イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月24日
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* * * *
私の罪は大きい。
しかしわが神〔の愛〕は、私の罪よりも大きい。
私の罪がどんなに大きくても、神は私を救ってくださる。
私はどこへ行けば、あなたの聖霊(みたま)から離れられようか。
私はどこへ往(ゆ)けば、あなたの聖前(みまえ)から逃(のが)れられようか。
〔たとい〕私が天に昇ろうともあなた(貴神)はそこにおられ、〔たとい〕私が陰府(よみ、注1)に床(とこ)を設(もう)けようとも、見よ、あなたはそこにおられます(詩編 139:7、8、注2)
私が逃れようと思っても、わが神の恩恵(めぐみ)の御手(みて)から逃れることは不可能である。
神は奈落(ならく)の底にまで御手を拡げて私を支え、私を救ってくださる〔のだから! 注3、4。
ハレルヤ。
わが魂(たましい)よ、主(しゅ)に感謝せよ。その驚くべき愛を〕。
♢ ♢ ♢ ♢
(『聖書之研究』44号「所感」、1903〔明治36〕年9月17日を現代語化。原文の黒丸は下線に変更した。( )、〔 〕内は補足)
注1 陰府(よみ)
注2 詩篇 139篇
「〔私は〕どこへ行けば、あなたの霊(れい)から離れられよう〔か〕。
〔私は〕どこへ逃(のが)れれば、〔あなたの〕御(み)顔を避けられよう〔か〕。
〔私が〕天に登ろうとも、あなたはそこにおられ、
〔私が〕陰府(よみ)に身を横たえようとも、あなたはそこにおられます。
〔私が〕暁(あかつき)の翼(つばさ)を駆(か)って海のかなたに住もうとも、
そこでも、あなたの〔御〕手は私を導き、右の〔御〕手は私を離さない。」
(7~10節 聖書協会共同訳、( )、〔 〕内、下線は補足)
注3 生きる張り合い
注4 キリストの王的支配
-キリストによる唯一の、全面的・越境的な支配-
「現代の改革派における「神の国」に関する神学の最も説得力ある姿は、ナチ独裁の全体主義的要求に反対した、ドイツ告白教会闘争の時代のカール・バルトに見出される。
それは、彼の「キリストの〔恵みと愛による〕王としての支配」(キリストの王的支配)に関する教説である。
バルトによって起草された1934年の「バルメン宣言」は、第一項において、神自身がイエス・キリストにおいて自らを完全かつ最終的に啓示し、それゆえにキリストの教会にとっては他のいかなる啓示の源泉も存在しない、ということを前提する。
〔第一項の冒頭は、次の通り。
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父〔なる神〕のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)
「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前に来た人は、みな盗人(ぬすびと)であり、強盗である。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネ10:7,9)
聖書において証(あか)しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉(みことば)である。〕
神は、イエス・キリストという御言葉において自らを啓示する(ヨハネ 1:14~18参照)。
神は歴史においても自然においても、政治的出来事においても政治的指導者を通しても、補足的に自らを啓示したりはしない。
このことから〔バルメン宣言〕第二項は、イエス・キリストが今すでに宇宙と諸々の力や権力の主(しゅ)であって、それゆえに人間の生のあらゆる領域の主であるという結論を出す。
それゆえにキリスト者にとって、キリストの声と並んで他の声を聴かねばならない(ヒトラー総統崇拝!)というような領域は存在しない。
いわく「私たちは次のような誤った教説を退ける。
それは、私たちがイエス・キリストに属するのではなく他の諸々の主人に属するような生の領域があるかのように教える教説(いわゆる「二王国説」)である。」
「あらゆる事物と状況は、解放し要求するキリストの支配の下にある。
あらゆる領域において、私たちは〔キリストによる〕義認(ぎにん)と聖化(せいか)を必要とする。」
キリストによる唯一の、全面的な支配に関するこの教説を選び取る神学的な根本的決断は、カール・バルトの「教会教義学」に由来する。
完璧さは求めずに、これを三点に要約してみよう。
1.〔「天上も地上(現世)も地下(陰府)も、つまり〕世界全体は、客観的には〔すなわち神の目から見れば、〕すでにキリストの中にあり、その支配の下にある。
なぜなら、神はキリストを〔十字架の真実のゆえに、死から〕蘇(よみがえ)らせ、〔天へと〕高挙(こうきょ)し、彼に天と地〔と地下〕のすべての権力を与えたからである(フィリピ書 2:6~11参照)。
死はすでに、生ける神の勝利に呑(の)み込まれた。
それゆえに、神の国と悪魔の国のあいだの世界史的な闘争は、〔すでに〕決着がついている。
キリスト教信仰においては、私たちはこの世を復活の光においてながめ、〔この世を〕キリストの勝利の確信の中に生きる。
たとえ〔信仰者の目に〕主観的にはまだ、すでに信仰している人々とまだ信仰していない人々〔の区別〕が存在するとしても、客観的に神〔の目〕から見れば、あらゆる人間はすでに〔、キリストの十字架によって〕キリストと和解し〔、神に受け入れられて〕ている。
アウグスティヌス的・ルター的な黙示録的キリスト論(黙示録中心に見た審き主キリストの姿)に代わって、ここではキリスト論的な終末論(救い主キリスト中心に見た終末の姿)が現れる。
つまり、〔歴史の〕終りまで続く神のサタンに対する闘争は、神がキリストにおいて、罪と死と悪魔に対して一度にすべてにわたる仕方で獲得した勝利へと変えられる。
終末論的未来〔の到来〕は、あと僅(わず)かに、キリストにおいてすでに「成し遂げられた」こと(=罪と死と悪魔に対する全面的な勝利と救済)の普遍的で公的な顕現(けんげん)であり得るにすぎない。
・・(以下、略)」
(ユルゲン・モルトマン著、福嶋揚訳『希望の倫理』新教出版社、2016年、55,56項「K.バルトのキリスト教的な終末論」より引用。( )、〔 〕内、下線は補足。原著: Jürgen Moltmann,Ethik der Hoffnung,Gütersloher Verlagshaus,München2010)
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原文 Original text
無辺(むへん)の愛
明治36年9月17日
『聖書之研究』44号「所感」
署名なし
我が罪は大(だい)なり、然(しか)れども我が神は我が罪よりも大なり、
彼は我が罪の大なるに係(かか)はらず我を救ひ給(たも)ふ、
我れ何処(いずこ)に行きて汝(なんじ)の聖霊(みまえ)を離れんや、我れ何処に往(ゆ)きて汝の聖前(みまえ)を逃れんや、
我れ天に昇るとも汝は彼処(かしこ)に在(い)まし、我れ我が榻(とこ)を陰府に設くるとも見よ、汝、彼処に在ます(詩篇第139篇7,8節)
我は逃れんと欲して我が神の恩恵の手より逃るゝ能(あた)はず、彼は奈落の底にまで彼の手を拡げて我を支え我を救ひ給ふ。 ( )内は補足。
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