イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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書評①
見えつ隠れつする「闇の勢力」への抵抗
日本基督教団神奈川教区巡回牧師
関田寛雄
本書における30に及ぶ諸論文の成立の「場」は3つある。
その一は、「教会と国家学会」である。
2001年に創設されたこの学会は、必ずしも大きい組織とは言えないがその発信内容は21世紀(19及び20世紀を踏えての)の諸問題に普遍的に対応する貴重な発言であり、著者はその事務局長を担当している。
第二は無教会関係の諸集会における講演及び論文であり、無教会の諸先輩との豊かな対話と共に一定の批判も述べられている。
第三は現在牧師である聖天伝道所及び諸教会における説教並びに講話である。
本書に一貫する著者の思想とその姿勢は、この時代に見えつ隠れつする「闇の勢力」への抵抗である。
すなわち近代日本の形成において天皇制の下、富国強兵の歴史を動かして来た、また大戦後も新たに動かしている国家主義の暴威の指摘とそれに対する民衆として、更にキリスト者としての抵抗であり、「真実と事実」を何よりも尊ぶ批判的精神の発露である。
それはまことに説得的であり、同時代に問いを持って生きる者に対する勇気と希望を与える助言でもある。
著者のこのような抵抗の根拠は聖書に立つ信仰である。特に第三部においては明確に時代の文脈に即して力強くそれが述べられている。
聖書の信仰のダイナミズムを大切にするゆえに、しばしば教会が陥る教条主義や「偶像化」がきびしく批判される。
「三位一体」にしても「神の子キリスト」の教義にしても、それらが歴史的ルーツを離れて固定化され正統主義の標語(スローガン)とされる所に教会のみならずキリスト教信仰そのものの枯渇(こかつ)を見るのである。
それは更に救いの理解にも及び、特にロマ書3章22節の「イエス・キリストの信仰によって」をめぐる解釈は注目すべき論義である。
律法主義による救いは福音によって否定されたが、「イエス・キリストを信ずる(私の)信仰によって救われる」とする信仰主義もまた福音によって裁かれなければならない。
救いはイエス・キリストの(信仰)真実の故に万民に及ぶという、贖罪(しょくざい)の主(しゅ)の主格的〔つまりイエス・キリストが主体となって人を救い、神に立ち帰らせてくださる、その〕仲介性が正(まさ)に福音なのである。この点は、著者が数回にわたって言及している重要な点である(「私の信仰」、「早天礼拝奨励」など)。
このような聖書に基づく預言者的信仰及び贖罪信仰を根拠とする発言は、この世界にうごめく「闇の勢力」を直撃するのである。
本書において著しい特色は「闇の勢力」の実態についての実に詳細にして豊富な情報の提供と、それについての著者の鋭利な批判的分析である。
これが本書の第一部、第二部を占めているのであるが、ここにおいて著者の熱い危機意識とそれを裏づける歴史的認識は、評者の認識不足を指摘されるばかりの貴重な証言であることを強調しておきたい。
その動機となっているものは日本人としての加害責任の自覚である。
カール・バルトが「聖書を新聞の如(ごと)く、新聞を聖書の如くに読む」と言ったとか聞いたことがあるが、著者の福音理解は正にそこから生れて来ているように思われる。
例えば「偽りの霊との戦い―自民党憲法草案の問題」は聖天伝道所の修養会での発題であり、「敗戦と天皇制」は大阪教区のある委員会での発題である。
今、日韓・日中の間で問題になっている「竹島」「尖閣(せんかく)諸島」の事にしても詳細な資料の下にまことにクリアな結論を導き出す、著者の調査の努力とそれを促す聖書的歴史意識には学ぶ所の多いものがある(237頁の各教科書における問題の扱いのリストなど)。
国益中心主義の、政府による教育への干渉が露骨に見られる現在、キリスト教主義学校の責任と使命が再確認させられるのである。
一キリスト者としての著者の信仰理解についてこのように述べている。
「信仰を個人の内面の事柄に限定してとらえ、社会や政治のこととは切り離して考える二元論的福音理解との戦い」が必然であり、「神の御前(みまえ)においては、個人であれ、国家であれ、罪は罪なのであって、悔い改めを求められることに変わりはありません」。
著者が日本基督教団の「戦責告白」を大切にする所以(ゆえん)である。
(『本のひろば』2016年8月号、キリスト教文書センターより)
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