イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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* * * *
1
〔1-①〕
矢内原(やないはら)先生の講演を私が直接に伺(うかが)ったのは、太平洋戦争(1941〔昭和16〕~45〔昭和20〕年、注2)が2年目になろうとする、1942(昭和17)年の暮れであった。
〔会場は、東京〕赤坂〔の〕溜池(ためいけ、現在の「外堀通り」)に近い、ある会館であったと思う。
講演の題は「キリスト教の主張と反省」と覚えている(注3)。
会場はほとんど満員であったが、講演が進むにつれて、聴衆の中には右翼団体の壮士(そうし、職業的活動家)のような者が潜入していることも分かった。
〔1-②〕
「矢内原忠雄」という均整のとれた名前を、私は中学生時代に読んだ岩波新書の第一・二巻、クリスティー著『奉天(ほうてん)三十年』の訳者として知っているにすぎなかった。
矢内原先生が1937(昭和12)年に大学を去り、その時に及んでおられる事情は(注4)、当日の講演を伺(うかが)っているうちに、やがて判然としてきた。
〔1-③〕
戦後になってから知ったことだが、この『奉天三十年』の訳著は、大学を退(しりぞ)かれ〔職を失って〕、いわば糧食の道を断たれた先生にとって、《天からのマナ》-モーセに率(ひき)いられてエジプトを脱出したイスラエル民族が荒野をさ迷っている苦難の時に、天から与えられたという食糧-となった由(よし)である(注5)。
2
〔2-①〕
やがて壇上に現われたのは、お名前から推測していた通りの、長身で端正な〔容姿の〕先生であった。
しかし鋭い気迫と深い憂(うれ)いが先生を包み、聴衆の大部分にも、それに応ずるかのような、張りつめた空気が満ちていることは、事情に疎(うと)い私にも感じられた。
会場の聴衆は、私語(しご)一つ交(か)わさなかった。
他人の様子や周囲の状況などには、およそ超然としている態度に慣れた、当時の旧制高校の一生徒にすぎなかった私にも、会場の異常な緊張〔感〕は伝わってきた。
〔2-②〕
矢内原先生は、〔大学を辞められ、野に下ったときに〕多摩川のほとりで詠(よ)まれた〔短〕歌を二、三首読み上げてから、うつむき加減のままゆっくりと、諭(さと)すような調子で話を始められた。
時々話の区切りで、先生がキッと〔睨(にら)むように〕顔を上げると、そのつど眼鏡がギラッと光ったのを覚えている。
〔2-③〕
話が〔旧〕満州(現在の中国東北部)〔における日本〕の植民政策のことに及(およ)んだ。
時代の立役者であった松岡洋右氏(外交官、注6)が、先生の満州政策に関する論文の意見を全く蔑視(べっし)したこと、しかし実は、先生がその論文で指摘されたような事柄が原因となって、満州間題がむずかしくなりつつあること、それは識者たちも認めざるを得なくなっていることを述べられ、
「〔真理を探究する〕学問には〔、何人(なんぴと)も決して無視することのできない〕権威がありますぞ」「学問の真理は曲げることはできない。(むしろ人は、《真理》の前に謙虚に頭(こうべ)を垂(た)れ、《真理》の語る声に虚心(きょしん)に耳を傾けなければならない。)」と先生は言われた(注7)。
その時聴いた《学問の真理》という言葉は、突然、まるで灼熱(しゃくねつ)された鉄の魂(かたまり)のように、私の胸に飛び込んできた。
《学問》についても無知な私だったが、この言葉は、今日(こんにち)に至るまで私の心の中に焼きついている。
〔2-④〕
神への〔一筋の〕信頼を指し示しつつ、当時の政府の高官たちの虚偽を攻める先生の舌端(ぜったん)は、静かな話しぶりの中にも激しい迫力があった。
「〔神の前に〕悔い改めよ」という要求は、〔神に依(よ)って立つ預言者的精神を喪失(そうしつ)し、自己保身のためにこの世の勢力と妥協・迎合(げいごう)して〕安閑(あんかん)たる、キリスト教会そのものにさえ向けられた(注8)。
〔2-⑤〕
やがて講演が半(なか)ばを過ぎ、「日本の興廃(こうはい)は、日本がキリストの福音の真理を受け入れるか否(いな)かにある」と先生が言われた時、突然、会場の中ほどの聴衆の間から、一人の〔右翼〕壮漢が拳(こぶし)をふりかざしながら立ち上がった。
「黙れ!」とか叫んだらしかったが、比較的端(はし)の方の席にいた私にはよく聞こえなかった。
しかし、ハッと息を呑(の)んだ次の瞬間には、低いけれど強烈な制止の声が一斉にその壮漢を押し包んでいた。
公開の講演会で、突然生じた事態に対して、こんなにも適切で効果的な聴衆からの反応を見たことはない。
もちろん、聴衆の間には何らの組織も予備訓練もありはしなかった。
しかしこの出来事は、語る者と聴く者との精神的な結合が、いかに強いものであったかを示していた。
〔2-⑥〕
壮漢はなすすべもなく席についた。彼がそのまま終わりまで講演を聞いていたのか、または途中で退場したのか、私は覚えていない。
人々もそんな一瞬前の出来事には、もう関心を払わないかのように、壇上の先生の方に目を向けていた。
騒ぎがすぐ静まる間、黙っていた先生は少し微笑をたたえながら、「ここは公開の講演会です。ケンカや文句は会が終わってからにしていただきたい」と言っただけで、また静かに話を続けられた。
「事態がどんなに混乱し、暗黒が世を覆(おお)っても、神を信ずる信仰には絶望はない」という先生の言葉は、当時の私にはよく理解できなかったけれど、ここには何かしら普通の基準とは異なるものがあることが、先生の話そのものと、途中での突発事件を通して感じられた。
3
〔3-①〕
先生の語り方は相変らずゆっくりとしていたが、口調は次第に熱を帯(お)びてきた。
というよりは、ためられ、抑えられていたものが突破口を見出し、激しくたぎり出たかのようであった。
そして、ほとんどすべての聴衆がそれに応ずるかのごとく、先生の一言(いちごん)一句と相(あい)呼応していることが、端の方やや高い場所に席をとっている私には、手にとるように分かった。
そして私自身も、いつのまにかその応答の中にひきずりこまれていった。
〔3-②〕
「私を憎む者は憎みなさい。私を笑う者は笑いなさい。
〔たとえ〕私は愚かであっても、私の宣(の)べる〔神の〕真理は正しいのです。
真理を愛する者は救われ、不義を慕う者は〔神によって〕審(さば)かれる。
これは厳然(げんぜん)たる神の言葉です」と言い終わって先生は壇を下りてゆかれた。
〔そして、〕満ちきった上げ潮が、突然引きはじめたかのように、人々は静かに散じて行った。
〔3-③〕
今にして思えば、人々の胸中には、深い感銘とともに、さまざまな決意が抱(いだ)かれていたに違いない。
年老(お)いた人々は、子供たちを戦線に送っていたでもあろう。壮年の人々は、やがて出て行くべき戦場を思ったに違いない。
そして、たとえ何処(いずこ)にあろうとも、盲目非情に思われる歴史の歯車の軋(きし)る下で、なおいかにして、ここに証(あか)しされている《真理》を守るべきかを想っていたにちがいない。
私自身は、初めて聞き、初めて見た〔生ける人格的〕《真理》に全身を震駭(しんがい)されていた。
だれが何を考えているかなどを推測する余裕もなく、会場を出ると、ただ夢中で、地面の底でも踏みつけるような勢いで、青山の通りを歩いて行ったことを覚えている。
4
〔4-①〕
1942(昭和17)年の暮れといえば、〔太平洋〕戦争は、緒戦(しょせん)の成功のために、一般国民〔大衆〕からはむしろ歓呼(かんこ)をもって迎えられていた。
私のいた〔旧制〕高等学校の、好人物で評判の一老生物学教授は、ある朝、威勢のよい戦果の報道に感(かん)極(きわ)まって言葉を発し得ず、教室で授業を待っていた生徒の面前で、感激に声を震(ふる)わせながら、自ら休講を告げて教員室に引き上げて行った。
〔一方、《平和の福音》を宣べ伝えた札幌の浅見仙作(せんさく)翁のように(注9)、戦時一色の世の中で戦争に反対した少数の者は、容赦なく、逮捕、投獄された。〕
〔4-②〕
こんな時代の中で、今から思えば、よくもあれだけの〔大胆な〕矢内原先生の講演が公開でなされ得たものだと、驚嘆する他(ほか)はない。
〔戦後になって、〕「あの時は、〔本当は〕自分も戦争には反対だったのだ」などと、自らの身には傷一つ負っていない人が、厚顔(こうがん)にも語るのを聞くと、私は常に耐えがたい嫌悪(けんお)の念に襲われる。
もしも〔あの時〕、もっと多くの人々が、矢内原先生のように職を賭(と)し、生命(いのち)をかけて《真理》〔の言葉〕を告げていたならば、きっと日本の歩みも別の道をとり得たのではなかろうか。
少なくとも数万、教十万の生命が空しく失われないで済(す)んだはずだ(注9)。
5
〔5-①〕
〔当時の〕私自身は、はなはだしく幼稚であり、歴史の帰趨(きすう)を見抜く眼も、神の経綸(けいりん)を信ずる信仰の体験にも欠けていた。
ただ戦争が進むにつれて露呈してくる、虚偽と、非人道的叫びと、不合理と不正とに〈非真理〉と〈不義〉とを感じとっていたにすぎなかった。
青年の自我を自覚する〔多感な〕時期の、魂の純個人的な動揺と、歴史の狂瀾(きょうらん)怒濤(どとう)の渦(うず)巻きの中にあって、私自身は、不安と懐疑に陥(おちい)り、ほとんどニヒリスティック(虚無的)な態度をとっていた。
〔5-②〕
しかし、その間にあっても、あの矢内原先生の「学問には権威がありますぞ」「真理を曲げることはできません」という言葉は、私の耳を離れなかった。
否(いな)、それは、私の暗き谷陰(かげ)の道にあって、ただ一つの導きの灯(ともしび)であり、自己崩壊に対する見えざる支柱であったと言ってよい。
私は直接、矢内原先生の門は叩(たた)かなかったけれど、別の〔導きの〕道によって、キリストの福音の真髄に触れることができたのは、暗い青年の日のかけがえのない幸(さいわ)いであった。
6
〔6-①〕
〔そして、〕矢内原先生の講演から三年と経たない中(うち)に-しかし、それは未来を確信できなかった者(私)にとっては、無限に長く耐えがたい時間であった-〔日本は戦争に敗れ、〕歴史の舞台は一転した。
〔しかし、〕《真理の言葉》は生き、厳然(げんぜん)と立っていた。
〔だが、真理を拒(こば)んだ〕〈虚偽〉〔の勢力〕は、その真理の壁に自らの頭を打ちつけて粉砕(ふんさい)し〔、〈虚偽〉に導かれた日本国は、灰燼(かいじん)に帰し〕た。
〔敗戦前後、〕日本をおとし入れた混乱と価値の変転の最中(さなか)にあっても、過ぐる日々に語られた言葉のどれが真実であり、どれが虚偽であったかだけは、何人(なんぴと)の目にも明らかであった。
〔6-②〕
真理を〔単なる〕知識としてとらえようとするならば、真理はあたかも虹の如(ごと)く、常に遠ざかり行(ゆ)き捕らえがたいであろう。
しかし真理を、真理への意志と決意の中に求めるならば、真理は常に、何人の目にも明らかにそこにある。
ただ、人はそれを避け、無視し、あざけるにすぎない。しかし真理は、いささかも損(そこ)なわれ〔はし〕ない。
7
〔7-①〕
やがて、理学部の学生となった私は、矢内原先生の長身〔の姿〕を、大学の構内にお見かけするようになった。(先生は〔戦後、〕大学に戻られることをあまり好まれなかった、と聞いている。)
戦時中の〔政治的・思想的な〕圧迫を解かれ、戦後、同じような事情で、大学に復帰した教授たちの間にも、その人格識見に〔は〕大きな差異があり、矢内原先生は、異なったイデオロギー(信念・思想)の人々からも〔、立場を超えて〕深い尊敬の念をもって見られていることなどを、経済学部の友人から聞いたのもその頃であった。
〔7-②〕
先生は〔新制の東京大学〕社会科学研究所長(1946〔昭和21〕年8月)、経済学部長(1948〔昭和23〕年10月)を歴任されてから、教養学部長(1949〔昭和24〕年5月)として駒場(こまば)に来られた。
旧套(きゅうとう)を守る〔こと〕に汲々(きゅうきゅう)としていた駒場の人々にとって、先生の着任はいささか脅威であったにちがいない。
私が教養学部の物理学教室に勤務するようになったのは、先生が学部長の時であった。
私は先生のいわゆる弟子ではないし、直接、先生の下(もと)で働くわけではなかったけれど、自然科学の実験的研究を志す者として、当時見るにも耐えなかった教養学部に勤めることを決心したのは、他(ほか)ならぬ先生が学部長であったからである。
〔7-③〕
やがて先生は、〔1951〔昭和26〕年12月、東京大学の〕総長として、駒場を去って〔本郷に〕ゆかれた。
しかし先生はいつも駒場の〔教養学部の〕若い学生諸君のことを、一番心にかけておられるように感じられた。
〔また、大学への警察の介入を巡(めぐ)る国会での証言(1952〔昭和27〕年)においても、〕先生は政府当局を相手に巧(たく)みな駆け引きをなさらなかった(注10)。
先生の発言はあまりに明確で、時として厳しかったかもしれない。
しかし、真にものを見る目を持った人は、先生の〔透徹した〕理想と〔同時に〕、細やかな配慮とを、先生の足跡(あしあと)に見出すであろう。
8
〔8-①〕
総長をお辞めになってからも、なお多忙であり、その上健康をひどく害された先生が(注11)、すぐれない健康をおして、駒場の若い人々のために、来て講演して下さったのが「人生の選択」と題するお話である。
〔それは、〕初夏の日ざしの強い日であった。
聴講を希望する学生が多く、会場は、はじめ予定されていた大教室から、〔広い〕講堂に移されたが、〔それでも〕なお多くの学生が通路にも立ちつくし、中には事務職員の顔も多く見受けられた。
〔8-②〕
グレーの夏服をキチンと着けられた先生は、長身を少し前かがみの姿勢で、時々両手をうしろで組みながら、満員の学生に〈人生の道〉を語りかけておられた。
それは、〈夢に見るまで愛する〉学生に対する、慈父というよりは、良き祖父の姿であった。
私は、約20年前の、あの講演会のことを思い出して感慨にたえなかった。
9
〔9-①〕
先生は晩年、《真理》という言葉を囗にすることを、あえて避けておられたように私には感じられた。
〔神の審判としての徹底的な〕敗戦と、とり返しがたい人々の生命を犠牲にして、確立されたかに見えた真理(平和の道)が〔今〕、再び見失われようとしているのではないか(注12)。
今や学問は、もはや、真理を戦い守り、それを来たるべき世代に受け継ぐべき光栄の業(わざ)ではなくなり、皮相的な経済の繁栄と、空しい余暇〔の消費生活〕の出現の中で、身を売り報酬と地位を得るための手段と化しつつあるのではないだろうか。
〔9-②〕
学問の府〔である大学〕が、何のために、誰のために、管理されるべきかにすら、明確な理念を持っている人は、必ずし多くはない。
《真理》はつねに、〈非真理〉によって侵害される危機にさらされているのである。
このような時〔代〕に、否(いな)、いかなる時にも、われわれがいかなる道を歩むべきかを、先生の〔戦中・戦後の〕講演が示唆しており、何よりも、矢内原先生の力強い生涯〔、その預言者的実存〕そのものが示している。
♢ ♢ ♢ ♢
(財団法人大学セミナー・ハウス発行・大学と人間叢書 第1巻『人生の選択-矢内原忠雄の生涯-』1963年、119~128項より引用。一部、ひらがなから漢字等に変えた。段落番号、( )、〔 〕内、下線は補足。原文は、東京大学教養学部学友会誌「学園」第29号〔1962年4月〕に掲載)
注1 鈴木 皇(ただす)
1925(大正14)年、東京生まれ。
1945(昭和20)年、東京大学理学部卒業、理学博士。専門は物性物理と原子物理。
東京大学教養学部物理学教室、上智大学理工学部(教授)ほか、早稲田大学、明治大学で物理学の講義を担当した。
キリスト教待晨(たいしん)集会。
著書:『闇から光へ』南窓社、2008年。『化学と物理の基本法則』岩波書店、2003年。『物理の小辞典』岩波書店、2000年。『電子-見えない主役(化学ライブラリー)』岩波書店、1986年。『われらの師・酒枝義旗先生』白鷺えくれ舎、1997年、他。
訳書:H.ティーリケ著『出会いと摂理』新教出版社、1985年。
注3 「キリスト教の主張と反省」講演会
この講演会は、1942(昭和17)年12月2日、赤坂三会堂にて開催された。
注4 矢内原の戦い
注7 究極の真理
イエスは言われた。
「私は道であり、真理であり、命〔そのもの〕である。私を通らなければ、誰も父〔なる神〕のもとに行くことができない。・・」
(ヨハネ 14:6、〔 〕内は補足)
人となった神のことば(ロゴス)であるイエス・キリストは、究極の、生ける真理である、と使徒ヨハネは証言する。
すべての真理は、イエスに極(きわ)まる。
真理を求める友よ、来たれ。生ける真(まこと)の真理・イエスのもとに!
無教会入門012〖無教会早わかり④〗注2「日本基督教団成立と制度教会」へ
本の紹介003内坂晃〖闇の勢力に抗して〗書評②注1「日本的自然主義と無責任体質-キリスト教界の戦争責任」へ
注12 もと来た道(戦争と亡国)への後戻り