イエスの純福音・無教会の精髄・第二の宗教改革へ
― まごころで聖書を読む。そして、混迷の時代を神への信頼と希望をもって、力強く前進する ―
We read the Bible with all our hearts. And we move forward powerfully in this era of turmoil with trust and hope in God.
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最終更新日:2024年12月7日
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聖書に学ぶ 022
2023年9月11日改訂
詩篇研究
原著:藤井 武
現代語化:サカマキ・タカオ
詩篇 第23篇
ヤハヴェはわが牧者⑶
Psalm 23
The Lord is my Shepherd⑶
Takeshi Fujii
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牧者と羊たち
* * * *
ヤハヴェはわが牧者⑶
詩篇第23篇
〔 3 〕
〔神〕ヤハヴェは私を緑の野に伏させ、
憩いの汀(みぎわ)に伴われる。
〔3-①-ⅰ〕
牧者ヤハヴェは、ご自分の羊である私に〔対し〕何を為(な)されるか。
その第一は、生命(いのち)の供給である。羊の生命は、緑の草にある。流れる水にある。
〔だが、〕これ〔ら〕を荒野で見出すことは、難しい。
しかし、牧者は羊を導いて緑みずみずしき野に入らせ、そこに彼らを臥(ふ)させて、満ち足りるまでに食べさせるのである。
また彼らを連れて、静かなる水流(ながれ)の畔(ほとり)に出(い)で、十分に彼らに飲ませるのである(「野」と訳された語は本来、「住まい」または「憩いの場所」、ことに荒野における「オアシス」を意味する-デリッチ)。
〔3-①-ⅱ〕
人生の緑野は、何処(いずこ)にあるか。
常に新鮮でうつろうことなく、限りなく豊かで尽きることなく、まことの生命を人に供給してやまない緑の牧場(まきば)。このようなものは、はたして何処にあるか。
-答えて言う、聖書にある〔、と〕。
〈いのちの言葉〉の庫(くら)である聖書こそ、人生における緑の野である。
〔3-①-ⅲ〕
聖書はいうまでもなく、霊的生命の糧(かて)である。実に、唯一の糧である。聖書以外の何処に、真(まこと)の生命を人に供給するものがあろうか。
〔この生命は、〕われらが生来、所有する〔ついには〕朽ちるべき〔はかない〕、穢(けが)れた生命ではない。これと根本的に性質を異にする、聖(きよ)き《永遠の生命》である。
それは、キリストの十字架の福音に対する信仰によって与えられ、またすべての神の明白な啓示によって養われる〔コリントⅠ 1:18参照〕。
そして、この〔真理中の真理、宇宙最高の真理である十字架の〕福音とこの〔十全な〕啓示は、ただ聖書においてのみある(注1)。
それゆえ聖書を除いて、人のたましいの〔真の〕糧たるべきものは、何処にもない。
〔儒教経典の〕論語にもない。
〔大乗仏典の〕法華経(ほけきょう)にもない。
〔イスラーム経典の〕コーランにもない。
〔プラトンの〕『ソクラテスの弁明』にもない。
〔カントの認識論を記した〕『純粋理性批判』にもない。
〔ダーウィンの生物進化論を記した〕『種の起源』にもない。
〔ホメロスの古代ギリシア英雄叙事詩、〕『イリアッド』にもない。
〔ゲーテのロマン主義的戯曲、〕『ファウスト』にもない。
〔革命による社会主義社会実現の必然性を説いた、マルクスの〕『資本論』にもない。
〔ロシアの無政府主義者クロポトキンの〕『相互扶助〔論〕』にもない。
〔神の啓示に成る〕ただ一巻の旧新約聖書。そこにこそ《永遠の生命》が〔満ち〕溢(あふ)れている。
この貴(とうと)き糧によって養われる者のみが、「流れのほとりに植えられた樹のように、その期(とき)がくると実を結び、その葉もしぼむことがない。その為す所はすべて栄える」のである〔詩篇 1:3〕。
〔3-①-ⅳ〕
これを「緑」の野という。まことに聖書は永久(とこしえ)の緑である。
その中に記録された記事で古いものは、今から約3,600年前、最も遅いものですら1,900余年前の産物であるにもかかわらず、全篇、今なお新しき真理の光を放って、一点一画さえも凋落(ちょうらく)の面影(おもかげ)を留(とど)めない。
それは、たとえ幾千万人の手を経て伝えられても、最後の一人には常に、ある新しき啓示を与えずにはおかない。たとえ、どのような人がどれだけ深く聖書を探究しても、なお限りなく新しき真理を蔵(かく)して尽きない。実に驚くべき書である。
〔3-①-ⅳ〕
人の手に成ったすべての書は、遅かれ早かれ必ず〔、この世から〕葬(ほうむ)り去られていく。
時代の思想は一つの例外もなく、生まれたかと思う間に早や〔くも〕、亡びつつある。
「真理」という真理はみな、変遷(へんせん)に変遷を重ねつつある。
しかしながら、ただ聖書のみは動じない。変わらない。古びない。聖書のみは、いつまでも至高の権威を失うことなく、今も昔と同じく人の霊魂の最も深き所に、その地位を占めつつある。
「すべての人は草、その栄えはみな野の花のよう。草は枯れ、花はしぼむ。だが、われらの神の言(ことば)は永遠(とこしえ)に立つ」(イザヤ 40:6~8)。
〔神の言である〕聖書のみは、永遠の緑であって、移ろうことを知らないのである。
〔3-①-ⅴ〕
聖書-緑の牧場-人生の荒野における唯一のオアシス。彼らはここに導かれるのみならず、その中に「臥させ」られるという。
聖書は立ち食いに適しない。これは、右顧左眄(うこさべん)しながら盗み読みすべき性質のものではない。
われらはすべてを忘れ、安(やす)らかにその中に臥すべきである。聖書の中に身を涵(ひた)して、心ゆくばかりにこれを味わうべきである。「ヤハヴェの律法(おきて)を喜び、昼も夜もその律法を想う」〔詩篇 1:2〕べきである。
何故、恐れるのか。何故、心急ぐのか。何故、落ち着かないのか。
見よ、牧者ヤハヴェが私の側に立って、絶えず私を護(まも)りつつあるではないか。彼が、臥(ふ)すよう〔にと〕私に命じたのではないか。
「ヤハヴェは私を緑の野に伏させる」。それゆえ私は安らかに、ここに没頭するであろう。「起(た)て」との声が聞こえるまでは、手と足を伸ばし、頸(うなじ)を垂れて、満ち足りるまで福音的真理の饗応(きょうおう)に与(あずか)るであろう。
〔3-②-ⅰ〕
しかしながら羊の糧として〔は〕、緑草のみでは未(いま)だ足りない。これと共に必ず、水の必要がある。
水なしで草のみを食べても、ただ生命を養えないばかりではない。かえって生命に害をなす恐れがある。それゆえ牧者は「緑の野」に添えて必ず、「憩いの水」を群れに供給する。
〔詩人は〕言う、「ヤハヴェは私を緑の野に伏させ、憩いの汀に伴われる」と。
〔3-②-ⅱ〕
人生における水流は、何か。聖書の言に添えて我らが必ず受けなければならないものは、何か。
聖霊! 確かにそれである。
〔神の〕聖霊と共に受けなければ、聖書は糧としての用を全く成さない。
御霊(みたま)に導かれない聖書知識は、むしろ害あって益がない。それは、「文字は殺し、霊は生かすからである」(コリントⅡ 3:6)。
だが牧者ヤハヴェは、我らに生命の言である聖書を食べさせると共に、必ずまた、生命の水である聖霊を飲ませ〔てくださ〕る。
われらはこの二つの賜物を併(あわ)せ受けて初めて、生命より生命に進むことができる。
〔3-②-ⅱ〕
聖霊は〈水〉である。「イエスは立って大声で言われた。『渇いている人は誰でも、私のもとに来て飲みなさい。・・・』。これは、彼を信じる人々が受けようとしている聖霊について言われたのである」(ヨハネ 7:35~39)。
「私〔ヤハヴェ〕は乾いた所に水を注ぎ・・・あなたの子孫に私の霊(みたま)を注ぐ」(イザヤ 44:3)。
御霊(みたま)は、〈生命の水〉として我らをうるおし、我らを清め、我らを養う。
みたまの水を受けずに、我らの霊的な渇きは永遠(とこしえ)に癒やされない。
〔聖霊の注ぎがなければ、〕あたかも照る日烈(はげ)しきパレスチナの野に〔あって〕水なしに喘(あえ)ぐ羊のように、我らもまた、生ける神との交わりが得られずに、喘ぎながら人生の荒野を辿(たど)らねばならないであろう。
〔3-②-ⅲ〕
これに反して、「私(イエス)が与える水を飲む者は、決して渇かない〔。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る〕」のである(ヨハネ 4:14)。
みたまの水を注がれずに、罪は洗い潔められない。我らはただ、〔御〕霊に従って歩むことによってのみ、〔生来の〕肉の欲〔望〕を殺し、神を喜ばす生活を送ることができる(ガラテヤ 5:16、ローマ 8:9)。
みたまの水を注がれずに、我らは恵みに〔おいて〕成長することができない。みたまのみが、「我らを導いてすべての真理を教え」、我らに「能力(ちから)を与え」、我らに「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」の実を結ばせる。まことに、みたまのみが「力をもって我らの内なる人を強め」るのである。
〔3-②-ⅳ〕
みたまは、〈静かな水〉である。
邦訳聖書(文語訳聖書のこと。注)は原語を「憩いの水」と直訳しているが、カルバンの〔理〕解するように、「ダビデがこの語句を用いたのは、〈静かに流れる水〉を表すためだった」のであろう(1989年発行のNRSV・新改訂標準英訳聖書でも“still waters”と訳出。注)。
みたまはある時には、烈(はげ)しき火のように降(くだ)る。
しかしながら、聖霊の特性はむしろ、静けさにある。聖霊は深きを愛する。そして、深きものは原則として静かである。
みたまは偽善者のように〔、これ見よがしに〕自分の前でラッパを吹き鳴らさない(マタイ 6:2)。浅き急流のように、いたずらに激しない。
みたまは「水の絶えない泉」が溢れるように(イザヤ 58:11)、「ヘルモンの露がシオンの山々におりるよう」に(詩篇 133:3)、世の人の知らない間に静かにかつ深く我らのたましいに降って、これを潤(うるお)し、これを洗い、これを育(はぐく)むのである。
聖書と聖霊。〔この〕二者を我らは併(あわ)せ受けなければならない。聖書は聖霊をもって初めて、その奥義を私に伝え、聖霊は聖書を通してのみ、わが上に働く。
〔神の〕みたま無しには、〔聖書の〕言(ことば)は死せる儀文(=精神なき形式)である(コリントⅡ 3:6参照)。
みことばに由(よ)らない霊は、「神から出ていない、誤謬(まどわし)の霊」である(ヨハネⅠ 4:6)。
みことばに添えてみたまを併せ受けるときにのみ、私は〔まことの〕生命に満ち溢れるのである。
そして牧者ヤハヴェは、私を緑の牧場に臥させると共に、また静けき汀に伴われる。
生命の言葉〔である聖書〕と生命の水〔である聖霊〕。
〔これらは〕共に神から出て、限りなく豊かである。我らは日々、これを食べ、これを飲むことを許される。人生の荒野にあって、これと並ぶ幸いがあるだろうか。
〔現代〕人は、あるいは社会問題といい、あるいは文化生活といい、あるいは何々主義または何々思想または何々哲学といって、「糧にもならぬもののために金を支払い、腹の足しにもならぬもののために労」しつつある〔イザヤ 55:2〕。
そしてますます、自分のたましいを痩(や)せ衰えさせつつある。
だが〔神の深き恵みにより、〕我らはただ、古き、そして新しき聖書の中に、人生と宇宙の根本問題を学び、また聖霊に満たされて尽きることのない生命の供給に与(あずか)りつつある〔のである〕。
〔つづく〕
♢ ♢ ♢ ♢
(原著:藤井武「エホバはわが牧者なり(詩篇 第23篇)」初出『旧約と新約』第93号、1928〔昭和3〕年3月。「藤井武全集 第4巻』岩波書店、1971年、244~248項を現代語化。( )〔 〕内、下線は補足)
注1 啓示の書、聖書
啓示(けいじ)をさすギリシア語は アポカルプシス(apokalupsis) であり、「黙示(もくし)」とも訳されている。
啓示とは、神みずからが人間に対して自己を顕(あら)わす出来事をいう。
聖書の神は、人間の認識、経験を超越した、人間には《隠された神》であって、人間の努力によって知ることはできない(ルター、イザヤ 14:15参照)。 神のみが、深く隠されたその本質を、絶対的自由において人間に語りかけ、知らせることができる。
神はその愛ゆえに、歴史の中に自らを顕し示す。それは、人間を神との交わりの中に生きさせ、神の御旨(みむね)を行うものとするためである。
神は旧約の時代には、律法と預言者を通じて自己を顕した。しかし決定的な啓示は、イエス・キリストにおいて、その教えと業(わざ)、とくに苦難と復活をとおしてなされた。
それゆえ、イエスは「わたしを見た者は、父〔なる神〕を見たのだ」と言われる(ヨハネ 14:9)。
キリスト教信仰において聖書が不可欠である理由は、このように、キリスト教信仰が神の歴史的な啓示に基づいているためである。
聖書は本来、非歴史的な哲学的、普遍的真理を教える書物ではない。
もし、聖書が単に哲学的、普遍的な真理を教える書物であるならば、同じように普遍的真理を教えている他の書物も、同じような権威を持ちうることになる。
しかし、キリスト教信仰においては、人間と世界の救済は、イエス・キリストという人格を中心とする神の救済の歴史に基礎を置いている。
その救済の歴史は、イスラエル民族に対する神の働きかけに始まり、キリストにおいて成就(じょうじゅ)した。
しかも、上述したようにキリストにおける啓示は究極的・決定的なものであり、一回的なものである。それゆえ、この救済の歴史を記した聖書は、信仰の規範の書であり、究極的かつ十全な啓示の書ということができる(☆神学・論文001 E.ブルンナー【キリスト教とは何か ①】へ)。
今日、啓示は、聖書をとおして与えられ、信仰をもって受け容れられる。しかし、人間の言葉をもって記された聖書の文字が神の言(ことば)となって人のたましいに訴えるのは、聖霊の証示、解明による。
(参考文献:浅野順一編『キリスト教概論』創文社、1966年、3~4項、『新約聖書小辞典』新教出版社、1989年、65項)
注2 詩篇研究 「エホバは我が牧者なり(詩篇第23編)」
Psalm Study "The Lord is my Shepherd Psalm 23"
以下に、原文の一部を引用する。
原 文
Original text
・・・
聖書は立食に適しない。こは左顧右眄しながら盗み読みすべき性質のものではない。我等は凡てを忘れ安んじてその中に臥すべきである。聖書の中に身を涵して心ゆくばかり之を味わふべきである。「エホバの法を喜びて、昼も夜も之を思ふ」べきである。何故に恐るるか、何故に心急ぐか、何故に落ち着かないか。見よ牧者エホバ我が側に立ちて絶えず我を護りつつあるではないか。彼が臥すべく我に命じたのではないか。「エホバは我を緑の野に臥さしむ」。故に我は安んじて茲に没頭するであらう。「起て」との声の聞こゆるまでは、手と足とを伸し、頸(うなじ)を垂れて飽く迄に福音的真理の饗応に与るであらう。・・・
(『藤井武全集 第四巻』岩波書店、1971(昭和46)年、「詩篇研究 エホバは我が牧者なり(詩篇第二三編)」、245~246項より原文のまま引用)
注3 リビングプレイズ69番【鹿のように/As The Deer】
歌詞/作曲: Martin Nystrom
訳詞: 安田 諭
【鹿のように】
谷川の流れを慕う
鹿のように
主よ わがたましい
あなたを慕う
あなたこそ わが盾(たて)
あなたこそ わが力
あなたこそ わが望み
われは主を仰ぐ
【As The Deer】
As the deer panteth for the water
So my soul longs after You
You alone are my hearts desire
And I long to worship You
You alone are my strength, my shield
To You alone may my spirit yield
You alone are my hearts desire
And I long to worship You
- 022-