イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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5月<内村鑑三「一日一生」現代語訳
5月1日~5月5日
(2017年5月15日更新)
このページは、山本泰次郎、武藤陽一編『続 一日一生』(教文館、1964年)を現代語化したものです。
【5月1日】夜明け前にイエスは(伝道による疲労、能力の再充填)
明くる朝、まだ真っ暗なうちにイエスは起きてお出かけになり、人のいないところへ行ってそこで祈っておられた。
シモンとその仲間があとをつけて来て、彼(イエス)を見つけて言う、「皆があなたをお探ししています」と。
彼(イエス)は言われる、「ほかの隣の町々に移って、そこでも福音を説こう。そのためにわたしは出てきたのだから」と。
そして彼は出かけて全ガリラヤの町々の会堂で福音を説き、悪霊を追い出された。
(マルコ 1:35~39 前田護郎訳)
■「夜明け前にイエスは早く起きて、人のいない所に行き、そこで祈っておられた」と〔マルコ福音書に〕ある。
早起きはたぶん、イエスの習慣だっただろう。しかしこの場合、特に、その必要があったのだろう。
神の子といえども、能力(ちから)の消尽(しょうじん)なしに不思議な業(わざ)を行うことはできない。
確かに、伝道は最大の努力を必要とする。伝道は、自己を他(ひと)に与えることである。
〔それゆえ、伝道は〕単に筋肉または脳の疲労を感じるだけにとどまらず、自己の中心〔部〕の消耗を覚える〔ものである〕。
そして、これ(疲労と消耗)を癒(い)やしまた満たす者は、神だけである。
このような場合、祈祷は祈求(ねがい)ではない。霊の交流である。〔すなわち、〕わが霊が神の霊に接して、自己の空虚を神の満ちあふれるものによって満たされることである。
〔神の子〕イエスの場合においても、常に、この霊の再充填(じゅうてん、リーフィリング)の必要があった。
朝早く起きて人のいない所に行き、〔ひとり神に〕祈る。人に能力を奪われて、神に能力を補われる。神の人はこのようにして、その事業を継続するのである。(注15・42)
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【5月2日】神からの報いは十分に(善行の報償)
涙と共に種を蒔(ま)く人は
喜びの歌と共に刈(か)り入れる。
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
束(たば)ねた穂を背負い
喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
(詩篇126:5~6)
■神〔から〕の報(むく)いは十分に来世(神の国)において来ますが、その一部は現世においても、来ます。
我々が自分たちの種まきの業(わざ、神のみことばの伝道)に失望しないように、〔また〕我々が終末〔、つまり《神の国》完成時〕の収穫(しゅうかく)がいかに喜ばしいものであるかを知〔ることができ〕るように、神はこの世においても、我々の労働の結果(収穫)を与えて、我々の消えかかった希望を生き返らせてくださいます。
霊の〔業の〕結んだ実〔、すなわち、キリストにあって我々が生んだ霊魂の子〕を目撃することほど、〔この〕世で喜ばしいことはありません。
あるいは十年、あるいは二十年、〔心〕血と涙を注いで〔福音の種を〕蒔いた結果として、一人の本当のキリスト者が生まれたのを見る時、〔我々は〕自分の霊魂が天にも昇(のぼ)ろうかと思うほどに、喜びに溢(あふ)れます。
一人の〔愛する〕同胞(どうほう)が、宇宙万物(ばんぶつ)の創造主(つくりぬし)である父なる神を発見し〔、その懐(ふところ)に帰っ〕たのであります。
そして、わたしがこの発見を促(うなが)すための働きを担(にな)ったとのことであります。
歓喜の極、満足の極とは、〔我々が一人の〕人をその創造主に導いたことを知った時の感〔慨のこと〕であります。
(原著「善行の報償」より抜粋、注12・245)
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