こっくべんれい)して、自分の信仰的技量に磨(みが)きをかけようと、ひたすら努力する。
そして日夜、自分の内を省(かえり)みては、「どうも自分は、信仰が足らなくていけない」と言う。
〔 3 〕
しかしそもそも信仰とは、何を信じ仰(あお)ぐことなのか。
〔信仰とは、〕自分の技量を信ずることなのか。〔もちろん、そうではあるまい。〕そうでないなら、なぜ、自分の「力と敬虔」の足らないことばかり、嘆(なげ)くのか。
もし、信仰とは自分の力〔、つまり自力(じりき)〕に信頼することではないのであれば、自分の力が乏しくとも、それが〔一体、〕何か。
もし、信仰とは神を信じ、その全能を〔信頼をもって〕仰ぐという意味であるならば、神がおられ、神の力が全地を遍(あまね)く覆(おお)っていることを知る以上、われら自身の力が乏しくとも、それが〔一体、〕何か。
神が全知かつ全能、しかも限りなき愛であるのに、なぜ不足顔なのか。
なぜ自分の内ばかり省(かえり)みて、「弱い」の「乏しい」のと、朝から晩まで愚痴(ぐち)ばかりこぼすのか。神を礼拝すべき集会の廊(ろう)に来てまで、〔なぜ、〕自らについての愚痴ばかり並べるのか。
現代の教会に漲(みなぎ)る、この宗教的〔な〕泣言(なきごと)癖(ぐせ)において、現代の信徒一般がいかに自力主義的であって、また、人間注視(ちゅうし)的、神看過(みすごし)的であるかの顕著な一証左(しょうさ)を見ることができると私は信ずる。
そして、ここにこそ、現代教会の無力さの最大、最深の原因があるに違いない。
〔 4 〕
信仰とは、神を信頼することである。自己〔つまり、自力〕を頼(たの)みとしないことである。人〔間〕を仰がないことである。
雄偉(ゆうい)な業が成し遂げられるのを見る時、その業に人の「力と敬虔」ばかり見ることをせず、もっぱら、神の聖意図(みこころ)をうかがおうとするのが信仰である。
それゆえ、われら自身に力と敬虔(信仰力)が増し加えられ、その力と敬虔によってわれら自身が雄偉(ゆうい)な技量を発揮すること、そのことが信仰の祈り求めるものではない。
われらの力〔が〕弱く、敬虔〔が〕浅くとも、われら〔の状態〕にかかわらず、神の愛は無限であって、神の知恵は深く、〔神の〕力は偉大であるがゆえに、われら自身の弱さなど問題にならないこと、そのことが信仰である。
それゆえ、信仰は不足を言わない。泣き言(ごと)をこぼさない。
われらの信〔ずる力〕が弱くとも、〔それが一体、〕何か。
われらの力が乏しくとも、〔それが一体、〕何か。
〔われらの〕失敗が〔一体、〕何か。不振が〔一体、〕何か。
神がおられ、神が愛してくださる。その他(ほか)に、〔一体、〕何の不足がある〔というの〕か。
われらの惨(みじ)めさにもかかわらず、われらの希望は益々(ますます)輝き、われらの喜びは益々溢(あふ)れ、われらのものではない〔天来の〕力が、いずこからか来たり、われらの空虚(くうきょ)な全身全霊を満たし、かつ溢れざるを得ない。
そしてこれ以外に、われらに真の力が満ち溢れる方法はない。少なくとも信仰は、これ以外の方法を知らない。
このことは、キリスト教信仰のイロハ(初歩の初歩)である。
〔 5 〕
〔5-①〕
このことが分からないで、どうして他のことが分かるだろうか。
信仰においてさえ自己に執着し、自分の信〔仰〕力を誇ろうと焦(あせ)る者に、どうして〔神の御子(みこ)〕キリストの謙遜と捨て身が分かるだろうか。
しかし〔実に〕悲しいことだが、現代のキリスト教会内においては、この信仰のイロハが殆(ほとん)ど忘れ去られている。
それゆえ、そこ(教会内)では、自分の弱さに執着した嘆息(たんそく)が、耳を聾(ろう)するばかりに聞こえる。
しかし、〔神を〕信じ、〔神を〕信頼して、喜びと希望に溢れる歌声は響かない。うなだれて「偽善者のように暗い顔つき」(マタイ福音書 6:16)は、随所に見ることができるが、歓喜に満ち、希望に満ち溢れた顔の輝きを見ることは少ない。
私は、そこに現代キリスト教会の極(きわ)めて深刻な欠陥を認めざるを得ない。
〔5-②〕
信仰は、自分の「力と敬虔(信仰力)」に頼らないことを意味する。単純に、徹底的に、神の力とその限りない愛にのみ信頼することを意味する〔。すなわち、〈絶対他力〉としての信仰である〕。
だが、なぜ、多くの人は自己の状態ばかり眺(なが)め暮らして、救い主〔である〕神を仰がないのか。
もし、現代教会が、自他における人間凝視(ぎょうし)を断固やめるのでなければ、現代の教会は〔たとえ〕何にまで成長しようとも、決して、キリストの心を〔自らの〕心とする一体にまでは成長できない〔だろう〕。
〔否(いな)、〕教会が信仰のイロハさえ解しないならば、〔その教会は〕全く世俗化して政治的な〔勢力〕団体に成り終わるか、あるいは、微力な変質団体として、いつの間にか、その煮(に)え切らない存在を人々の目の前からかき消すことだろう。
(終わり)
♢ ♢ ♢ ♢
(三谷隆正「現代教会の最大欠陥」『問題の所在』一粒社、1929〔昭和4〕年を現代語化。〔 〕、( )内、下線は補足)
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