イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
■上の「ネットエクレシア信州」タッチでホーム画面へ移動
Move to home screen by touching “NET EKKLESIA” above.
最終更新日:2024年12月7日
■サイト利用法はホーム下部に記載
小さき者
* * * *
〔イエスは言われた。〕
「心して、これらの小さき者たちの一人をもさげすむことのないようにせよ。
なぜなら、私はあなたたちに言う、天にいる彼らの天使たちは、天におられる私の父〔なる神〕の御顔(みかお)を常に見ているからである。
あなたたちはどう思うか。
もしある人に百匹の羊がいて、その一匹がさ迷い出たら、彼は九十九匹を山に残しておき、さ迷い出た一匹を探しに行かないだろうか。
もし、それを見い出したとなれば、アーメン、私はあなたたちに言う、さ迷い出てしまわなかった九十九匹よりも、むしろその一匹のゆえに、彼は喜ぶ。
このように、これらの小さき者たちのうちの一人でも滅ぶことは、天におられるあなたがたの父の意志(おもい)ではない」。
(マタイ 18:10~14、岩波訳参照)
1
〔1-①〕
このひとまとまり〔の文章〕のうち、初めの一節で言われている「彼らの天使たち」とは、幼児には一人びとり「守護(しゅご)の天使」がついていて、その天使は常に天の御父(おんちち)の聖顔(みかお)を見ているというので〔あって〕、〔古代ギリシャの哲人〕ソクラテスについていたという「守護の霊」(ダイモニオン)と似た考えでありまして、真(まこと)に美しい考え方であると思います。
そしておそらく、われら一人びとりのために何か「守護の天使」というような者がついていて、〔われらのために〕働いていてくれ〔てい〕るのではないかと考えられます。
しかしそれらの問題について、私ども人間は今〔は、〕多くを知ることはできません。
〔1-②〕
ただ、今の私どもにもよく分かることは、キリストがわれらに示してくださった神は、天におられる「われらの父」であって、父である神はわれら一人びとりのために〔実に〕濃(こま)やかに配慮してくださり、天父(てんぷ)のご記憶の内では、われらのごく小さき者、幼き者であっても、否(いな)、一羽の雀(すずめ)さえもが(マタイ10:29)、それぞれ独特の個(ひとり)として〔他との比較を超えた〕独自の〔価〕値を持つものである、ということです。
〔1-③〕
言い換えれば、天におられる《父なる神》は、われら造られた者を一人ひとり、個別的に記憶してくださるということです。
そして、このことがとりもなおさず、「神は愛である」ということの意味です。
またそのことを教えるのが、この「迷い出た羊」の譬(たと)え話です。
2
〔2-①〕
百匹の羊を飼っている人が、その百匹の内の一匹が見えなくなったので、九十九匹を山に残したまま、迷子になったたった一匹を探しに出かけるというのは、冷静な損得計算をする人から見れば、血迷った行動としか映らないかも知れません。
しかし、羊飼いがいかに自分の羊を愛するか、そのことを知る人にとっては、上の話は決して架空(かくう)の作り話ではなく、きわめて現実的な成り行きに即した実話で〔も〕あることが、容易に理解できるのです。
そして、その点において、イエスは世にも希な現実観察者であり、最も深い寓話(ぐうわ)家でした(語注1)。
〔2-②〕
「あなたたちはどう思うか・・・・九十九匹を山に残しておき、さ迷い出た一匹を探しに行かないだろうか」というイエスの言葉は、こうすることが羊飼いとしていかにも自然な情であり、当然〔かつ〕自明(じめい)のことであるかのような語気です。
〔2-③〕
そして事実、羊に対する羊飼いの情愛の程をよく知るユダヤ人にとっては、羊飼いのこの行動は容易に推測できることであって、きわめて当然自明のことでした。
否(いな)、誰であれ、愛の何たるかを良くわきまえている人にとっては、このことは、きわめて当然自明であるに違いありません。
3
〔3-①〕
ましてや、十人の子をもっている親がいたとして、そのうちの一人の姿が見えなくなった時〔には〕、九人の子供を家に残し置いて、迷い出たその一人を探しに出ない親がおりましょうか。
九対一というような損得計算は、この場合、まったく無意味です。
親はただ一人の迷児(まいご)のために、狂ったように探し歩かずにはいられないのです。
それが、親の愛〔というもの〕です。
〔3-②〕
概(がい)して愛とは、このようなものです。数の多少は〔まったく〕問題になりません。
一人ひとりが絶対的に、独自〔の価〕値をもちます。こうして、個(ひとり)の無限大の個性価を慈(いつく)しむのが愛〔なの〕です。
4
〔4-①〕
今からちょうど、六年前の春のことでした。私は生まれて一月(ひとつき)にも満たない独り児(ひとりご)を失いました。
まだ父母の顔の見さかいもつかないほどの〔小さな、小さな〕赤ん坊で、きっと他人が見たら一個の物〔体〕にも等しい存在だったでしょう。
〔4-②〕
しかし私ども親たる者にとっては、この赤ん坊は他にかけがえのない一個の人格でありまして、この小さき一人がいなくなったために生じた空隙(くうげき)は、他のいかなる人をもってしても、何物をもってしても、埋めることのできない空隙〔なの〕です。
〔愛児を失った〕その悲しみは、私がこの地上にとどまる限り、完全に癒やされることはないと思います。
〔4-③〕
同じことをまさに今、N 君ご夫妻やお祖母様方がお感じのことと存じます。
今日から文字通り、「起きて見、寝て見る蚊帳(かや)の広さかな」を実感されることと存じます。
ご両親方の現在の悲痛を完全に癒やし得るものはただひとつ、亡きお子様が甦(よみがえ)ること〔だけ〕です。
そのことが叶(かな)わぬ限り、今日のお悲しみが完全に癒(い)やされる日は、決して来ません。
5
〔5-①〕
それならば、幼き Sちゃんが甦る日は来るのでしょうか。それとも、そんなことは望み得(え)ないことなのでしょうか。
私には詳しいことは分かりません。
しかし私は〔創造者である〕神がおられて宇宙万物を主裁(しゅさい)し、人の世を摂理(せつり)されつつあると信じます(語注2、3)。
そして、その神は天におられる「われらの父」であって、絶大なる愛〔そのもの〕であられると信じます。
愛以外のお方として神を考えることは、私にとっては極めて不自然〔かつ〕不合理であって到底、不可能なことです。
〔5-②〕
そして神の愛なるものは、個(ひとり)の無限大の独自〔の〕値〔うち〕を慈しむものなのです。
人間の親でさえ、自分の子の絶対的〔な〕個性〔の〕価〔値〕を知り、これを愛(いと)おしみます。
ましてや、全能〔かつ〕絶対愛の神が、ご自分のお造りになったものを忘れるなどとは〔、全く〕考えられません。
〔5-③〕
われら人間は能力不足のため、たかだか十人、二十人位しか、心に深く刻んで〔その〕個性価を愛し、慈しむことができません。
われらが口にする「人類愛」〔なるもの〕は、要するに、それを口にするだけのことであって、〔実際には〕われらはただ漠然(ばくぜん)と〔頭に〕「人類」を思い描き、その「人類」に対する、つかみ所の無い「愛」を構想しているにすぎません。
われらの持つ「愛」は、〔現実には〕全人類を包むことなど不可能なのです。〔残念ながら、われら人間は〕それだけの能力を持っていません。
〔5-④〕
しかし神様は全人類を一人残らず個別的に記憶し、個別的に各〔人の、〕個性の独自値を愛し、慈しまれるのです。
そのことを〔印象〕強く〔われらに〕教えるのが、「迷い出た羊」のたとえ話です。
そしてまた、われら自身の〔人生における〕小さき愛の〔現〕実〔経〕験において、そのことを多少なりとも類推することができます。
6
〔6-①〕
〔生後間もない〕愛児を失い、続いて妻に先立たれた年の秋、私は貪(むさぼ)るように〔詩人〕ダンテの『神曲』を読みふけりました。
ある止(や)みがたい心の要求が、私をそうさせました。
そして『神曲』天国篇のある箇所で、天の王座を囲む、祝福された人々の席の中に、幼くして死んだ嬰児(みどりご)たちの席を見つけて、何〔故〕か知らず心うれしく〔なり、私は〕、詩人のこの想像に対して心からの同感と感謝とを送りました。
〔6-②〕
あるいは、〔何と〕たわいない想像かと嘲(あざ)笑う人がいるかも知れません(語注4)。
しかし私は、詩人の想像がそれほどたわいないものだとは考えません。
もし神がおられるならば、愛でなくて何であり得ましょうか。
そしてもし、神が愛であるならば、われら人間でさえ慈しむこの愛(いと)し児(ご)を、そのかけがえのない個性価を、どうして神が慈しまれない〔道〕理がありましょうか。
〔6-③〕
「一羽の雀(すずめ)さえ、天父(てんぷ)のお許しなしに〔は、〕地に墜(お)ちることはない」と、キリストは言われました。
全人類を一人ひとり、個別的に愛(め)で慈しむことは、われら〔人間〕の力には余ることです。
〔6-④〕
しかし、全能かつ絶大な愛であられる神は、全人類を〔一人ひとり、〕個別に愛(め)で慈しんでくださいます。
神様はあどけない Sちゃんをあらわに記憶してくださるに違いありません。
この小さき魂(たましい)は、今も〔愛なる〕神様の護(まも)りの内にあって、永遠に成長し続けるに違いありません。
神様は、永遠に Sちゃんを慈しんでくださるに違いありません。
決して、棄(す)て〔去るようなことは、なされ〕ないに違いありません。
その事実を目(ま)の当たりにする時が、いつの日か、われらの上にも来ると私は信じます。
♢ ♢ ♢ ♢
(原著:三谷隆正「S童子(どうじ)を葬(ほうむ)る詞(ことば)」、『知識・信仰・道徳』新教出版社、1971年、201~206項を現代語化。初出:畔上賢造主筆『日本聖書雑誌』第9号、1930(昭和5)年9月。( )、〔 〕内および《 》、段落番号は補足。下線は引用者による)
語 注
1.寓話(ぐうわ)
教えや教訓などを、動物や他の事柄に託(たく)して語る物語。アレゴリー。イソップ物語などが代表例。
2.主裁(しゅさい)
創造主(そうぞうしゅ)として、憐れみをもって義(ただ)しく裁定(さいてい)すること。
3.摂理(せつり)
この世を支配し、人間を最終的に善へと導く神の意志。また、遠大かつ細やかな聖計画(ごけいかく)によって、人の世と宇宙万物を完成へと導くこと。
4.たわいない
思慮分別がない。幼稚(ようち)で、とるに足りない。
注1 一羽の雀(すずめ)さえ
「二羽の雀は 1アサリオンで売られているではないか。
だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しが無ければ、地に落ちることはない」(マタイ 10:29、イエスの言葉。聖書協会共同訳)。
注2 ちいさいひつじが
ちいさいひつじが
The Good Shepherd
こどもさんびか 55番
作詞:Albert Midlane
作曲:Salvatore Ferretti
日本語訳:堀内啓三
1.
小さい羊が 家をはなれ、
ある日 遠くへ あそびに行き、
花さく野はらの おもしろさに、
かえる道さえ わすれました。
2.
けれどもやがて 夜になると、
あたりは暗く さびしくなり、
家がこいしく 羊は今、
声もかなしく 鳴いています。
3.
なさけのふかい 羊かいは、
この子羊の あとをたずね、
とおくの山やま 谷そこまで、
まいごの羊を さがしました。
4.
とうとうやさしい 羊かいは、
まいごの羊を みつけました。
だかれてかえる この羊は、
よろこばしさに おどりました。
(出典:日本基督教団讃美歌委員会編『こどもさんびか 改訂版』日本キリスト教団出版局、2002年、55番)