イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
■上の「ネットエクレシア信州」タッチでホーム画面へ移動
Move to home screen by touching “NET EKKLESIA” above.
最終更新日:2024年12月7日
■サイト利用法はホーム下部に記載
* * *
・・・神は愛である〔ヨハネⅠ 4章8,9節〕。〔そして〕神の愛は、一人の滅ぶことも見逃さないであろう。
〔歴史の終末における《審判》の場で〕不信者に対して最後の有罪判決を下し、多数の人々を〔切り捨てて、〕〔永遠の〕《火の池》に投げ込むことを、キリストご自身が実行されるであろうか。
彼の絶対愛がこれを阻(はば)むにちがいないと私は確信する。
〔神の〕《義》は(注1)、最終的に〔神の〕《愛》に呑(の)まれるであろう〔。神の愛がすべての、すべてとなるであろう〕。(注2)
それゆえ、〔永遠の救いと滅びを決する〕最後の判決を下す前に、キリストみずから、あらゆる手段を用いて、死に至るまで悔い改めなかった人々のために、《十字架の福音》(注3,4)をたずさえて《黄泉》(よみ)にまでも追いかけ(注5)、救いへと導く努力に傾倒されるのではなかろうか(注6)。
そして、最後の〔神の〕法廷において、キリストみずから〔が贖罪(しょくざい)の〕十字架を立てられ、最後の赦しの宣言を与えてくださるのではなかろうか、と私はひそかに信じるのである。
私は、悔い改める(=神に立ち帰る)ことなく不信仰のまま死んで行かれた人々に対しても、十字架の福音は必ず有効であると信じたい(注7)。
だからこそ《福音》(救いの喜ばしい音ずれ)であり、《神は愛なり》〔であり、《キリストの勝利》なの〕である。
〔こうして〕《最後の審判》〔の場〕は、最後の救済〔の場〕となる。
それゆえに〔この驚くべき神の愛と恵みを前にして、〕今〔私は〕、「きみたち、悔い改めて(=人生の方向転換をして)福音を信じよ」と〔叫ばずにはいられない、また〕叫ばなければならない。
「神が御子〔みこイエス〕を遣(つか)わされたのは、世を裁(さば)くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ福音書 3章17節)
♢ ♢ ♢ ♢
(溝口正『復活』第348号、1995年9月掲載。「浜松聖書集会『みぎわ』2020年・第60号原稿募集のご案内」より転載。一部表現を変更。( )、〔 〕内、《 》、下線は補足)
注1 《神の義》 righteousness of God
ここでは、人間の罪に直面して示される《裁き》としての《神の義(ぎ)》を意味する。
注2 《神の愛》はすべてに打ち勝つ
「『エフライムは(*)わたしのかけがえのない息子、
喜びを与えてくれる〔最愛の〕子ではないか。
〔わが義のゆえに、放蕩(ほうとう)息子の〕彼を退けるたびに、
わたしは更(さら)に、彼を深く心に留(と)める。
彼〔に対して湧き上がるわが愛〕のゆえに、胸は高鳴り、
わたしは彼を憐(あわ)れまずにはいられない』
と〔神〕ヤハヴェは言われる。」
(エレミヤ書 31章20節、新共同訳参照。( )、〔 〕内および下線は補足)
*「エフライム」とは
「実り豊かな地」という意味。
ヨセフの第2子でマナセの弟。また、その子孫とされるイスラエル十二部族の一つの名。
パスチナ中央山地にあったエフライム族の領地は「エフライムの山地」と呼ばれていたが、預言書では「エフライム」はしばしば、北イスラエル王国の別称として用いられている。
(エレミヤ4章15節、7章15節、31章6,9,18,20節、50章19節、イザヤ7章2,5,8,9,17節、9章8,20節等)。
なお北イスラエルは、紀元前722年にアッシリア帝国に滅ぼされ、捕囚(ほしゅう)された。
*以下、A.ワイザー著『ATD 旧約聖書註解 21 エレミヤ書 25-52章』からの抜粋(ばっすい)。
「ここ(エレミヤ書 31章20節)では、〔エフライム(北イスラエル)の民を救済するという〕神の決断の過程が述べられ、・・神の救済意志の・・奥義(おくぎ)がダイナミックに描かれている。
『エフライムは、わたしのかけがえのない息子ではないか。』という神の〔自身への〕問いの中には、神と放蕩息子(北イスラエル)を結びつける・・〔何ものによっても〕決して消えることのない父〔なる神〕の愛・・が表現されている。
民の、罪の苦悩の告白と救済(すくい)への願いが(18,19節)、いわば《神の義》と《神の愛》の間の〔どちらが勝(まさ)るかという〕緊張を解消したのである。・・
《神の愛》の究極の秘密を〔民に〕理解させるため、神のこの自己啓示(20節)は、非常に『人間的に』記(しる)されている。
それは、すべての躊躇(ちゅうちょ)・・を乗り越える神の愛と慈(いつく)しみの〔究極的な〕力を示すためである。」
(A.ワイザー著『ATD 旧約聖書註解 21 エレミヤ書 25-52章』ATD・NTD 聖書註解刊行会、2005年、128~129項。( )、〔 〕内は補足、一部表現を変更)
注3 「君もそこにいたのか」
☆「Three Mo' Tenors - Were You There - 」:クリックしてYouTubeへ
☆「WERE YOU THERE // feat. Andrea Thomas 」:クリックしてYouTubeへ
☆「Were You There by Selah」(映像付き):クリックしてYouTubeへ
*「Were you there」とは
「Were you there」(君もそこにいたのか)は、キリストの《受難》(じゅなん)を歌った《黒人霊歌》。
19世紀に、米国のアフリカ人奴隷によって作曲されたと考えられている。
《黒人霊歌》は、アフリカ大陸から強制連行され、奴隷として米国に売られた黒人が、故郷の民謡の旋法やリズムに米国南部の《白人霊歌》などの影響を受けて、作り出していった特殊な宗教曲である。
内容的には、自らの苦しい状況を直接にはうたわず、むしろ聖書の題材に託(たく)して、自由へのあこがれ、忍従、哀愁、永生(永遠の生命)への願いなどをうたっている。
この曲は、ウィリアム・バートン によって1899年に、《黒人霊歌》として初めて讃美歌集(Old Plantation Hymns)に収められた。
「〔この曲は〕《受難》の黒人霊歌として、特に深い宗教的感情を表現した、すぐれたものの一つである。
十字架の主を見上げ、その死を目撃した・・人が、いま私たちの一人ひとりに訴えかけてくるような不思議な力ある歌詞である。・・」
(『讃美歌第二編略解』日本基督教団出版局、1974年、227~228項)
歌詞(1番)
Were you there when they crucified my Lord ?
Were you there when they crucified my Lord ?
Oh! Sometimes it causes me to tremble,tremble,tremble.
Were you there when they crucified my Lord ?
和訳
君もそこにいたのか、彼らがわが主〔イエス〕を十字架に付けたとき。
君もそこにいたのか、彼らがわが主を十字架に付けたとき。
ああ、〔確かに、私もそこにいた! 主を十字架に付けた彼らの中に!
そのことを思う時、〕
あの問いに、私〔の魂〕は震(ふる)える・・。慄(おのの)く・・。震える・・。
君もそこにいたのか、彼らがわが主を十字架に付けたとき。
(ルカ 23:1~24:12、讃美歌第二編 177番「あなたも見ていたのか」、讃美歌21 306番「あなたもそこにいたのか」参照。〔 〕内は意味上の補足)
注4 十字架の愛
注5 キリストは《黄泉》に対しても主(しゅ)
「それは、イエスの御名(みな)によって、天上(来世)のもの、地上(現世)のもの、地下(黄泉)のものすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神が崇(あが)められるためです。」(フィリピの信徒への手紙 2章10,11節、( )内、下線は補足)
*「黄泉」(よみ)とは
黄泉は死者の行く、暗黒の場所。
「陰府」とも書く。旧約(ヘブル語)ではシェオール(Sheol)、新約(ギリシャ語)ではハデース(Hades)。
旧約の時代には、黄泉は現世と永久に隔(へだ)てられ、神との交わりが断たれる場所と考えられていた。
「神の支配は黄泉にまで及ぶ」という信仰は、旧約後期になって初めて確立した(詩編 139:8、ヨブ記 26:6参照)。
キリストは、黄泉に対しても主(しゅ)となられた(フィリピ書 2章10,11節)。
(参考文献:小塩力、山谷省吾篇『旧新約聖書神学辞典』新教出版社、1961年、467項)
*「天上」、「地上」、「地下」という3層構造の世界像は、原始キリスト教時代の人々の世界像であり、この表現を用いて聖書記者は、現世のみならず現世を超えたあらゆる世界に及ぶイエス・キリストの普遍的な救済を伝えようとしている、と考えられる。
注6すべての人の救い
注7 神の恵みの働きは、時間や空間の制約を超える
7-①神はすべての世界の創造主
神の恵みには、時間や空間の制約はない。
また人間には、旧来の教会の伝統やドグマ(教義)を持ち出して、神の働きに対して制限を設(もう)ける権利はない。
神は、すべてものの《創造主》である。《時間》と《永遠》における現在と未来の全宇宙は、主のものである。
この世界(現世、現在の宇宙)の外(ほか)にどのような世界や生(せい)があっても、それは神に属するものである。
そして、そこにおいても神の恵みは働き続けるであろう。
7-②永遠に、《罪人》のあとを追う神の愛
神の恵みが働く範囲は無限であり、人々をご自身のみ許(もと)に集める(=救済する)ために、神は現世の有限な《時間》だけでなく、《永遠》を有しておられる。
このことは、イエス・キリストの救済(すくい)が完全な勝利に《予定》されていることを示す。神が用意された十分な時(永遠の時)を用いて、キリストは救済の業(わざ)を完成させることができるからである。
最も頑(かたく)なな魂(たましい)も遂(つい)には《悔い改め》に至るまで、キリストは《十字架の愛》をもって永遠に、《罪人》(つみびと)のあとを追い続けるであろう。
そして、迷い出た最後の一人が神に立ち帰るとき、キリストの救済の業は完成するであろう。
7-③すべての人の救い(万人救済)
このこと(上記7-②)は、「イエスの御名(みな)によって、天上(来世)の者、地上(現世)の者、地下(黄泉)の者すべてが膝をかがめる」こと、つまりすべての世界のすべての者においてイエスが主(しゅ)となる(フィリピ 2章10,11節)ということが真理であることを確証させる。
そしてわれらは、最終的にすべての人が救われるであろうという《万人(ばんにん)救済》の希望を信じることができるよう、励ましを与えられる。
7-④勝利者キリスト
救い主キリストの究極的な勝利は、《罪》と《死》の下(もと)に囚(とら)われている全人類(万人)と万物(自然界を含めた全被造物)を神の御許(みもと)へと奪還(だっかん)し、救済することである(ローマ 8章18~25節参照)。
その意味で、歴史とはキリストが究極的な勝利を納める過程にほかならない。
われらの《救いの確かさ》は、徹頭徹尾、キリストの側(がわ)にある。われらの側にはない。
《キリストの真実》、キリストの御業(みわざ)の確かさにのみ、ある(ガラテヤ 2章16節、聖書協会共同訳参照)。
われらのなすべきは、キリストの差し出す救い(=万人・万物の救済)に信頼し、これを感謝して受け取ることのみ。
キリストに対する信頼のこころ(信仰)さえも、神が与えてくださる。
キリストの救済に対する根源的な信頼と《平安》(シャーローム)を与えられ、われらは、感謝に溢(あふ)れつつ、神の御心(みころ)の成(な)るために全力を尽くすであろう。
《勝利者キリスト》に栄光と讃美あれ! ハレルヤ。
(注7の参考文献:斎藤正彦訳、ウィリアム・バークレー著『使徒(しと)信条新解』日本基督教団出版局、1970年、「第10章 陰府(よみ)にくだり」149~168項)
- 008-